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聖書と稲荷?稲荷とキリスト?その2

稲荷とイエスを、結び付けたくなる話は、いろいろあります。

『山城国風土記』逸文には、このような伊奈利社(稲荷社)の縁起があるというのです。

秦氏の祖先である伊呂具秦公(いろぐの はたの きみ)は、富裕に驕って餅を的にした。
するとその餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去った。
そこに稲が生ったので(伊弥奈利生ひき)、それが神名となった。
伊呂具はその稲の元へ行き、過去の過ちを悔いて、そこの木を根ごと抜いて屋敷に植え、それを祀ったという。
また、稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」の字が宛てられた。

過去の過ちを悔いてといえば、キリスト教の懺悔が連想できます。

稲荷をINARIと書くと、Aを抜くとINRIなので、稲荷はINRIの当て字であるという説を唱える人もいます。

INRIとは、“IESVS NAZARENVS REX IVDÆORVM”の略です。

もちろんINRIとは、古典ラテン語で、“イエス ナザレの人 ユダヤの王”という意味です。

そういう話をしていたら、こんな感想が寄せられました。

稲荷は、復活の初穂としてのキリストを暗示しているのではないでしょうか。

油揚げは、油注がれた者としてのメシアであるキリストを暗示しているのではないでしょうか。       

確かに聖書の中でイエスは、初穂に例えられています。

コリント人への第一の手紙第十五章十五節から二十節です。

十五 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。
なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。

十六 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。

十七 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。

十八 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。

十九 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。

二十 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

INRIに漢字をあてる際に意味と音の両方から稲の字を用いたとみれば、説得力は出ますね。

ただ、稲荷のほか、稲生や稲成とも記します。

 荷の字は、ゴルゴダの丘で荷った十字架を思い起こせますね。

実際は、刑場の杭に付ける横棒だけを荷ったそうですね。

稲光や稲妻のように、雷の光や音を表すのに稲の字が当てられます。

稲光は文字通り光だけを表すのに対し、稲妻は雷鳴と電光の合わせた表現です。

イエスの誕生の際、夜にもかかわらず昼のように明るくなり空から声が聞こえたというのです。

それも、かなり広い範囲だったそうです。

稲生と言う書き方があるのは、イエス誕生の際の光と音を稲妻になぞらえている可能性はありますね。

ついでにいうと、聖書にはイエス・キリストを受け入れたクリスチャン達は「キリストの花嫁」となったと書かれています。

稲妻は、イエスの妻、すなわち花嫁とも解釈できます。

 御父は人々にイエスに帰依しろと、御父の声は求めているわけでしょ。

 イエスの花嫁になれ、という諭しとみれば、確かに稲妻と言えるかも。

さらに、イエスの誕生はモーセの訓戒、いわゆるモーセの十戒の成就と位置付けられています。

稲成とは、イエスによってモーセの十戒は成就したという気持ちも込められていると、解釈できそうですね。

どこまでも、解釈ですけどね。

 油揚げを、肉の代用として調理に使うこともありますね。

そう見れば、油揚げが油注がれた者としてのメシアであるキリストを暗示しているとみても、面白いですね。

そもそも、キリストの語源とされるメシアのもともとの意味は「油注がれた者」ですよ。

この油とは、オリーブ油のことです。

 秦氏の氏神であったとされる稲荷にも、こういう解釈ができてしまう。

 これでは、秦氏にキリスト教徒説が出ても、仕方ないですね。

ただ、こういう解釈ができる事柄が多いこと自体、稲荷を氏神としたとされる秦氏にキリスト教徒説が出る原因になっているわけですがね。      

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コメント

稲荷と言えば、私の場合は「こっくりさん」とか「雲」を思い浮かべてしまいます。
変性意識状態にあるみんなの手の揺らぎを合わせた振動が占いの答えを出す。
そうした「集合力学」による「場の空気の創造」が善い目的によって行われる場合に「キリスト」的な暖かさが出来るのかな…という気がします。

投稿: カーネーション | 2012年2月 2日 (木) 08時49分

狐狗狸(こっくり)については、諸説ありますね。

こっくりの名については、これが有力な説ですね。

机が「こっくり、こっくりと傾く」様子から“こっくり”や“こっくりさん”と呼ぶようになり、やがて“こっくり”に「狐(きつね)」、「狗(いぬ)」、「狸(たぬき)」の文字を当て「狐狗狸」と書くようになったという。

日本での起源については、15世紀のヨーロッパに遡れるテーブル・ターニングが、1884年に伊豆半島沖に漂着したアメリカの船員から伝わったと見られています。

あなたの言うような、なんらかの意識の状態によるという説のほか、不覚筋動と潜在意識の混合と見る人もいます。

ちなみに、聖書は占いを原則的に否定しているので、教会でこっくりとイエスを結びつける解釈をするところは、おそらくないと思われます。

投稿: cova | 2012年2月 2日 (木) 09時50分

なお、テーブル・ターニング自体も、降霊(交霊)と称して行われた歴史があり、ヨーロッパ社会のいわば裏歴史的なオカルトの系譜にあるといえます。

自己暗示とも、何かに憑依されたとも、解釈しえる状態も報告されているようなので、あまり嵌らない方が良いように、思われます。

投稿: cova | 2012年2月 2日 (木) 10時00分

雷は、神鳴りが語源でのようですね。

投稿: ペプシコーラ | 2012年7月13日 (金) 03時24分

雷は神鳴りが語源と言えば、イエスの誕生の際、夜にもかかわらず昼のように明るくなり空からかなり広い範囲で声が聞こえたということと合わせると、おもしろいですね。

神鳴りという言い方までが、聖書由来に見えてきます。

投稿: cova | 2012年7月13日 (金) 12時13分

イエスが磔刑にかけられた後、三時間くらい凄まじい雷や稲妻、暴風雨、地震による天変地異があったようです。
その後、天から声が聞こえ三日後に天からの声とともにイエスがアメリカ大陸に降臨したそうです。
その時、エルサレムとアメリカ大陸以外の羊のところにも行くと言われたようです。


イエス誕生の際は、暗くならない昼のように明るい夜があり、二昼一夜がしるしだったそうです。

テケサロニ人への手紙第一 5章5
「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。……」とあり、光を昼と表現しているので、蛭子神社の蛭(昼))=光(イエス)を連想します。

投稿: ペプシコーラ | 2012年7月14日 (土) 13時33分

そういえば、稲荷は伏見稲荷大社が総本社なわりには、東日本に勢力圏が広がると指摘されます。

それにたいして、蛭子や蛭児、恵比須、戎、ゑびすなどと書くえびす神社は西日本が多いと指摘する人もいますね。

十日ゑびすなど、気になる行事がありますよね。

ゑびすさんについても、そのうち調べて書いてみたいと思うのですが、信仰の実態についてもう少し情報が欲しいところです。

投稿: cova | 2012年7月15日 (日) 22時57分

ユダヤを連想できる遊牧民を意味し漢音がジュウである戎とも書く蛭子と、古代エジプトの太陽神崇拝の象徴を連想できる猿田彦、INNRIとあらわされるイエスが連想できる稲荷、面白すぎます(苦笑)

投稿: cova | 2012年8月 7日 (火) 22時42分

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