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アルメニア

アルメニア共和国、通称アルメニアの首都は、エレバンで、1991年に独立した共和制国家です。

アルメニア人は、アルメニアの人口の97.9%を占める主要民族です。

アルバニアは、東ヨーロッパに含められることもあります。

黒海とカスピ海の間にある国で、西にトルコ・北にグルジア・東にアゼルバイジャン・南にアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァン自治共和国があります。

山脈と高原が広がる山国であり、平地はまれです。

国土の90%において標高1000mを超え、3000m級の山岳も珍しくないそうです。

最大の平地は、首都エレバンが位置するアララト盆地で、名前が示すようにアララト山を見上げる位置にあります。

アララト盆地の高度は800m以上、中央部にはセヴァン湖が位置する、トルコとの国境を流れるクラ川の支流のアラス川の左岸に広がっている土地です。

なお、クラ川にはキュル川、アラス川にはアラクス川という記述がある場合もあるが、どちらもロシア側の呼称のようです。

ロシア領時代やソ連領時代があったので、ロシア語名称でも呼ばれるからでしょう。

アルメニアは、山国でありながら、森林は少なく、急流となった小規模な河川が多いです。

鉱物資源に富み、最南部で銅、亜鉛、モリブデンが産出します。

石灰岩は、全国に分布しています。

隣国のトルコやイラン同様、地震が多いです。

1988年に発生したアルメニア地震では2万5千人もの死者を出しています。

アルメニア人の7割は、アルメニア共和国外在住です。

インドヨーロッパ語族に属するアルメニア語を使用しています。

アルメニア人は自らを、ハイと名乗ります。

ハイの複数形はハイクで、アルバニア人、自らの国をハヤスタンと呼びます。

紀元前6世紀頃には国際的な商業活動を盛んに行っていたと言われ、紀元前1世紀にアルメニア高原を中心に大アルメニア王国を築き繁栄しました。

しかしローマ帝国とパルティア、サーサーン朝ペルシア帝国の間で翻弄され、両国の緩衝地帯として時に属州となることもありました。

1世紀頃にはキリスト教の布教が進み、紀元301年には世界で初めてキリスト教を国教としました。

その後サーサーン朝ペルシアの支配下に入り更にアラブの侵攻を受けるが、9世紀半ばにはバグラト朝が興り、独立を回復しました。

しかしバグラト朝も長くは続かず、セルジューク朝やモンゴル・ティムール朝などの侵入が相次いで国土は荒廃しました。

12世紀にアルメニア王国や東ローマ帝国が衰退・崩壊した後は、世界中に拡散し、このアルメニア人の離散もまた、ディアスポラと呼ばれます。

アルメニア人は、商工業の担い手として各地にネットワークを広げて活躍したので、この点はよくユダヤ人と比較されることも多いです。

オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国の領内で独自のコミュニティを形成し、これらを結ぶ形でアルメニア商人の商業網が構築されました。

例えば、イランの絹を17世紀にはアレッポ、18世紀にはイズミル経由でヨーロッパ市場に供給しました。

また古代から兵士としての能力があり、プルタークや東ローマ帝国皇帝ニケフォロス2世はアルメニア兵の能力を自らの著書で賞賛しています。

また、トゥールーン朝、ファーティマ朝といったエジプトの王朝には亡命アルメニア人によって編成された部隊が存在していたのです。

東北大学大学院国際文化研究科教授北川誠一は古代のアルメニア人の最初の職業は軍人であり、それがキャラバンと結びついた。古代のキャラバンは商人と武力は密接な関係があると指摘し、それがアルメニア人が兵士と商人で名をはせた要因になったという説を提唱しています。

現在、シリアやイスラエル及びイランには、比較的大規模なアルメニア人社会が存在します。

ヨーロッパではフランスに40万から50万人といわれるアルメニア人が住み、政界・銀行・芸能など多方面に進出して、フランス社会に大きな影響力を持っています。

アメリカにも80万人近いアルメニア系の住民がいます。

移住先で独自のネットワークを築き、宗教をアイデンティティとすることなど、アルメニア人とユダヤ人には共通している側面もあります。

共通点と言えば、家族性地中海熱という遺伝子による病気もその一つです。

家族性地中海熱は、ユダヤ人の中でも特にスペインやポルトガルに多かったスファルディに発症例が多いのです。

家族性地中海熱は、特定の民族に発症する遺伝病で、風土にも関係しないし、伝染もしません。

1636年にアルメニアはオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシアに分割統治されるが、1828年のトルコマンチャーイ条約によってペルシア領アルメニアはロシア領となります。

ペルシャに住んでいることは、アルメニア人に家族性地中海熱の発症例が見つかる理由にはならないようです。

ペルシャはイスラエル十支族が散らされた土地の一つだが、ペルシャ人には今現在、家族性地中海熱の発症は、報告されていないのです。

19世紀後半になるとオスマン帝国の支配下にいたアルメニア人の反発も大きくなり、トルコ人民族主義者との対立が激化しました。

1915年から1917年までにオスマン帝国により「敵国ロシアに内通した」という理由で、アナトリア半島東部に住むアルメニア人が150万から200万人も虐殺された事で対立しており、トルコは謝罪と賠償どころか虐殺自体を否定しているために、アルメニア人のトルコに対する憎しみは強いです。

アルメニア人にしてみれば、トルコマンチャーイ条約によってペルシア領アルメニアはロシア領となったので、内通はとんだ言いがかりという事になるでしょう。

これがいわゆるアルメニア人虐殺で、生き残ったアルメニア人も多くは欧米に移住するかロシア領に逃げ込みました。

家族性地中海熱はトルコ人にも報告があるが、イスラムのトルコ人とキリスト教のアルメニア人、しかも、両者の間の歴史から見ても、トルコとの関係が原因とも言いかねるようです。

家族性地中海熱は、イタリア人やギリシャ人にも見られる遺伝病です。

面白いことに、トルコ人、イタリア人、ギリシャ人、いずれも日本人と似た顔が見つかる民族なのです。

 スペインやペルシャ、ロシアも日本人に似た顔がいますね。

それはそれで、また興味深いですけどね。

今回は、家族性地中海熱という日本人と共通の遺伝病がある民族として名前が挙がったので、アルメニアに注目しているのです。

まだ、アルメニア人と日本人の似た顔についての話題はないが、まだお互いが身近な存在ではないので比較例が乏しいだけでしょう。

日本人もまた、家族性地中海熱の発症例がある民族なのです。

そして、日本人には日ユ同祖論があります。

スファルディとのまだ解明されていない関係が、発症例のあるこれらの民族との間にあった可能性は否定できないかも知れません。

ロシア革命後に民族主義者によりアルメニア民主共和国が樹立されるが、赤軍の侵攻により崩壊しました。

ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国の一部となった後、1936年にソビエト連邦を構成するアルメニア・ソビエト社会主義共和国となりました。

1988年にアゼルバイジャン共和国にあるナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニアに帰属替えを求めるアルメニア人の運動が起り、これに反発したアゼルバイジャン人との緊張の中で衝突が起り、両国の本格的な民族紛争に発展しました。

この、ナゴルノ・カラバフ帰属をめぐる紛争は、ナゴルノ・カラバフ紛争と呼ばれています。

ナゴルノ・カラバフ紛争を契機として、アルメニアは独立を宣言したがソ連軍の侵攻を受けたのです。

しかし1991年にソ連保守派のクーデターが失敗した為、同年9月にアルメニア共和国は独立を遂げました。

しかしナゴルノ・カラバフ自治州を巡るアゼルバイジャン人との紛争は現在も続いています。

1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)に加盟しました。

近年はアルメニア大統領が、アゼルバイジャン、トルコの両国を訪問するなど、関係修復を目指して対話を行っています。

また中世の東ローマ帝国ではアルメニア系の王朝が建てられたことがあります。

なお、アルメニア人は単性論のアルメニア教会の信者がほとんどです。

アルメニアは、古くからワインの製造が盛んです。

これもあるいは、キリスト教の影響かもしれません。

ワインはしばしば、イエスの血の象徴とされてきました。

なにしろ、1世紀にはキリスト教が広まり始めた、世界最初のキリスト教を国教化した国でもあります。

特にブランデーは有名で、アルメニア・コニャックと呼ばれます。

もっともブランデーが有名になった背景には、ソ連時代にいったんブドウ畑が潰されワインが廃れたためにブドウの蒸留酒であるブランデーつくりが盛んになったといういきさつがあるといいます。

アルメニア料理は、アジアでも古い料理のーつであり、ザカフカスでは最も古い料理であるといいます。

その特徴は、すくなくとも西暦紀元前一万年のアルメニア民族形成期に形づくられ、現代にいたるまで三千年以上にわたって、多くのものを残しているそうです。

肉や野菜を串焼きしたホロバツは、トルコ料理のシシカバブと言った方がなじみが深いかもしれません。

ホロバツは、ロシア語ではシャシリクと呼ばれています。

ホロバツは、ラワシという薄皮のパンで包んで食べます。

また、ぶどうなどの葉にご飯を包んだトルマもまた、今ではトルコ料理のドルマとして知られているが、起源はアルメニアであるともいわれています。

アルメニア料理はセルジュク・トルコの料理に大きく貢献し、その後、実はアルメニア料理である多くの料理が、トルコを通じて、あたかもトルコ料理であるかのようにヨーロッパに知られるようになったほどなのです。

たとえば、先に挙げたシシカバブやドルマなどがそうです。

アルメニアは肥沃な盆地を擁し、古くから農業が盛んだったこともあって、スペルト小麦、きび、大麦、小麦、米などの豊富な穀物類が作られています。

また、いんげん、大豆、レンズ豆、山えんどうといった豆類の種類も、注目して良いでしょう。

さらには、じゃがいも、玉葱、りんご、マルメロ、乾あんず、くるみ、果物も、マルメロ、プルーン、レモン、ざくろ、乾ぶどう、乾あんず、レモン、ざくろ、すももなど、食材も多彩です。

ほかにも、なすび、青トマト、かぼちゃ、熟していないくるみ、西瓜の皮なども調理の材料となります。

アルメニア料理は、手間暇かけることでも知られています。

アルメニアの肉、魚、野菜料理の多くの調理は、つめ物づめ、泡立て、ピューレやスフレなど、時間と手間を惜しみません。

しかも、東方の料理によく見られるように、いくつもの手間のかかる過程は組み合わされて食を彩ります。

アルメニア料理にも、自然の肉料理があることは言うまでもありません。

たとえばアルメニア・シャシリーク、パストイネル、肉クチュチであり、家禽の丸のままの料理もあります。

チーズや濃縮バターも、アルメニア料理に欠かせないが、出来上がる味は、いわば口でとろけるような気持のよいデリケートな濃さと、特に極端でもない酸味とピリッとした味、風味ですぐれていると言います。

おそらく、チーズや濃縮バターは日本食でいえば、味噌や醤油、菜種油のような役をしているのでしょう。

日本では、まだまだなじみの薄いアルメニア料理だけど、一度店が出来れば案外広まるのは早いかも。

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