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ドイツと日本の企業観の類似を考える。ドイツと日本 その2。

興味深い記事を見つけました。

コダックの経営破綻の背景には、日本やドイツとアメリカの企業観の差に原因があると言う考察です。

でも、私にはこんなところでも日本とドイツの精神文化の類似性が見られることの方に面白さを感じました。

なぜコダックは破綻したのか 日独とは違う企業観
2012.6.3 10:00
http://www.sankeibiz.jp/business/news/120603/bsg1206031001000-n1.htm

 写真フィルムの巨人、米コダックが倒れた。
一方、日本の富士フイルム、コニカは事業の多角化によって生き残りを図っている。
この明暗をわけた背景には日米における企業観の違いがあると筆者は説く。

 お国柄が反映された4社の縮退への対応

 この1月にコダックが日本の会社更生法に当たる法律の適用を申請したというニュースが伝えられた。

 このニュースは日本のビジネスマンを驚かせるものだった。
同社は、世界の写真フィルム産業のリーダー企業であった。しばらく前まで高収益の超優良企業だった。
このような会社が倒産するというのは日本ではありえない話だ。
ニュースを聞いて間違いではないかと思った人も多かったに違いない。

 写真フィルムはかつて世界で4社しか製造できなかった商品である。
アメリカのコダック、ドイツのアグファ、日本の富士フイルム、コニカの4社の寡占市場であった。
そのために、上位企業はかなりの利益を得ていた。
ところが、デジタル写真技術の進歩で、銀塩式の写真フィルムの需要は縮退してしまった。

 4つの企業の縮退への対応の仕方は、お国柄を反映してずいぶん異なっている。

 ドイツのアグファは、X線写真とその解析技術を深掘りし、プロ用の市場、医療用の市場というニッチを深く耕すことによって生き残りを図ろうとしている。
このような専門市場は大きくないが、技術が生み出す価値に対する対価を払ってくれる市場である。
規模を求めないドイツ的な対応だ。
日本のコニカは、写真機メーカーのミノルタと合併し、デジタルカメラや複写機など技術の幅を拡大し生き残ろうとしている。
同じく富士フイルムは、もともと事業の多角化をしてきた企業であるが、複写機、デジタルカメラ、電子部品・電子材料など、蓄積された技術の周辺で応用分野を広げる形での事業・商品の広範な多角化によって生き残りを図ろうとしている。

 それと比べると、コダックは、企業買収という形で事業の多角化を図ったが、社内技術の深耕や幅の拡大にはそれほど熱心ではなかった。
その背景には、企業の多角化に関するアメリカの投資家の否定的な態度がある。
アメリカの投資家は、企業が事業を多角化しても投資効率が改善されることは少ないと考える。
多角化するぐらいならそのお金を投資家に還元すべきだと考える。
投資家は、自らのポートフォリオを組み替えることによって、もっと効率的に多角化ができると考える。
企業は余剰なキャッシュを持つべきではないし、事業は集中化すべきだと考える。
こうした投資家の意向を大切にしたコダックは、事業の多角化に慎重にならざるをえなかった。

 米国に見られる企業観「企業用具説」とは

 こうした投資家の意向を考えると、コダックの経営は単純な失敗だったと結論できない。
儲かっているときは、それを投資家に配分し、儲けられなくなれば、速やかに市場から退場すべきだと考えるアメリカの投資家の期待通りの経営だ。
日本の経営者にとって、企業倒産は深刻な失敗だが、アメリカでは、倒産は日本ほど深刻な問題とはとらえられていない。
その背後には、ドイツや日本とは違う企業観がある。
日本やドイツでは、企業は人々の共同体であり、それを存続させることが経営者の責任であると考えられているが、アメリカでは、企業は投資家が利益を得るための用具にすぎず、その価値がなくなれば、市場から退場したほうがよいと考えられている。
存在意義を失いかけた企業を存続させようとするのは無駄な努力であり、その努力は、ゼロから企業をつくることやよい企業をさらによくすることに使うべきだと考えられる。
そちらのほうが努力の効果は大きいからだ。
企業の内部にある技術も同様である。
衰退しつつある企業が、その関連分野で技術の応用を考えるよりは、それを社会に還元することによってもっと高収益の機会を見つけるべきだと考える。

 日本やドイツに見られる企業観を、経営学では「企業制度説」という。
それに対するアメリカの企業観を「企業用具説」という。
投資家だけを考えれば、企業用具説が正しいと考えられるべきだが、なぜドイツや日本で企業制度説のような企業観が生み出されたのか。
ドイツの場合には、ワイマール共和国時代に台頭した産業民主主義のイデオロギーが、その背後にあるといわれている。
日本の場合はどうだろうか。2つの背景がある。1つは、従業員や取引先などの利害関係集団との長期取引の約束である。
もう1つは、明治の半ばごろの資本主義の成立以来、日本に存在した反営利主義のイデオロギーである。

 企業制度説に従っている日本の経営者は存続を重視する。そのために経営の安定化を図るような戦略が採用される。
事業を集中化すれば、もっと高い利益率を得ることができるのに、経営の安定化のために事業の多角化を図る企業もある。
将来への種まきである。

 写真フィルムと同じような縮退に直面した他の産業でも、日本企業は生き残りを志向してきた。
かつては天然繊維の紡績産業やレーヨン産業も、技術進歩に伴う需要の縮退を経験している。
造船業は、国際競争力の低下によって、市場の縮退に直面した。テレビ市場が縮小してしまった家庭電器産業もこのような縮退に直面している。
 企業制度説に従っている日本の経営者は存続を重視する。
そのために経営の安定化を図るような戦略が採用される。
事業を集中化すれば、もっと高い利益率を得ることができるのに、経営の安定化のために事業の多角化を図る企業もある。

 これらの産業でも、日本の企業は存続を重視してきた。
イギリスでは、紡績企業は消滅してしまったのに対し、日本の紡績業やレーヨン産業の企業は生き残っている。
われわれは、このことをよいことだと考えているが、米国流に考えれば、ほかの用途に使えばもっと大きな価値を生み出していた経営資源を、将来の成長機会の乏しい企業の存続のために使ってしまっているという意味で問題だと考えることができる。
企業が倒産するのは、経営資源を外に吐き出すという意味で社会の生産性を高めるという機能を果たしている。

 アメリカにはこのような議論をさらに進めて、つぶれてもよいという特性こそ、株式会社のメリットの一つだという極端な主張をする人々もいる。
株式会社という制度があるからこそ、企業はリスクテーキングができるというのである。
企業用具説だから出てくる考え方だ。

 興味深い見方ではあるが、このようなやり方は、リスクテーキングのつけを他のステークホルダーに持っていくという意味で株主のモラルハザードを誘発するという問題がある。
しかし、そのような企業観を持つ投資家がいるということをよく知っておかねばならない。(PRESIDENT Online)

日本やドイツでは、企業は人々の共同体であり、それを存続させることが経営者の責任であると考えられているという類似点が指摘されています。

 企業制度説ですね。

 その一方で、ニッチを深く耕すことによって生き残りを図ろうとする規模を求めないドイツ的な対応と、経営の安定化のために事業の多角化を図り将来への種まきをしようとする日本的対応という、文化の差も注目していますね。

歴史が生み出した民族性の差は、仕方がないですよ。

むしろ、ドイツの場合のワイマール共和国時代に台頭した産業民主主義のイデオロギーと、日本に存在した反営利主義のイデオロギーを、比べて見たいですね、

 企業は営利だけのために存在するのではないという発想を共有している点が、日本とドイツの面白いところですね。

聖書のマタイによる福音書第4章4節には、イエスのこの有名な言葉があります。

人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。

モーセにも類似の預言があり、申命記第29章5節に載っています。

あなたたちはパンを食べず、ぶどう酒も濃い酒も飲まなかった。それは、わたしがあなたたちの神、主であることを、悟らせるためであった。

どちらも、食べる事より神の言葉に従う事の方がより重要であると言う意味であり、人は少しくらい食べないでも死なないが神の言葉に背けば必ず死に至るという意味でもあります。

日本やドイツの企業観の背景には、企業は利益のためではなく、人々の役に立つためにあるという価値観があるように思えます。

そして、それは極めて聖書の価値観に近いように感じられるのです。

 アメリカの企業用具説には、同じアメリカ生まれの思想であるプラグマティズムと、共通するところがありそうですね。

プラグマティズム自体は、pragmatisch というドイツ語に由来する実用主義、道具主義、実際主義、行為主義とも訳されることのある言葉です。

ところが、プラグマティズムという思想はイギリス経験論を引き継いで生まれました。

プラグマティズムは、経験不可能な事柄の真理を考えることはできないという点を、イギリス経験論と共有しています。

物事の真理を実際の経験の結果により判断し、効果のあるものは真理であるとするもので、神学や哲学上の諸問題を非哲学的な手法で探求する思想なのです。

企業用具説は、企業は実用的である限りにおいて存続できるが、その実用性とは利益を上げることであるというわけです。

そして、利益は出資者のものであり、出資者に利益を生まなくなった企業は潰し、その経営資源は新たな実用性、すなわち利益を生む企業に投入すべきというわけです。

ここには、生産活動より祈りが大事であり、祈りのための時間を生産活動で失うのは馬鹿らしいとするピューリタン的発想があると言えます。

 思考は結論を得るための道具に過ぎないから、思考の価値は有用性で決めればよい。

 有用性のある思考が良い思考であり、真理即ち有用性とみて、有用性さえ確認できれば思考の探求なんてものは打ち切り、その時間を祈りに使おうと言うわけですね。

しかし、何のために祈るのでしょう。

救いを得るためだけでしょうか。

 祈りとは、救いだけではなく、神の教えの真意を得るためであるということですか。

思考の効率性だけを求めるなら、神の言葉の真意に思いをはせる時間を割くより、祈りが大事なのでしょうか。

 本末転倒ですね。

本末転倒に陥りやすい議論だからこそ、リスクテーキングのつけを他のステークホルダーに持っていくという意味で株主のモラルハザードを誘発する危険性もあるわけですよ。

 リスク分散という名のもとでリスクを拡散させることになった手法を編み出した金融商品も、結局はリスクテーキングのつけを他のステークホルダーに持っていくという発想から生まれた。

失敗しそうになったら、さっさと切り上げて次を考える。

アメリカはやり直しが容易な社会と言われるが、その裏には、発想の切り替えの早さもあるが、モラルハザードのリスクもあるわけです。

 日本をやり直しのしやすい社会にするのも良いが、アメリカ社会の持つモラルハザードしやすさは、持ち込まない工夫がいる。

そういう事でしょうね、

 日本やドイツには、労働と祈りを対立させない価値観がある。

そうかも知れません。

カソリックにも祈りと一体となった労働を重視した修道院を多く作ってきた歴史があるし、日本の仏教にも作業と一体となった修業を重視した寺は多くあります。

ドイツはプロティスタントを生んだ国でもあるが、祈りと一体となった労働を重視した伝統は失わなかったと言う事かも知れません。

 ドイツの日本への親近感は、異質な文化圏に囲まれた歴史の中で、世界の中で仲間を探したいという彼らの切実な思いの反映かの知れない。

その日本に対し、ゲルマンの血が流れていると見る人たちがいるのは、面白いですね。

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