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2012年8月

性教育を考えてみた。

性教育で、真面目に質問しようとする人に対して、スケベ、いやらしい、淫ら、といったレッテル貼りをしたがる風潮が一部にあるそうです。

そのため、そういうレッテルを貼られたくないために質問をためらう雰囲気が漂うことになりがちなのだとか。

 そこをどうするかですよね。

人を馬鹿という人は自分が馬鹿。

人をスケベという人は自分がスケベ。

人をいやらしいという人は自分がいやらしい。

人を淫らという人は自分が淫ら。

人は自分を尺度に人を測りたがると言い返せば、反論すればするほど、しどろもどろになり、墓穴を掘るでしょうね。

 自分の言ったことが何を意味するか、ちゃんと解らせる有効な方法ですね。

 もちろん、答えに困って絶句することもあるでしょうけど。

カニは自分の甲羅に似せて穴を掘ると、昔から諺にありますよ。

聖書にも人を裁くな自分が裁かれないためだと言う戒めがあり、昔からの人をいさめる知恵だったようです。

 カニが自分の甲羅に合った穴を掘るように、人は自分に合った行動をする。

 真面目な人は真面目、スケベな人はスケベ、そういうことですね。

性教育は、人間関係を上手に築いていくための知識や知恵や情報を興味本位じゃなく真面目に考えることを、性についてもタブーにせずに学ぶことが、本当の目的じゃないでしょうか。

そこが、性教育を受けていない世代にちゃんと伝わってない。

 本当に、性教育が必要なのは、子どもたちより大人でしょうね。

子どもたちは、真面目に知識や知恵や情報を学んで帰宅するのに、大人はそれを自分が育ってきた時代の尺度で捉えるから、おかしなことになるわけでしょ。

 まさに、カニは自分の甲羅に似せて穴を掘る。

自分たちの世代は、スケベ、いやらしい、淫らといって、正面切って話題にしなかったからでしょうね。

性にまつわる知識や知恵や情報を、全て、性行為に結びつけて考える。

 人によっては、生理用品であるナプキンやタンポンと、避妊具を、こんないかがわいこと、淫らなことを教えるのかと言う人までいるそうですね。

 性器に触れるものや性器に関する話題、すべて淫らの一言で片づける。

どちらも、女性にとっては切実であり、男性にもちゃんと理解して欲しいから、男女一緒に学んでいるわけですよ。

無理解な人が、心無い、その上いかがわしい妄想たっぷりなことを言って、女心を逆なでしていますからね。

 女性だって、男性の体は女より単純だなんで思わないで、ちゃんと理解したほうが良い。

勃起一つとっても、ちゃんと理解するかどうかで、どう対応していいかわかるでしょ。

 急激な刺激で、折れることもあるそうですよ。

 朝、子どもが飛び乗って、折れた話もあるとか。

それだって、大事な情報ですよ。

病気は場所を問いません。

 当然、性器の病気もあるわけですよね。

そんなとき、子どもたちにちゃんと向き合って話が出来る環境を作る方法を教えるのも、性教育の役目ではないでしょうか。

 性を巡る人間関係を、きちんと作り上げるにはどうしたら良いか、それを一緒に考えるのも、性教育。

性行為は、何のためにあると思いますか。

 子孫を残すため。

だとしたら、性行為は、生まれないことではなく、生まれることを前提にして、営むべき行為ですよね。

 たとえ、互いの一体感を確かめたいためであって、今はまだ子どもが欲しくないから避妊具を使うとしても。

避妊具は、絶対ではないですよ。

そして、性行為は本来、子孫を残すための行為です。

 性行為をするなら、子どもが生まれることを前提にしなさいよと。

当然でしょ。

子どもが生まれるための行為でありながら、望んでも望んでも、生まれない人だっているわけですよ。

生まれてくる子どものために、あなたはどういう責任を取りますか、あなたはどういう責任が取れますか。

そう、問いかけるべきではないでしょうか。

生まれてきた子どもに親が責任取るのは、当然でしょ。

 両親が、揃って面倒を見る。

それは、社会的に何を意味しますか。

 結婚ですね。

 結婚して、二人で生まれる子供に責任を持つ関係をきちんと作る。

純潔教育なんて言うから、特定の価値観を押し付けるなと反発する人が出るけど、子どもが欲しいなら結婚しなさいということ自体は、当たり前でしょ。

犬を飼えば、一緒に行動できるようにしつけます。

猫は、基本的しつけはいらないとは言っても、乗って欲しくないところや爪をといでほしくないところは、覚えさせますよね。

子どもにも、人として生きていくうえでの最低限、必要なことは教える責任があるはずですよ。

 犬や猫でも食事は与える、まして子どもは当たり前。

犬や猫のブリーダーは、本来、群れで生きるための基本的しつけが終わるまで、新しく家族になる人の家には届けないのです。

 一番かわいい盛りだけど。

もちろん、写真とかは、見せますよ。

新しい家族に、自分の新しい群れとして馴染むためには必要だからです。

犬や猫でさえ、社会の一員としてのしつけがいるなら、子どもだって同じでしょ。

一人の人として、してはいけないことや、したほうがいいこと、すべきこと。

それをきちんと、まず、身近な大人である両親が教えるべきではないでしょうか。

その際、必要に応じて、性に関する知識や知恵や情報を親子で正しく学んで共有しあえるようになれたら家庭は円満。

 そのほかの学校の勉強も、なるべく子どもと一緒に学んだことを共有し合う方が良い。

仕事の関係で難しい場合でも、工夫次第で時間は取れるでしょ。

性教育は、もともと生き方教育を性をタブーにしないで行うことが出発点だったはずです。

 どうしていいか、迷ったら、原点に戻る。

迷ってとんでもない方向に行くよりは、良いでしょ。

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聖書を本当に読む必要があるのは日本?

日本人はキリスト教徒じゃないから聖書は関係ないと思ったら大間違えです。

欧米、旧植民地、さらにイスラムさえも、聖書をわからずして彼らの発想は理解できないのですよ。

イスラムは聖書を下敷きにしているからです。

聖書を理解したうえで、それぞれの文化圏の解釈の癖を加味して、分析する必要があるのです。

ゴミ一つとっても、地域や施設に生活を保障された誇りを持って働く掃除のプロがいる欧米と、きれいに保つのは個人の自覚と責任という日本では、発想が違います。

ここを知らないで、世界を相手にした情報戦は戦えないのです。

 領土問題も、例外じゃない。

今は歴史上のどの段階か、聖書文化圏で内心で気にしていない人は、ほとんどいないでしょう。

ものごとを歴史の流れの中で捉えるのが、聖書史観です。

それも、非可逆的な、歴史観ですよ。

欧米には地域や施設に生活を保障された誇りを持って働く掃除のプロがいるが、その発想の背後に聖書の困っている人を助ける思想の彼らなりの解釈があるのです。

 困っている人がいたら、自分たちのものを分け与えると言う発想は、イスラムだけじゃなく、聖書そのものに基づくのでしたね。

みんなで支え合う社会保障制度に反対しているアメリカ保守派は、本当に聖書を読んでいるのか疑わしいですよ。

敵でさえ隣人を愛する。

あなたがたは、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

そう、イエスは説いています。

医者が必要なのは健康な人ではない、病人だと。

相手が助けを求めるなら、助けなさいと。

 ところが、アメリカの保守派ときたら、自業自得だからなんで私たちが助けないといけないかと言ってますね。

イエスは言います。

あなたたちの中で罪のないものがこの女に石を投げろと。

 みな、罪人の自覚があるから、石を投げられなかった。

世界がどう動くかの視点の根底にさえ、聖書史観があるのですよ。

 聖書の預言が成就する中で、どう振る舞うのが得策か、ということですね。

マルクスの思想でさえ焼き直しのレッテルがはられるくらいなのですから。

 欧米や旧植民地はもちろん、イスラムさえ聖書から生まれた。

 マルクスの思想さえ、聖書の焼き直しのレッテルがはられたのでしたね。

つまり、世界の主要な地域のほとんどは聖書で動いているのです。

今こそ日本は聖書を読み、聖書で理論武装して、欧米の論理の真意を理解して裏をかいたり、逆手に取る必要があるのです。

 聖書解釈の正統派となり、聖書実践の正統派となり、欧米流の解釈を論破する戦いを仕掛ける必要がある。

日本を舐めたら痛い目に合う、聖書の神は日本とともにあると、思わすくらいの論理と行動の展開が必要でしょうね。

 まさに、「鳩のように素直に蛇のように賢く」ですね。

日本は、すでにある程度「鳩のように素直に」なっているから後は「蛇のように賢く」なる必要があるでしょうね。

大乗仏教さえ、成立の背後にキリスト教の影響ありとする研究さえあるのです。

この解釈が正しいなら、世界の大半は聖書で動いていることになるでしょう。

少なくとも、主要な地域は聖書で動いてるのは否定できない事実です。

追記

Jesus Cat
https://www.youtube.com/watch?v=WHtIqn_fOHk&hd=1

このタイトルの意味は、聖書圏ならだれでもすぐわかるのです。

イエスが水の上を歩いたとあるのです。

猫が走ったかどうかは、関係ありません。

橋も船も使わずに、水を渡ったことをイエスのようだと言っているのです。

さらにここには、猫をイエスのメタファーとする文化も一枚かんでいるようだが、聖書のどこを引用したかわかるだけでも、このタイトルの面白さは十分わかるはずです。

永遠にあるように思われる2つのブランドを深刻な危機に陥れるには、旧約聖書で語られているような大惨事が必要だった。
http://wired.jp/2012/08/06/coke-crisis/


これも、出エジプトにある災いを例えに出しています。

ちょっと気づいただけでこれです。

欧米の発想や連想の、ちょっとしたことでも聖書が出てくるのです。

探せばもっとあることでしょう。

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政党交付金について思ってみた。

政府は、国民向けの優遇処置は、なんだかんだ理由つけて見直しといってますよね。

 なら、政党助成金とも呼ばれる政党交付金も全廃で良いのでは。

 だって、議員も身を切る必要があると言いながら、少数政党追い出しに繋がる議員定数削減ばかり言ってる。

 しかも、国民の声を最も正確に反映しやすい比例代表の議席を削る事ばかり考えている。

小選挙区との重複立候補を認め、選挙区で落ちても比例で当選するのは確かにわかりにくいですね。

 重複立候補制をなくせばいいだけの話でしょ。

 世界でも高すぎる供託金を世界的水準に下げて候補者を立てやすくすれば、なお良い。

もっといえば、無所属にも配慮した形で比例代表一本にするか、大選挙区か中選挙区一本にするかですよ。

 3つ以上政党があって、得票が拮抗した場合、3割から4割の得票で当選、しかも一人だけというのが小選挙区。

 6割から7割の人からそっぽ向かれた人が、選挙区の代表って、いくら一位でもおかしくないですか。

 小選挙区一本にすると、国民の6割から7割に政権取って欲しくないと言われた党の議員ばかりで構成される国会になる。

 ようするに、初めから民意とかけ離れた国会になる。

 だから、比例代表制と組み合わせたわけでしょ。

奨学金だって、日本は多くの場合借金ですよね。

 だれもが「給付型」を望みますけどね。

奨学金には、国や都道府県とか市区町村の公的制度や、学校独自や民間育英団体や新聞奨学金などの民間の制度があり、その中には少ないながら給付型もあるそうですよ。

残念ながら日本の奨学金のほとんどが「貸与型」の奨学金となっています。

そして、無利子と有利子があります。

 未来を担う若者に借金させておいて、政党は給付型の交付金ですか。

 逆さまじゃないの。

 最近は正規雇用につけないで、返済不能な例もあると聞きますよ。

学生時代に受けた奨学金の返還に行き詰まる例が相次いでいる。 

国内最大の奨学金貸与機関、 独立行政法人・日本学生支援機構が返還を求めて全国の裁判所に起こした訴訟は、過去5年間で 9倍近くに急増した。

背景に、就職の失敗や就職先の倒産で生活に困窮する若年層の姿が浮かぶ。

こう言う記事も、2012年02月19日の朝日新聞にありましたね。

 こんな事態を放置して、自分は返済義務のない政党公付金を受け取ってる。

しかも、政党交付金は、企業団体献金の受け取りをやめて、個人献金が集まるようになるまでの過渡措置だったはずですね。

 それって、失業給付に似てますね。

 制度の趣旨からすれば、給付期限を設けるべきでしょ。

 無期限なら、限りなく、政党交付金の性格は生活保護に近くなりますね。

ところが、日本の生活保護は、支給要件の審査が厳しくて、本格的に困窮してないと、なかなか支給されないので問題になってますね。

 断られた人が餓死したことさえあったでしょ。

最近では、家族や親族の扶養能力さえ、問う事態になってますね。

 だけど、税には所得再配分の機能もあり、社会保障や生活保護はその一環なはずでしょう。

社会保障や、生活保護は、国民全体の助け合いの仕組みでもありますよね。

 相当裕福で余裕が十分にあれば良いけど、そうじゃないと、家族や親族で共倒れですからね。

世界では、特に先進国では、基準を満たしていれば生活保護を当たり前のこととして、受けるようですね。

 家計を別にした世帯であれば、当然ですよね。

困っていれば、みんなで支え合う。

これが社会保障であり、生活保護ですよ。

もっといえば、そもそも社会保障制度は、治安と秩序維持の目的から、始まってます。

暴動や犯罪の予防的措置だったのですよ。

不正受給は問題だけど、それは常識的判断である程度防げるし、多少混ざっても仕方ないと割り切るしかないのです。

裁判でも有罪の人を見落とすリスクより、無罪の人を有罪としてしまうリスクを避けるために、疑わしきは被告の利益にという原則があるでしょ。

そして、不正受給より、本当に必要な人が受けている場合の方がはるかに多いのです。

日本の場合、必要なのに受けられていない人が多いのも、問題になっています。

もっとも背景には、今の日本では最低賃金の方が生活保護より低いという、おかしな現象もありますけどね。

 不正受給という点からしたら、政党交付金は企業団体献金を受け取らないことが前提でしょ。

 ところが、受け取れる裏口というか、抜け穴がある。

 そして、実際、政党交付金を受け取っている政党の多くは、この抜け穴を使って企業団体献金も受け取っているでしょ。

考えてみれば見るほど、政党交付金は、おかしな制度に思えてきますね。

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日本語の構造と言霊?

日本語は本来、どちらかといえば丸唇音の言葉だったといえます。

言い換えれば、ワ行母音だったと言えます。

 そういえば、旧仮名遣いは、ワ行母音がしっくりきますね。

一方、平唇音の傾向が強い言葉は、ヤ行母音の傾向が強くなります。

 拗音は、日本語がワ行母音からヤ行母音の傾向を強める中で生まれた音なのですね。

だから、“きょう”は“けふ”、“ちょう”は“てふ”とかつての発音どおり記述しました。

 そういえば、“とうきょう”は、かつて“とうきやう”とか“とうけい”と書かれていたと、読んだことがあります。

呉音の“とうきやう”が正規に使われたが、明治20年代頃までは漢音の“とうけい”もあったようですね。

ア行母音は、ワ行母音的言語だった日本語がヤ行母音化していくなかで、生まれたいわば新参者なのでしょう。

 そういえば、日本語の音の中で、ア行母音がどこか浮いた存在に感じる。

ワ行母音や、ヤ行母音のように、母音が重なることを、二重母音と言います。

二重母音とは、調音の開始時と終了時で音質を異にする母音のことです。

調音は、言語音を発音するため、舌や唇などの調音器官を動かし声道の形を変えることによって、気流に影響を与え、さまざまな種類の子音や母音などの音声を作り出すことをいいます。

二重母音は、調音している間に調音器官の位置が変化することによって生じます。

始まりの音質と終わりの音質を比べれば、はっきりと違いが判るわけです。

調音器官がなめらかに移動することによって、聴覚的に1つの母音として認識されるのです。

二重母音は、聞こえ度によって区別できます。

聞こえ度とは、音声学において言語音を聞き手の聴覚によって分類するための基準の一つです。

音声が同じ大きさ・高さ・長さであることを条件にして、どれだけ遠くに届くかを説明するときに用いられます。

二重母音は、始まりの音質のほうが聞こえ度の高いものを、下降二重母音といいます。

終わりの音色のほうが聞こえ度の高い上昇二重母音と区別されます。

また上昇二重母音が途中で調音器官の移動方向を変えて下降することによって三重母音となることがあります。

日本語の音は、ア行音を除けば子音+母音でなりたっています。

これは、例えて言えば母音が偏で子音が旁のような構造と言えそうです。

 漢字に似てますね。

基本的な意味を母音が支え、具体的な意味を子音が展開する、それが日本語の音の構造なのでしょう。

 偏は、それ自体でも一つの字になっている場合が多いですね。

変形してますけどね。

部首はすべてとは言えないまでも、その多くはそれ自体が一つの字ですね。

 母音は、漢字でいえば部首にあたると言い換えても良い。

偏に対する旁のような、簡潔な例えは言い難くなりますけどね。

 それに対して、欧米の言語は母音だけだったり、子音で終わっていたりしますね。

つまり、欧米の言語にも子音と母音からなる漢字に似た構造があるはずだけど、日本語に比べたら見えにくいと言えます。

終わりに来る子音も、直前の母音と一緒になって一つの塊を作っていると見た方が良いと思いますよ。

 一つ一つの音は、漢字に似た構造を持っている。

 言語によっては、その構造が見えにくくなっているだけ。

日本語は、丸唇音を基本にしながらも平唇音の傾向を強めていったので、一つ一つの音が持つ漢字に似た構造が見えやすくなったのでしょうね。

ワ行母音は、必然的に子音+母音の構造を際立たせる発声法なのです。

 発音があいまいになりやすいからですね。

二重母音では始めに来る母音は、区別のために否応なしに変形せざえるをえない、子音として振る舞わざるを得ないのです。

とくに発音があいまいになりやすいワ行母音では、その傾向が強くなります。

二重母音とは、いってみれば基本的に熟語の組み合わせで構成されているといえるでしょう。

おもしろいことに、日本には言霊という思想がありました。

 欧米の言葉に。言霊にあたる言葉がないようですけど。

本当は、欧米の言語にも言霊に似たものはあるはずです。

欧米人は自分たちの文化にもあったはずの言霊を、忘れてしまったのでしょうね。

 おそらく、音の持っている意味で世界を直感的に写し取っていたでしょうけどね。

 音は世界を映し取って、意味を持っている。

 呪文は、意味だけでなく、言霊によっても支えられてる。

日本語が言霊の国となった背景には、あたかも漢字のように振る舞う傾向が目立つようになった日本語の発音の特質があったのかも知れないですね。

 漢字は、形象文字を基本にして生まれて言ったでしょ。

 言葉も、本来は形象音ともいうべきところから出発した。

 多くの言語は、その出自を忘れてしまう方向に進んだ。

ところが、日本語はその出自を保存し、さらに強調する方向に展開していったのでしょう。

そして、言霊思想を生み出すことになっていったのかも、知れません。

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「蛇のように賢く、鳩のように素直」について思いを巡らせてみた。

マタイによる福音書10章16節には有名な聖句があります。

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」

創世記3章1節には、「野の生き物の中で最も賢いのは蛇であった」と書かれています。

その賢さを利用して、蛇はアダムたちを誘惑しました。

そのため、蛇を聖書における賢さの象徴として、マタイの福音書の聖句を解説する場合は多いです。

 あるいは、サタンと結び付けて、神に逆らわせようとする目論見を見抜く賢さを持とうと言う話ですか。

だが、忘れてはいけないのが、毒蛇にやられた人たちを癒した青銅の蛇です。

 この青銅の蛇は、イエスの予型と見られていますね。

つまり、蛇のような賢さとは、単なる賢さや、サタンの目論見を見抜く目を養うという、例えだけではない可能性があるのです。

神は、アダムとイブにこう言いました。

創世記2章16節と17節は記します。

「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし、善悪を知る木からは取って食べてはならない。あなたはそれを食べる日に、必ず死ぬからである。」

 神は、アダムとイブを挑発しているとも、見えますね。

 食べるなと言いながら、わざわざ、善悪を知る木を生やすなんて。

もし、アダムとイブが「鳩のように素直」なだけなら、言いつけを守って善悪を知る樹から取って食べずに、何時まで経ってもエデンの園で裸のまま無邪気に暮らしていたことでしょう。

だが逆に、アダムとイブが「蛇のように賢く」振る舞うだけなら、自分たちの判断で善悪を知る樹から取って食べておきながら、裸のまま無邪気を装って神を欺いて死の運命から逃れようとしたかもしれません。

 だが、神は、善悪を知らないで無邪気なのと、善悪を知ったうえで無邪気を装うのでは、どんなに上手に演技しても微妙な差があると気づくでしょうね。

子どもの描く無邪気な絵と、大人が描く無邪気な絵は、明らかに違う、それと似たようなものです。

 アダムとイブが、自分の判断で神の言いつけに背いた上に、神を欺こうとしたなら、即座に見抜かれて滅ぼされたかもしれない。

 だけど、アダムとイブが「蛇のように賢く」行動するなかには、善悪を知る樹から取って食べて死ぬより、エデンの園で永遠の命を楽しみながら無邪気な暮らしを満喫する方が気楽でいいと言う、選択もあるのでは。

生みの苦しみも、労働の苦労もなく、裸で気楽に暮らしているだけなら、神は「我々に似せて人を作ろう」という必要があったでしょうか。

エデンの園でライオンと鹿が並んで草を食べている横で、動物たちと楽しく遊ばせるためだけに、神は人を作ったのでしょうか。

 しかも、生めよ増えよ地に満ちよ、ではお気楽に性行為を繰り返して生活の将来不安もなしに子だくさんになるだけ。

 神は、全てを知っている自分たちと同じようになって欲しくて、似姿としての人を作ったのでしょ。

 苦労無しの遊び人になって欲しい訳ではない。

ならば、神自らが、アダムとイブにこう言えるでしょうか。

善悪を知る木から取って食べて、私たちと同じように死に関して知る者になりなさい。

 自分から食べるなと言った手前、神自身の口からは、言えるわけないでしょ。

そこで、蛇の出番となるわけでしょうね。

「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。」(創世記3章4節、5節)

この蛇は、神の妨害をしようとしたということで、妨げるものを意味するサタンとしばしば関連づけられます。

 神は、自分の手を汚したくないし、アダムとイブに自発的に背かせて滅ぼしたくもない。

 サタンのアダムとイブをそそのかす企みに気づき、また、アダムとイブが死を含む善悪についての知識を持たせたい神の意図に気づくことを信頼したので、神はあえて、見ない振りをした。

 そう思うと、結構、神って、狡いですね。

悪巧みに長けていると自惚れているサタンの企みに騙されているようでは、神は務まらないですよ。

義を守り、貫くためには、悪に対して先手を打ったり、逆手に取るくらいの賢さがないとならないわけです。

素直でいるとは、あるがままを見、あるがままを受け止める、姿勢がないといけないのです。

 さらに、義を尊び、悪を断固退ける姿勢も必要。

 そうでないと、悪の狡賢さに無邪気に感心して、無邪気に真似をすることになりかねない。

だから、「蛇のように賢く、鳩のように素直」でないといけないわけでしょうね。

神が近づいたとき、アダムとイブは、木の間に隠れました。

「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり隠れております。わたしは裸ですから。」(創世記3章10節)

二人が神を恐れるものであると、確認できた神はその場で死に依って罰することをしませんでした。

だがイブには生みの苦しみを、アダムには労働の苦労を、死の運命とともに課しました。

けじめをつけないといけないからです。

一方で神は、裸でいることを恥じた二人を、そのことで咎めたりしてはいません。

その証拠に、神は二人に皮の衣を作って着せられたとする伝承もあるのです。

 西洋の失楽園を描いた絵は、裸で追放されるアダムとイブを描くものが多いですね。

 その方が、絵としてのインパクトが強いからですか。

おそらくそうでしょう。

ところで、アダムとイブは、死についての知識を得させる神の目的に気づいただけで、善悪を知る木から取って食べたと思いますか。

 違うの。

人は、神の似姿として作られたということは、当然、不死だったわけでしょ。

死も含む知識を持つ必要があったから、善悪を知る木から取って食べたわけですよ。

 永遠の生を手放して死を知るわけだけど、本来の不死に戻る必要がある。

神の計画には、当然、永遠の生を持つ体の復活が始めからあったと見る方が自然でしょ。

 アダムとイブは、来たるべき救世主による永遠の生の体による復活を信じていたから、禁断の実を食べる決心がついた。

アダムとイブ、少なくともアダムは、神の息、つまり、神の声を託されて生を受けた生まれながらの預言者であったとみるキリスト教の宗派もありますよ。

 アダムが預言者だったなら、来たるべき救世主による神の計画を、知ったうえで食べたことになりますね。

まさに、「蛇のように賢く、鳩のように素直」だったということでしょうね。

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桜とヤマネコ?

桜は、バラ科サクラ属サクラ亜属 Prunus subg. Cerasus またはサクラ属 Cerasus に分類される樹木の総称です。

桜(サクラ亜属)は北半球に広く分布し、ヨーロッパから西シベリアにかけて3種が分布しています。

また、東アジアに3種、中国には33種のサクラ亜属が分布してると報告されています。

 米国初代大統領のジョージ・ワシントンが、父親の桜の木を切り倒したことを正直に名乗り出たというエピソードがありますね。

 19世紀はじめの作り話だそうですけど。

北米大陸には、我が国にもあるウワミズザクラに近いような種類や、常緑の種類などはあるが、これらは、日本人の持っている桜の概念からかけ離れた種類ばかりです。

アメリカの桜は、ヨーロッパのものが移植されたと考えるべきでしょう。

ついでにいうと、サクラ属にはサクラ亜属、ウワミズザクラ亜属の他に、スモモ亜属、モモ亜属、ウメ亜属、ニワウメ亜属があります。

ちなみに、ワシントン特別区のポトマック川に植えられている桜は、日本から贈呈されたものなので、「日本の桜」といえます。

 韓国では、桜は済州島起源とする議論が出ていますね。

桜の原産地はヒマラヤ近郊、現在のトルコからイランにかけての地域とされています。

だからこそ、日本語では「サクランボ」ヨーロッパではセイヨウミザクラの果実が、「チェリー」としてもてはやされているのです。

セイヨウミザクラという以上、東洋系のミザクラもあります。

中国には昔から華北・華中を中心に、中国桜桃(シナノミザクラ, Prunus pseudocerasus)や唐実桜(カラミザクラ)があります。

口に含んで食べることから、一名を含桃といいます。

漢の時代に編纂された礼記『月令』の仲夏(旧暦5月)の条に、「是月也,天子乃以雛嘗黍,羞以含桃,先薦寢廟」との記述があるから、桃よりは新しいのでしょう。

もっとも、花を鑑賞する品種の桜では、実は大きくなりませんけどね。

イランやトルコが原産だから、遠隔地である上に島国の日本に桜があることのほうが、むしろおかしいのです。

いったい、何が原因で、日本に桜が伝来したのかは分かりません。

一方サクランボの方は、何時頃伝わったか、わかっています。

江戸時代に清から日本に伝えられ、西日本でわずかに栽培されています。

これは、材が家具、彫刻などに使われ、暖地桜桃とも呼ばれます。

「桜桃」という名称は、中国から伝えられたものでです。

日本で食べられているサクランボの大半は、セイヨウミザクラです。

セイヨウミザクラが日本に伝えられたのは明治初期で、ドイツ人のガルトネルによって北海道に植えられたのが始まりだとされます。

その後、北海道や東北地方に広がり、各地で改良が重ねられました。

 サクランボ、おいしいですよね。

サクランボは、桜の実という意味の「桜の坊」の「の」が撥音便となり、語末が短母音化したと考えられています。

果実をサクランボ、木を桜桃と呼び分ける場合もありますね。

生産者は桜桃と呼ぶことが多く、商品化され店頭に並んだものはサクランボと呼ばれます。

サクランボは有史以前から食べられていました。

桜桃の一種である甘果桜桃(セイヨウミザクラ, Prunus avium)はイラン北部からヨーロッパ西部にかけて野生していました。

また別の品種である酸果桜桃(スミノミザクラ, Prunus cerasus)の原産地は、アジア西部のトルコ辺りだそうです。

アントン・チェーホフの戯曲「桜の園」の舞台はロシア南西部だが、この「桜の園」は「サクランボの農園」です。

サクランボの果実は丸みを帯びた赤い実が多く、中に種子が1つあります。

品種によって、黄白色や葡萄の巨峰のように赤黒い色で紫がかったものもあります。

生食用にされるのは主にセイヨウミザクラ(Prunus avium)の実であり、調理用に酸味が強いスミミザクラ(Prunus cerasus)の実もよく使われます。

 スミミザクラとスミノミザクラは、どこが違いますか。

スミノミザクラという場合には、園芸関係が多いようですね。

 サクラ亜属の、私たちが知っているような桜は北半球に広く分布しているということですね。

ヨーロッパから西シベリアにかけて3種が分布、東アジアに3種、中国には33種のサクラ亜属が分布してると報告されています。

 これ、ヤマネコの分布と重なる部分、多くないですか。

ユーラシアオオヤマネコ、ヨーロッパリンクスとも呼ばれるヨーロッパオオヤマネコには、ヨーロッパ北部からシベリアまでを生息域とするシベリアオオヤマネコを同種とするかどうかという議論があります。

カナダオオヤマネコは、アメリカ大陸にヨーロッパから渡った可能性があります。

日本にもオオヤマネコの骨が見つかるが、現在ほとんど見かけないところを見ると、イエネコと交雑し吸収された可能性があります。

今でも、ごくまれに先祖帰りしたとみられるヤマネコ的な特徴を多く残した猫がみられるそうです。

 海に隔てられているはずの、アメリカや日本にウワミズザクラがある。

 海に隔てられているはずの、アメリカや日本にオオヤマネコがいる。

 どちらも人為的に渡っている可能性がありますね。

ウワミズザクラ(Padus grayana)は上溝桜と書く、バラ科ウワミズザクラ属の落葉高木です。

和名のウワミズザクラは、古代の亀卜、つまり亀甲占いで波波迦と呼ばれる溝を彫った板に使われた事に由来します。

北海道西南と本州、四国、九州の山野に自生し、日照と小川沿いなど湿潤した環境を好みます。

花は、北海道では6月、本州より南では5月頃に咲き、長さ10cmほどの白い総状花序は雄蘂が目立ち、ブラシのように見えます。

よく似たイヌザクラとは、花序枝に葉がつく事などで区別できます。

樹高は、約10~15mで、樹皮は、灰~褐色です。

枝は、小枝の多くは落葉後に落ち、葉は、長さ6~9cm、幅3~5cmで楕円形で先が急に細くなり、縁には鋸歯があります。

果実は、直径約8mmの卵円形の核果を付け、初夏にかけて赤から黒く熟します。

ウワミズザクラは軽くねばり強い事から建材のほか、彫刻細工、版木、道具の柄などに利用されます。

香りのよい、若い花穂と未熟の実を塩漬にした杏仁子(あんにんご)が、新潟県を中心に食用とされ、黒く熟した実は果実酒に使われます。

ウワミズザクラは古代からあったところを見れば、縄文人が持ち込んだかもしれないですね。

ウワミズザクラ属の樹皮には青酸配糖体が含まれ、ヨーロッパ諸国や米国では、この植物の樹皮を鎮咳薬などに用いるそうですよ。

アイヌ民族は、臭気のある枝を戸口に立てて、病魔を防いだといいます。

 サクラ亜属の方の桜は、何時頃でしょうね。

韓国が済州島起源を言いだしたということは、朝鮮半島経由の線が強いのかも知れません。

ただ、弥生人なのか、天孫一族なのか、そのあたりを特定するには、もっと情報が欲しいですね。

オオヤマネコの分布、とりわけ、シベリアオオヤマネコの分布とサクラ亜属の分布の妙に重なるあたり、確かに、気になります。

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古代イスラエル人の顔を想像してみた。

今日の白人系ユダヤであるアシュケナジは改宗による宗教的養子であって、オリジナルの古代イスラエル人との血縁はないとみられています

 では、古代イスラエル人は、どのような風貌だったのでしょうね。

アジア、とりわけ東アジアの民族の風貌は、古モンゴロイドと新モンゴロイドの混血の結果、いまのようになったと見られています。

 そういえば、西方に行くほど、新モンゴロイドの特徴は薄れますね。

白人的な風貌のアイヌの生活文物は、古代イスラエルに近いと指摘されます。

 アイヌは、白人的な風貌だけどモンゴロイドに分類されていますね。

この白人的風貌のために、縄文人やアイヌに対して、白人そのものという議論を立てる人々もいます。

モンゴロイド的特徴は、モンゴロイドとの混血の結果であったと、彼らは主張します

 彫の深い顔の白い人、すなわち白人、すなわちコーカソイド、という論理なのね。

けれど、古モンゴロイドが白人に近い風貌であったとすれば、縄文人は白人であったと言う説を立てないでも良い訳です。

 中東で分かれたコーカソイドと古モンゴロイドは、西と東のどちらに行ったかの差でしかない。

そうでしょうね。

古モンゴロイドの一部は、地中海世界を横切ってアメリカを経由して日本に渡り、縄文人となり、アイヌとなったのでしょうね。

 古モンゴロイドの中には、地中海世界から、ヨーロッパに散った人々も居る。

コーカソイドにもみられる蒙古斑は、彼らが持ち込んだのかも知れないですね。

 日本人にも見られる、欧州人と共通の遺伝子由来の病も、ここに関係ありますかね。

アイヌの風貌に見られるように、古代中東のモンゴロイドは古モンゴロイド的であった可能性があります。

古代イスラエル人もまた、古モンゴロイド的風貌であったでしょうね。

興味深いことに、ヨーロッパにいた新人の移動経路と見られるものはほとんど古モンゴロイドのたどっだと見られる移動経路と重なります。

 新人の経路に、日本が入ってませんね。

だが、ここで議論されている新人を古モンゴロイドと同じと見てよければ、どうでしょ。

 新人の一部は、日本にも来たことになるのよね。

そして、現代欧州人に近い特徴が指摘されるクロマニヨンも、新人に分類されます。

 クロマニヨンこそ、古モンゴロイドの正体と見れば、縄文人やアイヌの白人的特徴も、クロマニヨン由来となるね。

しかも新人、つまりクロマニヨンの名はフランスのクロマニヨン洞窟に由来します

 そして、白人的風貌で、イギリスとアイヌに二股かけたフランスとスペインの様式の鏃を伴った古代人骨は、アメリカのケネウィックから出ているのよね。

クロマニヨンは、旧石器時代晩期とされるから、クロマニヨンの分布と照らしても矛盾はないでしょ。

クロマニヨンは現代欧州人と最もよく似ているとされるが、現代人の祖ともされ、その影響の及ぶところは欧州に限定されないのは、新人の移動経路を見ればわかるでしょ。

 クロマニヨンを古モンゴロイドの正体と見れば、白人や黒人にも蒙古斑がみえる理由も説明できるのね。

新人は、アフリカにも行ってますからね。

また、オリジナルのユダヤと見られているスファラディも、ディアスポラの過程で同じアブラハムの子孫であるアラブの民との交流はあったでしょね。

そのために風貌は変わっているでしょうね。

 アラブ人の祖は、アブラハムとエジプト人女性ハガルに生まれた子のイシュマエルでしょ。

ユダヤ人とイスラームの伝統の間では、イシュマエルを全てのアラブ人の先祖と見ていますね。

 そして、エジプト人とは、ノアの子の一人であるハムの子孫のエジプトからでた人々をさしたわけね。

のちに、エジプト人の地がエジプトと呼ばれるようになると、エジプト国民がエジプト人と呼ばれることになるが、ハガルの場合は、ハムの子孫であるエジプト人と見た方が良いでしょうね。

ムハンマドは旧約や新約の解釈を正すために活動し、彼の弟子たちによってイスラム教は始まります。

今のイスラムは聖書を読まないが、ムハンマドは新訳も含む聖書を読むように説いています

おそらく、自らの民族の宗教の啓典として、聖書を位置づけていたのですね。

同じ神を信仰する聖書の民であり、アブラハムの子孫であれば、一時的には、婚姻関係はあったでしょうね。

 今のスファラディの風貌は、エジプト人の血が入っているイシュマエルの子孫との婚姻による。

旧約聖書を共有した、アブラハムの子孫同士であってみれば、そうみるのは自然ではないでししょうか。

いまの、イエスも預言者として受け入れているイスラムを見ると、ユダヤ人との婚姻を疑問視しても仕方ないでしょね。

 ムハンマドの宗教改革は、ユダヤ教にとどまらず、キリスト教にも及んでいるけど、ムハンマド以前はアラブもユダヤ教だった。

ムハンマドを預言者の系譜にユダヤ教もキリスト教も入れていないのは、アブラハムとイサクとヤコブの神とする位置付けから外れているからでしょうね。

 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、という言葉がここで効いてくる。

そうでしょうね。

聖書では神の名に、アッラーは使ってないですし。

 でも、アッラーは聖書の神の呼び名の一つであった可能性はある。

ムハンマドは、同胞が聖書を知っていることを前提にして、説教しているでしょ。

ユダヤ教は、文字通り、民族宗教なのですよ。

 そうなると、本来の古代イスラエル人の風貌は、皮肉にも、宗教養子であるアシュケナジに似ているかもしれない。

白人的風貌のアイヌの生活文物が古代イスラエルに似ていることから推測すると、古代イスラエル人も白人的風貌だったことはありえるでしょうね。

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