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2012年9月

なぜ力士に品格や風格が求められるか考えてみた。

なぜ、力士、特に大関や横綱に品格や風格が求められるのか、相撲協会はきちんと理解できているのでしょうか。

相撲の所作、一つ一つに、呪術としての意味が込められているのです。

例えば四股は、力士が足腰を鍛えるために行われる基本動作の一つであるとともに、邪気を払い地を踏み鎮めるという宗教的意味をもつのです。

日本各地の祭礼で行う民俗相撲では,力士の四股によって大地の邪悪な霊を踏み鎮め,あるいは踏むことで春先の大地を目ざめさせて豊作を約束させると伝えるものが多いです。

塩を撒くのも、清めの意味があります。

土俵の四角は地を、俵で作られる円は天を、表すとともに、俵の円は蛇の目でもあります。

この蛇の目の蛇とは、神の使いなのです。

土俵には、必ず、三角の屋根が付くが、この三角は人を指すとともに、これもまた、神の使いの蛇の象徴でもあるのです。

今、大相撲では屋根の四方から四色の房がたらされているが、この色は東西南北の四神である玄武と青竜と朱雀と白虎を表します。

さらに、廻しもまた、相撲競技者の腰部を覆い、重心部となる腰や腹を固めて身を護り、更に力を出すための武具であるだけではありません。

蛇の目の象徴であり、力士が神の使いである蛇神の化身であると告げているのです。

廻しに下げられるさがりは、幕内力士の取組の取り組みで用いられていた化粧廻しの名残とされるが、そもそもなぜ、幕内と呼ばれるのかです。

幕内は、幔幕(まんまく)の内にいることが許された上位力士の特権に由来します。

幔幕とは、式場や昔の軍陣などで、周囲に張り巡らす、横に長い幕のことです。

布を縦に縫い合わせたものが幔、横に縫い合わせたものが幕です。

幕内の起源にはいくつか、説があります。

江戸時代、徳川幕府の将軍の相撲上覧に際し、仕切りとしてまわりに張り巡らす「幔幕」の内側に、数人の上位力士が控えることを許されたため。

節会相撲(せちえずもう)の際に、上位力士が幔幕の内にいたため。

儀式は本来、神のために行われる事柄であり、幔幕とは儀式の場所を聖別するものでした。

幕内力士とは、聖別された神聖な区域に入ることを許された力士なのです。

布を縦に縫い合わせたものが幔、横に縫い合わせたものが幕です。

化粧廻しとは、携帯幔幕と言いえるでしょう。

だが、さがりは、その化粧廻しの名残であるだけではなく、蛇神はしばしば龍神と関連付けられることから、雲に見立てた蛇からの雨も意味するかも知れません。

左に太刀持ち、右に露払いを従えた横綱土俵入りが北面してるのも、北が単なる方位ではなく、天の方位ともされるからです。

この三人とは、造化三神に対応しているかもしれません。

相撲とは、このように、本来は神事である以上、力士や相撲関係者に品格や風格が求められるのは、当然なのです。

ガムをかみ、ビールを飲みながら報道陣の取材に応じるなど、たとえ横綱昇進に喜んでいたとしても、慎むべきことなのです。

現行制度では横綱に降格はなく、現役引退によってのみその地位から降りるのです。

横綱になる力士は、その地位にふさわしい抜群の力量だけでなく、品格もまた要求されます。

横綱は、語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製の綱の名称に由来します。

1890年(明治23年)5月場所から番付に横綱の文字が掲載されるようになるまで、横綱は名誉称号に過ぎなかったため、番付では大関が最高位でした。

1791年(寛政3年)、第11代将軍・徳川家斉の上覧相撲において谷風梶之助と小野川喜三郎が行った紙垂をたらした純白の綱をつけた土俵入りが天下公認となり、横綱が誕生することになったのです。

紙垂をたらした純白の綱は、注連縄を意識したものです。

当初は大関の中で横綱を付けられる者のことを「横綱」と呼んでいたので、横綱になることを「綱を張る」と表現するようになりました。

横綱誕生の由来は、江戸時代に興行としての江戸相撲が人気を博した頃、吉田司家は行司の総元締めとしての権力を確保するため横綱免許を与えて横綱を作ることを考えたことにあります。

それまでの将軍家の観戦する上覧相撲や寺社への奉納相撲等特別な式典に際して行っていた土俵入りを、土俵上で行っていた顔見世土俵入りと結び付け、綱を締めさせて1人で土俵入りを披露させることにしたのです。

誕生のいきさつはどうであれ、現在の大相撲においては、横綱は、全ての力士を代表する存在であると同時に、神の依り代であることの証とされています。

神の依り代の証とされるからこそ、横綱には注連縄を意識した紙垂をたらした純白の綱を付けることが許されるのです。

それ故、横綱土俵入りは、病気・故障等の場合を除き、現役横綱の義務とされるのです。

普段の行状に品格や風格に疑問があるのは、力士になった時からあってはならない、初歩的常識として、きちんと教えておいてほしいものです。

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不思議な出会い。

久々に、自分の事を話しましょう。

奇妙なことって、世の中にはあるものです。

一度あることは二度あるとも言うでしょ。

ずいぶん前だが、地域の仲間と旅行に行った時のことです。

肩をもみ合った相手が、霊感の強い人でした。

その人は、私が肩をもんでいると、こう言ってきたのです。

あなたは悪いものを吸い取る力が強い。

私から、悪いものを吸い取っていったでしょ。

どうしていいかわからないだろうから、回収します。

こんなこと初めて言われました。

二度目の霊感者がらみは、直接当人ではなく姉を介してでした。

もっともその姉も、神頼みって本当に効くねと、会うなり言ってきたからびっくりさせられました。

あなたは、素直に驚き喜び感謝してるから、神も気前よくたすけるのでしょう。

普通の人は、驚き喜んでも、運が良かったとか自分の力とか言って感謝しないから、神頼みが効くとは言わないのでしょう。

そのくせ、気休めと言うご利益だけは求めて参拝しているから、おかしなものです。

そういうと、彼女はあなたにいろいろ相談して良いかと言い出したのです。

私は預言者でも、神の子や神の使いでもない、まして神ではない、普通の人だから間違うことがあり得る、質問なら神にしてくれませんか。

そう言っても、あなたは正直だから騙されても良いと、言い返され絶句。

仕事関係で質問が五六回来たが、思い付きのまま言うとその通りだったと感謝に来ました。

その都度、あなたの日頃の神への感謝が私の思いついたまま述べたに過ぎない言葉を現実に変えたので感謝は神にしてください私も神に感謝します、と言って返したのでした。

最後の質問が、霊感の強い妹のことだったのです。

信頼していた教会の裏事情を知って落ち込んでいるとイエスが慰めに来てくれてると言うが、イエスは最後の審判のとき再臨するのではというのです。

癒されているかというと、そうだと答えたので、様子を見ようと言っておきました。

二三日して、向かい合うの寄り添うのとどちらが親密か尋ねると言う考えが浮かび、伝えたのです。

すると数日後彼女はこう言ってきました。

姉妹揃って、末日聖徒イエスキリスト教会に入りました。

良い教会に入りましたねと、安心させるために言っておきました。

当時、私はどこの宗教団体でもなかったのです。

日本人にありがちな、何処かの寺の檀家ではありましたが。

それからほどなく彼女は、仕事を変わるのであなたと話せなくなるのが寂しいと言ってきました。

そこにあなたの話を待っている人がいるのだろうと励ますと、私はうまく話せないと不安がったので神頼みすればいいでしょと言うとにっこり笑いました。

二度あることは三度あるといいます。

次は、どんな霊感を持つ人と関わりが出るのでしょう。

追記

このような体験の持ち主だからと言って、私がこのブログで皆さんにしている話がすべて正しいとは限りません。

私はただの人、多くの悩みや弱点を抱えている普通の人です。

ここは違うのではというところがあれば、どうぞ、お教え下さい。

追記2

私に相談してきた人の妹の通っていた教会の裏事情とは思いたくないが、このような情報を見つけました。

日本の結婚式で偽牧師をやってると告白しているというのです。

もっとも正式の教会ではなく、結婚式場であるとしながらも、プロティスタント教会に雇われているといいます。
IAMA Fake Priest; I am not ordained or have any legitimate attachment to the church, but I am paid to marry people. (Japan) AMA
http://no.reddit.com/r/IAmA/comments/10piy8/iama_fake_priest_i_am_not_ordained_or_have_any/

キリスト教式で式を挙げる人がクリスチャンとは限らないのが日本の実態とはいえ、 平気で偽牧師を結婚式場に送り込む教会があるとは、事実としたら嘆かわしいですね。

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稲荷の鳥居と天皇?

稲荷の鳥居はなぜ赤いか議論していたら、思いがけない方向に進んで行ったのです。

 赤は火ではないかと思います。

 青は水。

 黄色は…土?

陰陽では、色はこういう配当になります。

黒=水、赤=火、青=木、白=金、黄=土

詳しく言えば、陰陽では色にはもっと配当されることがあります。

煩雑さを避けるために省きますが。

 「赤」=「鉛を煮立てた色」なのだと思います。

  鉛はアルファ線とかベータ線とか「放射線を遮る効果」が高かったろうと思います。

 昔の人はそうした効果を「魔除け」にしたのだろうな…と、私は思っています。

鉛丹(えんたん)は、光明丹(こうみょうたん)、赤鉛(せきえん)、赤色酸化鉛(せきしょくさんかなまり)とも呼ばれますね。

鉛丹は、鉛が名前にあるように、四酸化三鉛(Pb3O4)を主成分とする、赤色の無機顔料です。

鉛丹が主原料の塗料で、日本の平安時代の建築物の朱色の柱は塗装されています。

鉛に遮蔽の力があるのは、確かです。

古代の知識や技術は、今日の私たちが考える以上の水準にあることは、確かに注目されてきました。

だが、いにしえの人が鉛の遮蔽効果まで、知っていたか、理解していたか、となると、想像の域をでません。

解釈としては、面白いとは思いますが。

 聖書のどこかに再臨する時のイエスは赤い服を着ていると書かれてますね。

黙示録でしたかね。

イエスは赤い衣をまとってメルカバーに乗っているとありますね。

 地球はノアの洪水で水によるバブテスマを受け、この世が終わる時には火で焼かれ火によるバブテスマを受けます。

 そのへんが鳥居の赤い色と関係しているのではないでしょうか。

 鳥居の赤い色は朱色ですね。

 朱色の朱(しゅ)は、主(しゅ)であるイエスを暗示する色かもしれません。

ヤハウエיהוהをさす一文字“ה(へー)”を筆記すると、鳥居にそっくりになるだけでなく、יהוה(ヨッドヘーヴェブヘー)を縦書きしてもそうなります。

その鳥居が赤い稲荷とイエスを比べると面白いですね。

 イザヤ63章にも、赤い服の再臨するイエスの話がありますね。

イザヤ63章第1節ですね。

「エドムから来る者、ボツラから真紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」

気になるのはどういう事ですか。

 黙示録では再臨するイエスは、赤い服を着て白い馬に乗っているようですね。

黙示録の19章第11節から13節ですね。

11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。

12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。

13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は、「神のことば」と呼ばれた。

この、色の対比をどう見たいのですか。

 白地に赤の日の丸の旗は、再臨のイエスの予型というのはどうでしょうか。

陰陽では、白は西と死、赤は地と生に配されます。

また、陰陽では馬は午と表し地と生に配されます。

イエスは義の太陽とされる事と合わせると、日の丸の構図と配色にそういう連想が出来るのは面白いですね。

 日の丸は、日ノ本の国という国名に、対応しているのでしょ。

確かにそうなのだけど、昔から白地に赤丸だったわけではないようです。

世界中で歴史的に太陽が赤で描かれることは少なく、太陽は黄色または金色、それに対して月は白色または銀色で表すのが一般的です。

平安時代末期の頃までの「日輪」の表現は、通常「赤地に金丸」であったと考えられています。

赤は陰陽でいえば地に配当されるので、赤地に金丸で地上に降臨した太陽神の子孫である天皇を中心とした国という意味合いを込めていたのかも知れません。

日本で白地赤丸が日章旗として用いるようになった経緯は諸説あり正確には不明です。

一説には、源平合戦の結果が影響していると言われます。

朝廷の象徴である錦の御旗は、赤地に金の日輪、銀の月輪が描いてあります。

錦の御旗は、天皇すなわち朝廷の軍である官軍の旗で、錦旗(きんき)と略称されます。

別名は、菊章旗、あるいは、日月旗で、日之御旗と月之御旗は二つ一組で掲げられます。

平安時代末期に、平氏は自ら官軍を名乗り御旗の色である赤旗を使用し、それに対抗する源氏は白旗を掲げて源平合戦を繰り広げました。

古代から国家統治と太陽は密接な関係であることから日輪は天下統一の象徴であり、平氏は御旗にちなんで「赤地金丸」を、源氏は「白地赤丸」を使用したのです。

源氏の「白地赤丸」は、白で御旗の月、赤で御旗の太陽、というつもりだったのかも知れません。

天皇は太陽神の子孫という位置付けだからです。

 もし、「白地赤丸」を日月旗と見てよければ、陰の月と陽の太陽の対比となり、陰のヤハウエと陽のイエスの対比と対になりますね。

日月旗と呼ばれる錦の御旗そのものが、陰の月と陽の太陽の対比となり、陰のヤハウエと陽のイエスの対比と対、と見ても良いのは興味ありますね。

平氏が滅亡し、源氏によって武家政権ができると代々の将軍は源氏の末裔を名乗り、「白地赤丸」の日の丸が天下統一を成し遂げた者の象徴として受け継がれていったと言われます。

現存最古の日章旗としては、山梨県甲州市(旧塩山市)の裂石山雲峰寺所蔵のものが知られています。

 日ノ本とは日出る国という意味である共に、古来太陽を神として崇めてきた日本は太陽神のお膝元の国という意味にも、とれます。

天皇は、太陽神の末裔という位置付にあります。

言い換えれば日本とは、天皇陛下のお膝元の国、という意味の国名ともとれるのです。

 日本が古代の天皇即位以来、天皇の所有下にある国という位置付けは変わってない。

大日本帝国から日本国に国名は変わったように見えても、天皇を中心とした日本という点では、古代から連続性があるのですよ。

中国が国名も支配民族も、ころころ変わったのとは、対照的なのです。

古代から一つの皇統が連綿と続いている国は、良いか悪いかはさておき、日本くらいのものです。

それだけは、覚えておいた方が良いですよ。

日本は、もしも天皇制を廃したら、古代からの連続性は途切れ、まったく別の国家になると言いえるでしょう。

 いずれ地球は、イエスが統治する日の栄の王国、すなわち神の御国となります。

 日本は、日の栄の王国の雛型なのではないでしょうか。

日本は、日の栄の王国の雛形という意味も込められた名前とみるのも、面白いですね。

 イエスは、義の太陽とされる存在ですね。

天皇は神道の最高祭司であり、神の道を整えることが務めと言えますから。

 その祖先神であるアマテラスの本地が大日如来、すなわち大いなる太陽の如く来られると呼ばれることと合わせると、矛盾はないですね。

だから、フランシスコ・ザビエルは大日を誤訳として血相変えて訂正しまくったのでしょうね。

 天皇陛下は、日の栄の王国を統治するイエスの雛型なのではないでしょうか。

天皇陛下と日本の関係は、日の栄の王国を統治するイエスと、相似形にみえますね。

予型とか雛形に見えちゃうのは、仕方ないでしょうね。

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細胞の形を決める遺伝子とどこまで言える?

細胞の形決める遺伝子発見 東大

日本経済新聞2012/9/17 18:52
http://s.nikkei.com/QTaugq

 東京大学の小田祥久助教と福田裕穂教授らは、植物の細胞の形を決める仕組みを突き止めた。

4個の遺伝子が働き方を変え、自在な形を作り出していた。

この仕組みを利用し、植物細胞の形をデザインでき、バイオ燃料に適した植物などを作れる可能性がある。

成果は米科学誌サイエンス(電子版)に発表した。

 植物の細胞は動物と異なり、セルロースと呼ぶ繊維でできた細胞壁で覆われている。

実験植物のシロイヌナズナの遺伝子の中から、細胞壁作りに関係がありそうな30個を選び、細胞に入れて実験。

細胞壁の模様や形の形成に関わる4個を特定した。

 この4遺伝子が作るたんぱく質が連携して働き、細胞壁を部分的に薄くしたり、穴を開けたりして模様や形ができていた。

植物細胞は英国の博物学者フックが約350年前に見つけたが、形ができる仕組みは不明だった。

細胞の形を決める遺伝子というけれど、セルロースと呼ぶ繊維でできた細胞壁で覆われている植物細胞はなぜできるかを、遺伝子レベルで突き止めたわけではない点に、注目したいです。

今回はあくまでも、4遺伝子が作るたんぱく質が連携して働き、細胞壁を部分的に薄くしたり、穴を開けたりして模様や形ができていたと明らかにしたにとどまるのです。

 つまり、植物細胞の形の細目を決める仕組みが分かっただけなのですね。

報道はどうしても注意を引くために、刺激的な見出しをつけたがります。

 細胞の形決める遺伝子発見という、この言葉が独り歩きして、新たな幻想が生まれる可能性がある。

形の細目、それも、植物の細胞に限定されているのです。

仕組みの解明が進めば、動物の細胞にも応用が出来る可能性は、もちろん否定できません。

なぜ、細胞は全体としてあの形なのか、さらには、なぜ、生物はこの形になるのか、という仕組みの解明はまだほとんどできていないと言って良いでしょう。

 だから、この発見が大ニュースになる。

そういうことでしょうね。

生物の形は、結晶や、水の作り出す形、さらには、放電現象が作り出す形に、不思議なくらい相似形が見出されるのです。

さらに、生物の形同士でも、相似形を指摘する研究もあります。

具体的な生物の形の、決定されていく仕組みの中で、これらの相似形の関係は何らかの役割を果たしているのかいないのか、不明な点はまだまだまだ、多いのですよ。

 でも、宇宙の形成については、自律的な過程に注目する展開があるでしょ。

数学でも、階層性を扱うフラクタルの有効性と重要性は、ますます高まっています。

 フラクタルと自律性に注目した場合、さまざまな相似の関係が生命でも重要視される展開は遠からずやってくるでしょうね。

そういう予想は、十分に立てても良くなるかも知れないですね。

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アメノウズメとフラメンコ?

アメノウズメの踊りの印象は、インド辺りのミュージカルと中東のベリーダンスとスペインのフラメンコを足して3で割ったようだったのではと、語る人がいます。

 舞台の演出としては、視覚的に面白いですね。

アメノウズメの踊りについては、ベリーダンスが近いという感想を述べたことはあるが、フラメンコをイメージする人もいるのですね。

 フラメンコと言えば、ロマでしょ。

そういえば、アメノウズメの踊りについて意見交換した中で、ロマの話も出ていました。

その時は、軽く受け流してしまったけれど、ロマとエジプトの繋がりを考えたことがあったことを思えば、アメノウズメの踊りをフラメンコとの比較をしてみても面白いですね。

衣装から、ベリーダンスは連想したけど、フラメンコは思いつかなかったですね。

 足を踏み鳴らしたとあるところから、フラメンコを連想したのかも知れないですね。

低く腰を落して足を踏みとどろかす、確かにこの振り付けはフラメンコにもありますね。

背をそり胸乳をあらわにし、というところも、女性のかつての衣装には胸を露わにしたデザインのものも多かったことを思えば、姿勢から言ってもあり得る話です。

 フラメンコには、背を反らす動きも多いですね。

フラメンコもベリーダンスも連想できるアメノウズメの踊りは、さまざまな踊りの起源となった古代中東の踊りの系譜を、引いている可能性はあり得ますね。

 フラメンコも連想できるとして、アマノウズメの踊りとの繋がりが見えるかどうかですよ。

まず、フラメンコの歴史を振り返りたいところだが、起源はよくわかっていないようです。

フラメンコは、スペイン南部のアンダルシア地方に伝わる芸能です。

フラメンコの元となる踊りの形の成立は18世紀末と考えられているが、この時期にはまだフラメンコという名称は与えられていません。

歌、踊り、ギターの伴奏が主体となっているフラメンコの歴史と発展には、ヒターノと呼ばれるスペインジプシーが重要な役割を果たしています。

ちなみにヒターノとは、ロマのスペインでの呼び名です。

 ジプシーはロマのことだから、それくらいわかりますよ。

さらにさかのぼると、ムーア人の影響もみられるといいます。

ムーア人はモーロ人とも呼ばれる、イベリア半島や北アフリカに住んでいたイスラム教徒です。

後に様々な民族に広がるイスラムだが、もともとはイシュマエルの子孫から始まっています。

 イシュマエルの父はアブラハム、母はエジプト出身のハガルですよね。

ロマの各地の名称もエジプト出身を暗示し、イスラムにもエジプトは関係しているわけですね。

 ムーア人とヒターノという、エジプトに関係が深い二つのエスニックグループが、フラメンコの成立に深く関わってたのですね。

エジプトに、アメノウズメの踊りとフラメンコの接点がありそうですね。

現在のフラメンコに繋がる成立史も、一応振り返っておきましょう。

この2つのエスニック・グループの協働が発生した理由として現在考えられているのは、イベリア半島におけるモリスコ追放令です。

モリスコとは、キリスト教に改宗したイスラム教徒のことです。

1499年のカトリック両王によるモーロ人追放後も一部のイスラム教徒はキリスト教徒に改宗してイベリア半島に留まったが、1609年に改めてモリスコの追放令が出されるのです。

ところが、モリスコの中にはヒターノのコミュニティに潜伏してなおもイベリア半島に留まる者が少なくなかったそうです。

この時期にアンダルシアのヒターノのコミュニティがモリスコの歌舞音曲を大胆に取り入れた結果、現在フラメンコと呼ばれる芸能が生まれたと見られているのです。

 ヒターノの踊りとモリスコの歌舞音曲が容易に融合できた背景には、お互いが共有していた古代エジプトの音楽文化があった。

そう考えるのは、自然でしょうね、

 ますます、アメノウズメの踊りと古代エジプトの繋がりが見えてきたようですね。

ベリーダンスに次いで、フラメンコも、エジプトとの接点が窺えますからね。

 インド辺りのミュージカルなどは、こういう雰囲気で演出したら面白いくらいの解釈で良いでしょ。

日本人の中にも、インド人から同胞に間違えないと自信持って断言される日本人がいます。

インドのタミル語と日本語の間に、大きな関係が見られると指摘する人もいます。

インド辺りのミュージカルと似た雰囲気の中で、アメノウズメが踊ったと見てもおかしくはないですね。

それに、日本人には中東のどこかの国の出身に間違えないと、断言され否定しても信じてもらえないで困ったという人もいますよ。

中東にこういう状態を作ったのは、ペルシャ帝国とトルコ帝国です。

 どちらも、日本人と似た顔の人が見つかる国ですね。

インドとペルシャは、近接した地域の民族が作ったことがわかっています。

 インドも古代中東に、遡れるのでしたね。

インド辺りのミュージカルと中東のベリーダンスとスペインのフラメンコを足して3で割ったら、アメノウズメの踊りになると見たこの人の直観は、それなり根拠があったということでしょうね。

 アメノウズメの踊りは、古代中東の音楽文化に遡れる。

やはり、そのようですね。

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E=mc²を別の角度から考えてみた。

E=mc²は、あまりに有名なエネルギーと質量の同等式です。

だが、質量mは、どのように量られるのでしょう。

 大抵は、秤を使いますね。

 秤は、物の重さや質量を測定する器具、あるいは道具ですから。

秤は、一般的に秤には天秤ばかりとばねばかりの二つに分けられます。

そもそも両者は「何を測るか」が異なるのです。

天秤ばかりはてこと重りを利用することで、重力の大きさに影響されずに「質量」を測定するものです。

ばねばかりはばねの伸び具合、つまり弾性によって「重さ」を測定するものです。

質量とは、物体の動かし難さや重さの度合いを表す量のことです。

質量という概念の内容や定義は、動力学、力学の歴史とともに推移してきています。

物理学的には厳密には、動かし難さから定義される慣性質量(inertial mass)と、万有引力による重さの度合いとして定義される重力質量(gravitational mass)の2種類の定義があります。

 現在の物理学では、慣性質量と重力質量は、等価とされていますね。

重さとは実はその物体にかかる重力のことであって、月面では重力が地球上の約1/6になるということです。

一方、質量はその物体を特徴付ける量であって、同じ物体である限りは変わりません。

重力は万有引力とも言うが、二つの物体間に働く引力であり、その二つの間の距離とそれぞれの物体の性質とに応じて働く力です。

この重力を決定する性質を、「質量」と呼びます。

だが、考えてみましょう。

天秤ばかりは、釣合によって、質量を測定するものであるから、重力の大きさに影響されないと言うのは、本当でしょうか。

 重りは、なぜてこを押し下げたり引き下げたりできるか、ですね。

 重力が引いているから、でしょ。

つまり、天秤ばかりは重力がないところでは使えないでしょ。

 重力の大きさに影響されないの、重力のある場合だけということですね。

言い換えれば、天秤ばかりは重力質量を測定していることになりますね。

一方、ばねばかりは、ばねの伸び具合を見て、重さを知るわけです。

 弾性は、重力の大きさに左右されないでしょ。

つまり、ばねばかりは重力のない場合でも使えますね。

 重力の大きさに左右されないのは、重力のない場合も含むことになりますね。

言い換えれば、ばねばかりは慣性質量を測定していることになりますね。

 重力と加速度は、区別出来ないのでしたね。

綱引きで力が拮抗していると、綱は動かないでしょ。

仮に拮抗した状態で、一方をばねばかりに置き換えてみましょう。

すると、引いている力をばねばかりの目盛で重さに換算できることになります。

では、拮抗した綱引きの一方を滑車で方向を曲げ、重りを下げたらどうなるでしょう。

 今度は、重りの重さで引いている力を測定できますね。

 綱引きは、体重で男性チームに負けている女性チームでも、テクニックで勝てますよね。

体重で負けているはずの女性チームが、男性チームに互角な場合、釣り合っているのは力であって体重ではないですよね。

 天秤ばかりでも、ばねばかりでも、測定されているのは引いたり押したりしている力、エネルギーの大きさなのですね。

だから、無重力下でもばねばかりで重さを量れるわけですよ。

 慣性質量とは動かしにくさであるということは、動かすのに必要な力の大きさを測定していることでもある。

E=mc²の質量mも、エネルギーの大きさと考えても良いのではないでしょうか。

 動かすのに必要な力の大きさが、質量mの意味というわけですね。

この式は、変形するとこうなります。

m=E/c²

質量とは光のエネルギーの一部の大きさのことである、という意味にとれないでしょうか。

そして、光速度cが光の運動エネルギーであるなら、c²は光のポテンシャルエネルギーではないでしょうか。

当然、エネルギーEもまた、ポテンシャルエネルギーであり、質量mもまた、ポテンシャルエネルギーと見るのが自然でしょ。

波は波長が短いほど、進行速度は遅くなります。

 同じエネルギー量でも、進行速度により多く分配するか、波長により多く分配するかで、違うわけですね。

エネルギー保存則から、当たり前に出てくる結果ですよね。

エネルギー総量は、運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの和で、求められます。

そう考えたら、こう言えませんか。

m=E/c²のc²は、波のエネルギーv²で一般化できるはずでしょ。

災害対策で、波のエネルギーを計算する式にも応用可能ではないでしょうか。

 津波の膨大なエネルギーも、極端に波長が短い波が持続的に押し寄せた結果として計算可能かも知れないということですか。

 船を転覆させたり、堤防を破壊する、波の強さも数値化が出来るかも知れないと。

あるいは、衝撃波にも応用できるとみても、面白いかもしれないですね。

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厳島神社と生命の樹?

広島県宮島の厳島神社は、日本全国に約500社ある厳島神社の総本社とされます。

式内社のうちでも名神大社(みょうじんたいしゃ)に位置付けられる安芸国一宮で、旧社格は官幣中社、現在は神社本庁の別表神社に指定されています。

名神大社とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々である名神を祀る神社です。

古代における社格の1つとされ、その全てが官幣大社・国幣大社など大社に列していることから名神大社と呼ばれます。

宮島の厳島神社は、日本の三弁天の一つとして知られています。

 他の二つは、神奈川県江の島江島神社と滋賀県竹生島の都久夫須麻神社ですね。

実は、宮島の厳島神社は、宗像三女神である市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命を祀る神社なのです。

そして、宗像三女神のうち、市杵島姫命は神仏習合時代に弁才天と習合し大願寺として信仰されてくことになるのです。

 厳島神社は、大願寺として信仰されていたなら、何か仏像があったはずですね。

実は、明治の神仏分離までは、厳島神社の真後ろに本地堂として観音堂があり十一面観音が祀られていたと言います。

その十一面観音は、行基菩薩の作と伝えられます。

その十一面観音は、今、宮島にある寺院の中で最も歴史が古い大聖院に安置されています。

大聖院は、厳島神社の別当寺として祭を行なっていた厳島の総本坊です。

大聖院は、総本山を仁和寺とする真言宗御室派の大本山です。

空海が宮島に渡り、弥山の上で修行をして開基したのが806年といいます。

皇室との関係も深く、古くは鳥羽天皇勅命の祈願道場として、近くは明治天皇行幸の際の宿泊先になったそうです。

 本地垂迹の、本地が十一面観音で、垂迹が宗像三神と見られていたわけですか。

実際はもっと複雑です。

弁才天に習合された市杵島姫命と田心姫命、湍津姫命の宗像三女神のほか、配神とされる神々が祀られているのですよ。

その神々は次の通りです。

玉留魂神・天照大神・素盞嗚尊・国常立尊・高皇産霊尊・神皇産霊尊・生魂神・足魂神・大宮比売神・御饌津神・事代主神・軻遇突智神・埴山姫神・保食神・稚産霊神・倉稲魂神・豊磐窓神・奇磐窓神・埴安神・金山彦神・猿田彦神・興津彦神・興津姫神・罔象女神・天村雲神・屋船句句廼馳神・屋船豊宇気姫神・八十枉津日神・神直日神・大直日神・底津海童命・中津海童命・表津海童命・底筒男命・中筒男命・表筒男命。

さらに、摂社や客神社には、天忍穂耳命・活津彦根命・天穂日命・天津彦根命・熊野樟日命が祀られています。

本地には十一面観音だけれど、他の仏も祀られています。

大宮には、胎蔵界大日如来・阿弥陀如来・十一面観音・普賢菩薩・弥勒菩薩・虚空蔵菩薩。

客人宮には、毘沙門天・不動明王・釈迦如来・薬師如来・地蔵菩薩。

滝御前には、千手観音。

聖御前には、不動明王。

さらに、源平盛衰記には、本地として惣八幡別宮、垂迹として娑竭羅竜王の娘までが記されています。

ただ、日本の神々は多彩に居られるようにみえて天照の分身とみる人もいます。

一方で、仏教の数々の仏も、実は、大日如来の分身だそうです。

 仏教の仏も、本来はただ一人であって、諸仏はその説明に過ぎないという事ですね。

 神道の神も、本来は一柱で、その他の神々もその説明に過ぎない。

そうなるでしょうね。

 そうだとすると、十一面観音と宗像三女神が対応するが、宗像三女神は弁才天に集約できると見ても良いのでしょうか。

 十一と三と一が同じことになる構図は、十一のセフィロトと三つの柱からなる一つの生命の樹を連想できますね。

しかも、大日如来はイエスの訳に使えると一度はザビエルも思い込んだ仏ですよ。

 でも、大日如来が天皇の祖先神とされる天照の本地となることを知って、ザビエルは大慌てした可能性がある。

その大日如来が、厳島の神の本地として名を連ねるのは、偶然とは思えないですね。

 そして、厳島神社を作った平家には、ペルシャばかりかユダヤ人の関係も想像できましたね。

 平家を「ヘー」「タイラ」から「ヤハウエ」「トーラー」に結びつく可能性も考えてきたでしょ。

今回も、厳島神社から、イエスやユダヤに話が言ってしまいましたね。

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医療の方向選択をTPPは邪魔するか。

癌代替医療を、漢字ひらがなカタカナ、治療や療法と言い方を変えて検索見てください。

cancer Alternative medicineで検索した場合と比べ、2012年9月6日の時点で検索にかかる数は全部合わせても一桁違います。

8桁と7桁と桁が違うだげじゃ、ありません。

一番上の数も、日本の方が少ないのです。

これが意味することが、わかりますか。

英語圏では、癌代替医療の研究が盛んだということです。

 言い換えれば、それだけ需要がある。

その通りです。

 そのぶん、抗癌剤や放射線、手術の需要は当然減るでしょうね。

その通りです。

 これらの治療費は、膨大でしょ。

 それが減れば、保険業者も、医薬品業者も、利益は減るでしょうね。

その通りです。

 その分、利益が上がる国や地域に、進出するでしょうね。

その通りです。

 代替医療の普及が遅れた国は、利益の上がる進出先ですよね。

その通りです。

 当然、日本も、積極的な進出先ですね。

その通りです。

 GDP第3位の日本で代替療法が広がったら、膨大な市場は失われますね。

その通りです。

これでTPP参加したら、どうなると思います。

 もしも日本が代替医療に方向転換したら、ISD条項で儲けの邪魔するなと訴えられますよ。

その通りです。

抗癌剤でも、放射線でも、NK細胞がものすごい勢いで傷つきます。

従来の癌治療で、一番NK細胞への負担が少ないのは手術だけども、ストレスが大きいのです。

 ストレスもNK細胞を阻害する。

だから、ストレス解消が、健康に良い訳ですよ。

NK細胞というのは、ナチュラルキラー細胞の略で、癌細胞などの増えたら健康を害する存在をやっつけるわけです。

ほかにも、リンパ球・T細胞・B細胞・大食細胞など数十種類の細胞が体内で健康を守るために、日々戦っているのです。

 これ、免疫ですね。

その通りです。

だれでも、小さな癌の元は、持っているそうです。

ただし、共犯者がいないとほとんどの場合、凶悪化しないといいます。

 じゃあ、症状化した癌も、生活習慣病ですか。

そういっても、良さそうですね。

それぞれの病気に、なりやすい家系はあるそうだけど、ならないで天寿を全うする人も多いですから。

 生活習慣に気をつければ癌にならないのは、免疫が頑張ってくれているから。

そういっても、良さそうですね。

そこで、医薬療法以外の伝統療法が見直される方向に欧米では進んでいるそうです。

 自然治癒力が見直されている。

ナチュロパシーやホメオパシーのような自然療法、オステオパシーのような整体療法、サイコオパシーのような心理療法の再評価が、進んでいると言いますよ。

アロパシーのような薬物療法は、痛みや熱などの症状に耐えきれないとき対処療法として使う、自然治癒力を使った療法の補完でしかないわけです。

 だから、匙加減という。

その通りです。

この、自然治癒力を引き出す医療へと方向転換すれば、治療費は大きく抑えられます。

 その一方で、保険と医薬の業界や手術の分野は大打撃でしょうね。

可能性はありますね。

 日本がその方向に進む邪魔を、TPPに参加したらISD条項にされる危険性が大きい。

否定できないですね。

もっと、多くの人に、事実はどうなのか、この議論は正しいのか、検証してもらいたいですね。

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トカゲと恐竜の赤ちゃん。どこへ向かうか、恐竜研究。その10

2012年5月11日の読売新聞にこの記事があったと言う情報を得ました。

「赤ちゃん産むトカゲの新種、一気に24種発見」

【ワシントン=山田哲朗】米ペンシルベニア州立大の研究チームがカリブ海の島に住むトカゲの新種24種を見つけ、動物学専門誌で発表した。

新種は、トカゲでは珍しく、卵ではなく赤ちゃんを産む胎生だった。

 研究チームは主に博物館の標本を調べ直す方法で、これまで見逃されていた新種のトカゲを特定した。

爬虫類は例年130種類ほどの新種が報告されているが、一つの論文で一挙に24種も新種が追加されるのは珍しい。

 ただ、キューバ、ジャマイカなどでは農家がサトウキビ畑をネズミから守るため、1872年にインドからマングースを導入。森林開発の影響もあってトカゲの数が減り、今回特定された新種の半分以上は、すでに絶滅したか絶滅寸前という。

恐竜にも、赤ちゃんを産む話がありましたね。

朝日新聞に、この記事がありました。

首長竜の「クー」、赤ちゃん産み子育て? 米チーム研究

プレシオサウルスの母親と胎児の化石=米ロサンゼルス自然史博物館提供

プレシオサウルスが赤ちゃんを産む様子の想像図=米科学誌サイエンス提供

(C)1993Coo製作委員会

 プレシオサウルスという首長竜の仲間は、卵ではなく赤ちゃんを産み、群れで暮らしながら子育てをしていたかもしれない。

化石になった身重の母親を調べた米国の研究チームがそんな論文をまとめ、12日の米科学誌サイエンスに発表する。

 プレシオサウルスは恐竜のいた時代に海で暮らしていた爬虫(はちゅう)類。

景山民夫さんの直木賞作品で、現代に生き残ったプレシオサウルスの子「クー」を少年が育てる物語「遠い海から来たCOO(クー)」に登場。

アニメ映画にもなった。

 チームが、米カンザス州の7800万年前の地層から掘り出された化石を調べたところ、母親の腹の部分から胎児とみられる骨も見つかった。

胎児は1頭。

母親の体長は4.7メートル。胎児は少なくとも1.5メートルで、比較的大きかった。

 海で暮らす古代の爬虫類には、卵でなく赤ちゃんを産んでいたとわかっている仲間もいるが、産むのは1度に複数。

大きな赤ちゃんを1頭だけ産むという特徴は、むしろシャチや小型のクジラなど、群れを作って子育てをする現代の生き物に近く、チームは「同じような暮らしぶりだったかもしれない」と推測している。

(小宮山亮磨)

恐竜を爬虫類に位置付け続けている研究者には、見方が出たと思っている人はいるかもしれません。

 でも、体毛が確認された恐竜は、すでにいくつもあるのでしょ。

そうですね。

プシッタコサウルス、ケラトサウルス、コエロフィシス、アロサウルス、ユティランヌス、ヘルレラサウルス、ユティランヌス、テラノサウルス、など、報告例は増えていますね。

そのうえ、爬虫類と哺乳類について、哺乳類型爬虫類とされた種の分類も、爬虫類型哺乳類が適切という意見が出るなど、境が揺らぐ展開が出てきていますね。

「哺乳類型爬虫類」は、「単弓類」として分類されていますね。

「単弓類」とは、頭蓋骨の左右、眼窩後方に「側頭窓」という穴が一対存在するグループなのです。

「単弓類」には、哺乳類も分類されます。

 単弓類に含まれるのは、盤竜類、獣弓類、キノドン類、哺乳形類、哺乳類、獣亜綱ね。

こうなってくると、哺乳類と爬虫類と恐竜の区別は、どんどんあいまいになりますね。

 さらに、鳥と哺乳類の間で分類に論争があったカモノハシがいるでしょ。

卵を産むが、授乳するからと哺乳類に分類されたのですね。

 でも、ミルクを出せる鳥もいるでしょ。

ピジョンミルクで有名な鳩、フラミンゴもフラミンゴミルクが知られています。

フラミンゴミルクは赤いそうです。

それから、インコ、オウムなどもミルクを出します。

たいていは、素嚢(そのう)から出すようだが、ペンギンミルクは、 胃の蓄えがなくなった後に出るもので、ハトなどのミルクとは違うのです。

素嚢は消化管の一部分で、膨らんだ形状をしており、また管壁が厚くなっており、消化に先立って食べたものを一時的に貯蔵しておくための器官です。

 素嚢は、鳥ならふつう持っているでしょ。

恐竜にも、あったとみられています。

素嚢乳では、含まれる固形分がカッテージチーズのような薄い黄色をしている点では哺乳類の母乳と似ています。

この固形分は、いわゆる乳固形分に相当する成分です。

素嚢乳は、ヒトやウシの母乳と比べると、たんぱく質と脂肪分の含有率が非常に高いです。

違いは、哺乳類ではメスだけしか母乳を作り与えることができないが、素嚢乳はオスとメスの両方の成鳥で作られ、双方が子に与えることですね。

面白いことに素嚢は、鳥や恐竜の他にも、カタツムリなどの腹足綱、ミミズ、ヒル、昆虫など、多くの動物に見られるといいます。

 消化に先立って食べたものを一時的に貯蔵しておくための器官が素嚢だから、どの種も構造は同じですか。

基本的にはそうかも知れないけど、ミルクを出せるように変化した素嚢を基本的機能だけで同じ分類に含めていていいのか、専門家に聞いてみたいところではあります。

ただ、さまざまな動物にあることから、逆に素嚢があればミルクを可能性があると恐竜に対していうことをためらう人もいるでしょう。

だが、赤ちゃんを産んだ恐竜やトカゲの仲間が、どう子育てするのか、興味はあります。

 トカゲの場合、赤ちゃんと言っても卵胎生の可能性もあり得ますね。

今回特定された新種の半分以上は、すでに絶滅したか絶滅寸前というから、早急な調査がなされたかどうか情報が欲しいところです。

 恐竜については、鳥に近いと言うなら、素嚢乳の可能性を否定してはまずいでしょうね。

案外、カモノハシのような授乳だったかも知れないですけどね。

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巫女舞

古代日本において、祭祀を司る巫女自身の上に神が舞い降りるという神懸りの儀式のために行われた舞がもととなり、それが様式化して祈祷や奉納の舞となりました。

古神道においては、神を鎮める様々な行為がなされていました。

そのなかで特に、祈祷師や神職などが依り代となって、神を自らの身体に神を宿す、いわゆる神降しや神懸り(かみがかり)の儀式を巫(かんなぎ)といいました。

これを掌る女性が巫女の発生と考えられ、男性でその様な祭祀に仕える者は覡(げき)と称されます。

『魏志倭人伝』によると、「卑彌呼 事鬼道 能惑衆」つまり卑弥呼は鬼道で衆を惑わしていたという記述があります。

この鬼道や惑の正確な意味や内容については不明ではあるものの、古代に呪術的な儀式が女性の手によって行われた事がうかがえるので、卑弥呼の時代まで巫女は遡れるのかも知れません。

巫女によって舞われる神楽の舞の一つが、神子舞とも記される巫女舞(みこまい)です。

 神楽には、必ずしも巫女によらない獅子舞や、曲独楽等の曲芸もありますね。

巫女舞は、神楽から始まったので、神子神楽(みこかぐら)とも呼ばれます。

巫女舞で舞う巫女を八乙女と呼ぶところから、八乙女舞(やおとめまい)と言われることもあります。

神子神楽という場合、神懸りや託宣の儀式の形式に則って回っては回り返すという動作を繰り返しながら舞うことなどでその身を清めてからその身に神を降すという、古代からの形態を残すところもあります。

現在では、八乙女舞という場合には、優雅な神楽歌にあわせた舞の優美さを重んじた舞をさす例が多いようです。

巫女舞では、千早・水干・緋袴・白足袋の装いに身を包んだ巫女が太鼓や笛を奏し、銅拍子(どびょうし)などの囃子にあわせて鈴・扇・笹・榊・幣など依り代となる採物を手にした巫女が舞い踊ります。

五色の帯を用いることもあります。

また、関東地方の一部などでは巫女が仮面を嵌める場合もあります。

なお、銅拍子(どびょうし、あるいは、どうびょうし)は、打楽器の一つです。

銅鈸子(どうばつし)ともいいます。

中央が椀状に突起した青銅製の円盤2個を、両手に持って打ち合わせるものです。

仏教儀式では鐃鈸(にょうはち)、田楽では土拍子、神楽などでは手平金(てびらがね)、歌舞伎下座音楽ではチャッパなどと呼ばれます。

八乙女は、もとは、処女が舞を務めることになっていたが、近年では神職の妻女や老女が舞う場合もあります。

 本来、処女の巫女が舞うとされてきたことは、神子舞とも記されることと深く関わりそうですね。

神の子が巫女の体を借りて降臨し、臨在することが巫女舞であったから、神子神楽とも呼ばれるのでしょう。

 神子神楽のなかで八乙女に扮した処女の巫女が、神の子に神懸りして行ったのが巫女舞だったわけですね。

巫女舞の原点は、降神巫(こうしんふ)による神懸りの儀式にあったといわれています。

採物を手にした巫女がまず身を清めるための舞を舞い、続いて右回り左回りと順逆双方に交互に回りながら舞う。

やがてその旋回運動は激しくなり、しだいに巫女は一種のトランス状態に突入して神懸り、つまり憑依して、跳躍するに至って、神託を下すことになります。

舞という言葉はこの旋舞の動きが語源であり、跳躍を主とする踊りもここから生まれたとされます。

中国の巫覡の舞の基本を示した『八卦舞譜』には「陰陽を以て綱紀と為す」とあり、舞踏の動作は陰陽を意味する左旋と右盤を必須とすることが記されています。

それは太極図が表現する天地が、いまだ別れる以前の陰陽混然の姿を示しているとされます。

今日の巫女舞で、陰陽の象徴は扇です。

舞の最中、扇が開くか閉じるかで、陰陽を表すのです。

『古事記』・『日本書紀』において天岩屋戸の前で舞ったとされるアメノウズメの故事にその原型が見られ、その子孫とされた「猨女君」の女性達は代々神祇官の女官として神楽を奉納したとされています。

 アメノウズメの舞は、旋舞だったというのですか。

 以前、アメノウズメの舞はベリーダンスだったと言う議論だったと思いますけど。

ベリーダンスは腰の動きに注目が行きがちだけど、回転を意識した動きが多いし、全身で回る旋舞の要素も強いですよ。

それに、巫女の原点は蛇巫(へびふ)であったようです。

 そういえば、神の正体は蛇であったと言う伝承は多いですね。

あるいは蛇に姿を変えて、女性の元に来るという設定もありますね。

 蛇は、神の声を宿すことの象徴でしたね。

巫女舞の笹や五色の帯は、蛇の名残かもしれないですね。

 幣や榊も、可能性はありそうですね。

ベリーダンスでスネークアームという用語があります。

腕の動きを指す用語ですが、全身もまたしなやかにくねらせます。

 ベリーダンスは降神巫としての蛇巫の神懸りの舞が、原点であったから振り付けも、蛇を意識したものになった。

 女性の体のしなやかさや、曲線が際立つセクシーな動きに見えているから、気が付く人は少ないけど。

振付に、原点の動きが色濃く残っているのでしょうね。

 アマノウズメは、アマテラスに代わる太陽神が降臨したと見せかけるための舞を、行ったのですね。

だから、エロチックだったのでしょうね。

神の子を宿すわけだから。

 日本の巫女舞は、アメノウズメの舞のエロチックな要素を封印して、扇で仄めかすわけですね。

まさに、「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」ですよ。

美しき処女たちの、エロチックさを極限まで封印した舞でかえって、彼女たちのうちから匂い立つ色香は、人々を魅了したということでしょう。

 そして、舞う巫女を見る人たちは、こんな気分だったとか。

 「しのぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで」

『貞観儀式』に記される、平安時代の宮廷で舞われたとされる「猨女」・「御巫」はいずれも巫女舞であったと推定されています。

巫女舞の神社や神域以外で舞われるという要素は、やがて白拍子(しらびょうし)というもう一つの流れを生むことにもなるわけですね。

 天皇は太陽神天照の子孫とされるから、宮廷での舞も奉納という側面があったはずですが。

白拍子は、古く遡ると巫女による巫女舞が原点にあったとも言われていますから。

巫女が布教の行脚中に舞を披露してことが、白拍子の元になったと見られています。

白拍子は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種です

白拍子を演ずる芸人もまた、白拍子と呼ばれました。

主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指すが、男性の白拍子もいたようです。

素拍子(しらびょうし)とも書き、この場合は無伴奏の即興の舞を指します。

 この、男性の白拍子がいたと言うあたり、男性のベリーダンサーがいたとされる歴史と似ていて興味深いですね。

複数の白拍子が登場する鎌倉時代前期の軍記物語『平家物語』では、白拍子の起源について「鳥羽院の時代に島の千歳(せんさい)、和歌の前という2人が舞いだしたのが白拍子の起こりである」としていますね。

「初めは水干を身につけ、立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして舞ったので、男舞と呼んだ。途中で烏帽子、刀を除けて、水干だけを用いるようになって白拍子と名付けられた。」と解説しているそうですよ。

白拍子は、男女問わずに舞われたものであったが、主として女性・子供が舞う事が多かったようです。

神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていました。

日本武尊が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったとみられています。

先にも触れたように、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化していったようです。

このような布教に歩いた巫女を渡り巫女とか、歩き巫女といいました。

渡り巫女は、祭りや祭礼や市などの立つ場所を求め、旅をしながら禊や祓いをおこなったとされる遊女の側面を持つ巫女です。

その源流は、平安時代にあった傀儡師といわれる芸能集団とされます。

旅回りや、定住せず流浪して、町々で芸を披露しながら金子(きんす)を得ていたが、必ずしも流浪していたわけではないので後に寺社の「お抱え」となる集団もありました。

渡り巫女は男性は剣舞をし、女性は傀儡回しという唄に併せて動かす人形劇を行っていました。

この傀儡を行う女を傀儡女とよび、時には客と閨(けい)をともにしたといわれます。

また、梓弓という鳴弦を行える祭神具によって呪術や祓いを行った梓巫女(あずさみこ)もいました。

そのうちに遊女が巫以来の伝統の影響を受けて男装し、男舞に長けた者を一般に白拍子とも言うようになりました。

白い直垂・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀をさすという男装で歌や舞を披露しました。

伴奏には鼓、時には笛などを用いたそうです。

 歌舞伎の祖となった出雲阿国も、伝承によれば、出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘といい、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったといわれていますね。

巫女には、そういう伝統があるわけですね。

面白いことに、出雲阿国も、慶長8年(1603年)春に北野天満宮に舞台をかけて興行を行ったが、 男装して茶屋遊びに通う伊達男を演じるもので、京都で大変な人気を集めたといいますよ。

阿国一座が評判になるとこれを真似た芝居が遊女によって盛んに演じられるようになり、遊女歌舞伎となったそうです。

ただ、阿国自身には遊女になったと言う話はないようですね。

阿国は慶長12年(1613年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息がとだえ、没年も不明といいます。

このころの歌舞伎は、女性によるセクシャルなもので、儒学を重んじる徳川幕府などにより、女性による歌舞伎は禁止されました。

その後少年による歌舞伎が行われるようになるが、衆道、つまり男色も盛んに行われた時代でもあり、少年である役者に手を出すものも後を絶たず、今のような役者が全員成年男子で演じられる野郎歌舞伎にかわりました。

ついでにいうと、京都の芸妓や舞妓は、江戸時代に水茶屋の茶汲女(ちゃくみおんな)が歌舞伎芝居を真似て始めたと言うから巫女舞の系譜に繋がるともいえるが、派生した文化といえます。

 だから、茶屋なのですね。

白拍子に話を戻しますね。

白拍子は、後に、猿楽などへと変貌していきました。

 アマノウズメの舞に猿楽との類似が見えるという議論が出るのは、偶然ではなかったわけですね。

アマノウズメの方がはるかに早いので、猿楽の方こそ影響を受けた方の側ですけどね。

後に早歌(そうか)や曲舞(くせまい)などの起こる素地ともなりました。

早歌は、鎌倉時代に貴族・武士・僧侶の間に流行した歌謡で、特に、鎌倉武士に愛好されたました。

曲舞は、南北朝時代から室町時代に流行した芸能で、鼓に合わせて謡いつつ、扇を持って舞ったものです。

また延年(えんねん)にも取り入れられ、室町時代初期まで残ったのです。

延年は、寺院において大法会の後に僧侶や稚児によって演じられた日本の芸能です。

単独の芸能ではなく、舞楽や散楽、台詞のやりとりのある風流、郷土色の強い歌舞音曲や、猿楽、白拍子、小歌など、貴族的芸能と庶民的芸能が雑多に混じり合ったものの総称です。

正確な起源は不明だが、平安時代中頃より行われたと言われています。

能の原型である猿楽との関連は深く、互いに影響を与えあったのは間違いないが、起源的にどちらが先かについては諸説あります。

謡曲『安宅』(あたか)には、登場人物の弁慶が踊る男舞として、延年の舞が踊られることがあります。

この『安宅』を原作とした歌舞伎十八番の『勧進帳』では、弁慶役が延年の舞を踊る場面が見せ場の一つとなっているのは歴史を考えると興味深いですね。

白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い人が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前、後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など貴紳に愛された白拍子も多いです。

また、微妙や磯禅師等、歴史に名を残す白拍子も多いです。

そうそう、巫女舞から白拍子が出た話から、大きく脱線したので本筋に戻りましょう。

『拾遺集』によれば、920年(延喜20年)に奈良の春日大社で「八乙女」と呼ばれる巫女達による神楽が舞われたと記録されています。

平安時代末期の藤原明衡の著である『新猿楽記』には、巫女に必要な4要素として「占い・神遊・寄絃・口寄」が挙げられており、彼が実際に目撃したという巫女の神遊である神楽はまさしく神と舞い遊ぶ仙人のようだったと、記しています。

また、少し後の時代に属する『梁塵秘抄』にある「鈴はさや振る藤太巫女」にも鈴を持ちながら舞い踊る巫女が登場します。

中世以後各地の有力な神社では巫女舞が恒例となりました。

当時の巫女舞は旧来の神懸り的要素に加えて依頼者の現世利益を追求するための祈願を併せて目的としていたとされています。

また、地方では修験者と巫女が結びついて、祈祷や鎮魂を目的とする民間習俗の色彩が濃い巫女舞も行われるようになりました。

現在でも、祈祷・祈願自体を神楽、あるいは「神楽を上げる」と称する例があるのも、このことが基であると考えられます。

中世の巫女舞に関する多くの史料が残されている備前国(岡山県)一宮の吉備津彦神社の例では、1342年(康永元年/興国3年)作成の『一宮社法』によれば、12名の巫女からなる「神子座」があります。

神子座は、一宮の行事以外でも村々の招きに応じて神楽を舞い、逆に村々の巫女が一宮で舞う事がありました。

だが、1471年(文明3年)に作成された「総社家社僧中神前御祈念之事等注文」によれば、巫女も宮神子から選抜される一神子と一般の宮神子、村方の神子に分類されたといいます。

託宣などの禁止はあったものの、一神子のみが本社で神楽を無言で舞うことが許され、宮神子は祈祷のみを許され、占い・託宣・湯立は脇殿で宮神子以外の者が行うことなどが定められて、神事に携わるものと託宣などを行うものが分離されるようになりました。

ところが、江戸時代後期に勃興した国学の中には、神霊の憑依などの霊的現象を淫祠邪教として否定的に捉える学説が現れるようになり、そのような民間習俗と結びつきやすい巫女そのものに対しても否定的な動きが出始めました。

例えば、寛文年間以後に吉田神道の影響によって巫女舞を廃する神社も現れたといいます。

近世は、巫女受難の時でした。

近世社会においては郷村から近世村落への変遷において、神社の庇護者であった在地土豪の消失や社地の縮小による経済的衰退、神主による神事の掌握などを事情に神子(みこ)は減少したのです。

また、近世社会においては名跡を継ぐことが許されるのは男性のみであったため、神子の多くは神子家を継承させるため夫を迎えていたといいます。

後、明治維新を迎え、国学的な神道観を基に神社祭祀制度の抜本的な見直しが為されたが、1873年(明治6年)には神霊の憑依などによって託宣を得る行為は教部省によって全面的に禁止されました。

これは巫女禁断令と通称されます。

禁止措置によって神社に常駐せずに民間祈祷を行っていた巫女はほぼ廃業となったが、中には神社、或いは教派神道に所属することによって姿・形を変えて活動を続ける者もいました。

ほかにも、神職の補助的な立場で巫女を雇用する神社が出始めました。

春日大社の富田光美らが、巫女の神道における重要性を唱えて巫女舞の存続を訴えると同時に八乙女と呼ばれる巫女達の舞をより洗練させて芸術性を高める事によって巫女及び巫女舞の復興に尽くしたことも挙げて良いでしょう。

また、宮内省の楽師であった多忠朝は神社祭祀に於ける日本神話に基づく神楽舞の重要性を主張し、それが認められる形で浦安の舞を制作したといいます。

これが今日見られるような巫女舞になっていくが、依然として「神懸り」の系統を受け継いだ古い形の巫女舞を残している神社も僅かながら存在しています。

その一方で、島根県松江市の佐太神社のように男性神職が女装して姫面を付けて巫女舞を踊る神社も存在しています。

 歴史的にみると、巫女は今の姿からは想像できないけど、日本の魔女とでもいうべき存在だったということですね。

仏教は日本では、伝統宗教である神道と習合したので、キリスト教社会の魔女のようなアンダーグラウンドな存在ではなかったわけですけどね。

 もちろん、天下公認の巫女と民間のアンダーグラウンド文化ともいうべき魔女とは社会での位置付けが違います。

 でも、やっていたことは、奇妙なほど似てませんか。

江戸後期から明治初期にかけて、日本の巫女にもアンダーグラウンド化の危機があったわけですからね。

 淫祠邪教扱いなど、巫女と魔女の共通点でしょ。

淫祠邪教扱いは、巫女も魔女も、とんだ言い掛かりですよ。

陰陽の持つ、男性原理と女性原理という性的教義の側面が、こういう誤解を生んだと言えるでしょう。

 そういえば、魔女の背景にも陰陽に似た思想や文化が見えましたね。

それにしても、巫女と巫女舞の周辺には面白いことが多いですね。

 八乙女の、八(や)は、何でしょうね。

 処女で「や」で神懸かりとくれば、「や」を「ヤハウエ」の「ヤー」と見れば、イエスの母のマリアを連想しますけど。

確かに、神社や神道で聖書やキリスト教が連想できる事が多いことを想えば面白いですね。

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