« 性教育を考えてみた。 | トップページ | トカゲと恐竜の赤ちゃん。どこへ向かうか、恐竜研究。その10 »

巫女舞

古代日本において、祭祀を司る巫女自身の上に神が舞い降りるという神懸りの儀式のために行われた舞がもととなり、それが様式化して祈祷や奉納の舞となりました。

古神道においては、神を鎮める様々な行為がなされていました。

そのなかで特に、祈祷師や神職などが依り代となって、神を自らの身体に神を宿す、いわゆる神降しや神懸り(かみがかり)の儀式を巫(かんなぎ)といいました。

これを掌る女性が巫女の発生と考えられ、男性でその様な祭祀に仕える者は覡(げき)と称されます。

『魏志倭人伝』によると、「卑彌呼 事鬼道 能惑衆」つまり卑弥呼は鬼道で衆を惑わしていたという記述があります。

この鬼道や惑の正確な意味や内容については不明ではあるものの、古代に呪術的な儀式が女性の手によって行われた事がうかがえるので、卑弥呼の時代まで巫女は遡れるのかも知れません。

巫女によって舞われる神楽の舞の一つが、神子舞とも記される巫女舞(みこまい)です。

 神楽には、必ずしも巫女によらない獅子舞や、曲独楽等の曲芸もありますね。

巫女舞は、神楽から始まったので、神子神楽(みこかぐら)とも呼ばれます。

巫女舞で舞う巫女を八乙女と呼ぶところから、八乙女舞(やおとめまい)と言われることもあります。

神子神楽という場合、神懸りや託宣の儀式の形式に則って回っては回り返すという動作を繰り返しながら舞うことなどでその身を清めてからその身に神を降すという、古代からの形態を残すところもあります。

現在では、八乙女舞という場合には、優雅な神楽歌にあわせた舞の優美さを重んじた舞をさす例が多いようです。

巫女舞では、千早・水干・緋袴・白足袋の装いに身を包んだ巫女が太鼓や笛を奏し、銅拍子(どびょうし)などの囃子にあわせて鈴・扇・笹・榊・幣など依り代となる採物を手にした巫女が舞い踊ります。

五色の帯を用いることもあります。

また、関東地方の一部などでは巫女が仮面を嵌める場合もあります。

なお、銅拍子(どびょうし、あるいは、どうびょうし)は、打楽器の一つです。

銅鈸子(どうばつし)ともいいます。

中央が椀状に突起した青銅製の円盤2個を、両手に持って打ち合わせるものです。

仏教儀式では鐃鈸(にょうはち)、田楽では土拍子、神楽などでは手平金(てびらがね)、歌舞伎下座音楽ではチャッパなどと呼ばれます。

八乙女は、もとは、処女が舞を務めることになっていたが、近年では神職の妻女や老女が舞う場合もあります。

 本来、処女の巫女が舞うとされてきたことは、神子舞とも記されることと深く関わりそうですね。

神の子が巫女の体を借りて降臨し、臨在することが巫女舞であったから、神子神楽とも呼ばれるのでしょう。

 神子神楽のなかで八乙女に扮した処女の巫女が、神の子に神懸りして行ったのが巫女舞だったわけですね。

巫女舞の原点は、降神巫(こうしんふ)による神懸りの儀式にあったといわれています。

採物を手にした巫女がまず身を清めるための舞を舞い、続いて右回り左回りと順逆双方に交互に回りながら舞う。

やがてその旋回運動は激しくなり、しだいに巫女は一種のトランス状態に突入して神懸り、つまり憑依して、跳躍するに至って、神託を下すことになります。

舞という言葉はこの旋舞の動きが語源であり、跳躍を主とする踊りもここから生まれたとされます。

中国の巫覡の舞の基本を示した『八卦舞譜』には「陰陽を以て綱紀と為す」とあり、舞踏の動作は陰陽を意味する左旋と右盤を必須とすることが記されています。

それは太極図が表現する天地が、いまだ別れる以前の陰陽混然の姿を示しているとされます。

今日の巫女舞で、陰陽の象徴は扇です。

舞の最中、扇が開くか閉じるかで、陰陽を表すのです。

『古事記』・『日本書紀』において天岩屋戸の前で舞ったとされるアメノウズメの故事にその原型が見られ、その子孫とされた「猨女君」の女性達は代々神祇官の女官として神楽を奉納したとされています。

 アメノウズメの舞は、旋舞だったというのですか。

 以前、アメノウズメの舞はベリーダンスだったと言う議論だったと思いますけど。

ベリーダンスは腰の動きに注目が行きがちだけど、回転を意識した動きが多いし、全身で回る旋舞の要素も強いですよ。

それに、巫女の原点は蛇巫(へびふ)であったようです。

 そういえば、神の正体は蛇であったと言う伝承は多いですね。

あるいは蛇に姿を変えて、女性の元に来るという設定もありますね。

 蛇は、神の声を宿すことの象徴でしたね。

巫女舞の笹や五色の帯は、蛇の名残かもしれないですね。

 幣や榊も、可能性はありそうですね。

ベリーダンスでスネークアームという用語があります。

腕の動きを指す用語ですが、全身もまたしなやかにくねらせます。

 ベリーダンスは降神巫としての蛇巫の神懸りの舞が、原点であったから振り付けも、蛇を意識したものになった。

 女性の体のしなやかさや、曲線が際立つセクシーな動きに見えているから、気が付く人は少ないけど。

振付に、原点の動きが色濃く残っているのでしょうね。

 アマノウズメは、アマテラスに代わる太陽神が降臨したと見せかけるための舞を、行ったのですね。

だから、エロチックだったのでしょうね。

神の子を宿すわけだから。

 日本の巫女舞は、アメノウズメの舞のエロチックな要素を封印して、扇で仄めかすわけですね。

まさに、「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」ですよ。

美しき処女たちの、エロチックさを極限まで封印した舞でかえって、彼女たちのうちから匂い立つ色香は、人々を魅了したということでしょう。

 そして、舞う巫女を見る人たちは、こんな気分だったとか。

 「しのぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで」

『貞観儀式』に記される、平安時代の宮廷で舞われたとされる「猨女」・「御巫」はいずれも巫女舞であったと推定されています。

巫女舞の神社や神域以外で舞われるという要素は、やがて白拍子(しらびょうし)というもう一つの流れを生むことにもなるわけですね。

 天皇は太陽神天照の子孫とされるから、宮廷での舞も奉納という側面があったはずですが。

白拍子は、古く遡ると巫女による巫女舞が原点にあったとも言われていますから。

巫女が布教の行脚中に舞を披露してことが、白拍子の元になったと見られています。

白拍子は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種です

白拍子を演ずる芸人もまた、白拍子と呼ばれました。

主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指すが、男性の白拍子もいたようです。

素拍子(しらびょうし)とも書き、この場合は無伴奏の即興の舞を指します。

 この、男性の白拍子がいたと言うあたり、男性のベリーダンサーがいたとされる歴史と似ていて興味深いですね。

複数の白拍子が登場する鎌倉時代前期の軍記物語『平家物語』では、白拍子の起源について「鳥羽院の時代に島の千歳(せんさい)、和歌の前という2人が舞いだしたのが白拍子の起こりである」としていますね。

「初めは水干を身につけ、立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして舞ったので、男舞と呼んだ。途中で烏帽子、刀を除けて、水干だけを用いるようになって白拍子と名付けられた。」と解説しているそうですよ。

白拍子は、男女問わずに舞われたものであったが、主として女性・子供が舞う事が多かったようです。

神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていました。

日本武尊が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったとみられています。

先にも触れたように、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化していったようです。

このような布教に歩いた巫女を渡り巫女とか、歩き巫女といいました。

渡り巫女は、祭りや祭礼や市などの立つ場所を求め、旅をしながら禊や祓いをおこなったとされる遊女の側面を持つ巫女です。

その源流は、平安時代にあった傀儡師といわれる芸能集団とされます。

旅回りや、定住せず流浪して、町々で芸を披露しながら金子(きんす)を得ていたが、必ずしも流浪していたわけではないので後に寺社の「お抱え」となる集団もありました。

渡り巫女は男性は剣舞をし、女性は傀儡回しという唄に併せて動かす人形劇を行っていました。

この傀儡を行う女を傀儡女とよび、時には客と閨(けい)をともにしたといわれます。

また、梓弓という鳴弦を行える祭神具によって呪術や祓いを行った梓巫女(あずさみこ)もいました。

そのうちに遊女が巫以来の伝統の影響を受けて男装し、男舞に長けた者を一般に白拍子とも言うようになりました。

白い直垂・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀をさすという男装で歌や舞を披露しました。

伴奏には鼓、時には笛などを用いたそうです。

 歌舞伎の祖となった出雲阿国も、伝承によれば、出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘といい、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったといわれていますね。

巫女には、そういう伝統があるわけですね。

面白いことに、出雲阿国も、慶長8年(1603年)春に北野天満宮に舞台をかけて興行を行ったが、 男装して茶屋遊びに通う伊達男を演じるもので、京都で大変な人気を集めたといいますよ。

阿国一座が評判になるとこれを真似た芝居が遊女によって盛んに演じられるようになり、遊女歌舞伎となったそうです。

ただ、阿国自身には遊女になったと言う話はないようですね。

阿国は慶長12年(1613年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息がとだえ、没年も不明といいます。

このころの歌舞伎は、女性によるセクシャルなもので、儒学を重んじる徳川幕府などにより、女性による歌舞伎は禁止されました。

その後少年による歌舞伎が行われるようになるが、衆道、つまり男色も盛んに行われた時代でもあり、少年である役者に手を出すものも後を絶たず、今のような役者が全員成年男子で演じられる野郎歌舞伎にかわりました。

ついでにいうと、京都の芸妓や舞妓は、江戸時代に水茶屋の茶汲女(ちゃくみおんな)が歌舞伎芝居を真似て始めたと言うから巫女舞の系譜に繋がるともいえるが、派生した文化といえます。

 だから、茶屋なのですね。

白拍子に話を戻しますね。

白拍子は、後に、猿楽などへと変貌していきました。

 アマノウズメの舞に猿楽との類似が見えるという議論が出るのは、偶然ではなかったわけですね。

アマノウズメの方がはるかに早いので、猿楽の方こそ影響を受けた方の側ですけどね。

後に早歌(そうか)や曲舞(くせまい)などの起こる素地ともなりました。

早歌は、鎌倉時代に貴族・武士・僧侶の間に流行した歌謡で、特に、鎌倉武士に愛好されたました。

曲舞は、南北朝時代から室町時代に流行した芸能で、鼓に合わせて謡いつつ、扇を持って舞ったものです。

また延年(えんねん)にも取り入れられ、室町時代初期まで残ったのです。

延年は、寺院において大法会の後に僧侶や稚児によって演じられた日本の芸能です。

単独の芸能ではなく、舞楽や散楽、台詞のやりとりのある風流、郷土色の強い歌舞音曲や、猿楽、白拍子、小歌など、貴族的芸能と庶民的芸能が雑多に混じり合ったものの総称です。

正確な起源は不明だが、平安時代中頃より行われたと言われています。

能の原型である猿楽との関連は深く、互いに影響を与えあったのは間違いないが、起源的にどちらが先かについては諸説あります。

謡曲『安宅』(あたか)には、登場人物の弁慶が踊る男舞として、延年の舞が踊られることがあります。

この『安宅』を原作とした歌舞伎十八番の『勧進帳』では、弁慶役が延年の舞を踊る場面が見せ場の一つとなっているのは歴史を考えると興味深いですね。

白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い人が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前、後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など貴紳に愛された白拍子も多いです。

また、微妙や磯禅師等、歴史に名を残す白拍子も多いです。

そうそう、巫女舞から白拍子が出た話から、大きく脱線したので本筋に戻りましょう。

『拾遺集』によれば、920年(延喜20年)に奈良の春日大社で「八乙女」と呼ばれる巫女達による神楽が舞われたと記録されています。

平安時代末期の藤原明衡の著である『新猿楽記』には、巫女に必要な4要素として「占い・神遊・寄絃・口寄」が挙げられており、彼が実際に目撃したという巫女の神遊である神楽はまさしく神と舞い遊ぶ仙人のようだったと、記しています。

また、少し後の時代に属する『梁塵秘抄』にある「鈴はさや振る藤太巫女」にも鈴を持ちながら舞い踊る巫女が登場します。

中世以後各地の有力な神社では巫女舞が恒例となりました。

当時の巫女舞は旧来の神懸り的要素に加えて依頼者の現世利益を追求するための祈願を併せて目的としていたとされています。

また、地方では修験者と巫女が結びついて、祈祷や鎮魂を目的とする民間習俗の色彩が濃い巫女舞も行われるようになりました。

現在でも、祈祷・祈願自体を神楽、あるいは「神楽を上げる」と称する例があるのも、このことが基であると考えられます。

中世の巫女舞に関する多くの史料が残されている備前国(岡山県)一宮の吉備津彦神社の例では、1342年(康永元年/興国3年)作成の『一宮社法』によれば、12名の巫女からなる「神子座」があります。

神子座は、一宮の行事以外でも村々の招きに応じて神楽を舞い、逆に村々の巫女が一宮で舞う事がありました。

だが、1471年(文明3年)に作成された「総社家社僧中神前御祈念之事等注文」によれば、巫女も宮神子から選抜される一神子と一般の宮神子、村方の神子に分類されたといいます。

託宣などの禁止はあったものの、一神子のみが本社で神楽を無言で舞うことが許され、宮神子は祈祷のみを許され、占い・託宣・湯立は脇殿で宮神子以外の者が行うことなどが定められて、神事に携わるものと託宣などを行うものが分離されるようになりました。

ところが、江戸時代後期に勃興した国学の中には、神霊の憑依などの霊的現象を淫祠邪教として否定的に捉える学説が現れるようになり、そのような民間習俗と結びつきやすい巫女そのものに対しても否定的な動きが出始めました。

例えば、寛文年間以後に吉田神道の影響によって巫女舞を廃する神社も現れたといいます。

近世は、巫女受難の時でした。

近世社会においては郷村から近世村落への変遷において、神社の庇護者であった在地土豪の消失や社地の縮小による経済的衰退、神主による神事の掌握などを事情に神子(みこ)は減少したのです。

また、近世社会においては名跡を継ぐことが許されるのは男性のみであったため、神子の多くは神子家を継承させるため夫を迎えていたといいます。

後、明治維新を迎え、国学的な神道観を基に神社祭祀制度の抜本的な見直しが為されたが、1873年(明治6年)には神霊の憑依などによって託宣を得る行為は教部省によって全面的に禁止されました。

これは巫女禁断令と通称されます。

禁止措置によって神社に常駐せずに民間祈祷を行っていた巫女はほぼ廃業となったが、中には神社、或いは教派神道に所属することによって姿・形を変えて活動を続ける者もいました。

ほかにも、神職の補助的な立場で巫女を雇用する神社が出始めました。

春日大社の富田光美らが、巫女の神道における重要性を唱えて巫女舞の存続を訴えると同時に八乙女と呼ばれる巫女達の舞をより洗練させて芸術性を高める事によって巫女及び巫女舞の復興に尽くしたことも挙げて良いでしょう。

また、宮内省の楽師であった多忠朝は神社祭祀に於ける日本神話に基づく神楽舞の重要性を主張し、それが認められる形で浦安の舞を制作したといいます。

これが今日見られるような巫女舞になっていくが、依然として「神懸り」の系統を受け継いだ古い形の巫女舞を残している神社も僅かながら存在しています。

その一方で、島根県松江市の佐太神社のように男性神職が女装して姫面を付けて巫女舞を踊る神社も存在しています。

 歴史的にみると、巫女は今の姿からは想像できないけど、日本の魔女とでもいうべき存在だったということですね。

仏教は日本では、伝統宗教である神道と習合したので、キリスト教社会の魔女のようなアンダーグラウンドな存在ではなかったわけですけどね。

 もちろん、天下公認の巫女と民間のアンダーグラウンド文化ともいうべき魔女とは社会での位置付けが違います。

 でも、やっていたことは、奇妙なほど似てませんか。

江戸後期から明治初期にかけて、日本の巫女にもアンダーグラウンド化の危機があったわけですからね。

 淫祠邪教扱いなど、巫女と魔女の共通点でしょ。

淫祠邪教扱いは、巫女も魔女も、とんだ言い掛かりですよ。

陰陽の持つ、男性原理と女性原理という性的教義の側面が、こういう誤解を生んだと言えるでしょう。

 そういえば、魔女の背景にも陰陽に似た思想や文化が見えましたね。

それにしても、巫女と巫女舞の周辺には面白いことが多いですね。

 八乙女の、八(や)は、何でしょうね。

 処女で「や」で神懸かりとくれば、「や」を「ヤハウエ」の「ヤー」と見れば、イエスの母のマリアを連想しますけど。

確かに、神社や神道で聖書やキリスト教が連想できる事が多いことを想えば面白いですね。

|

« 性教育を考えてみた。 | トップページ | トカゲと恐竜の赤ちゃん。どこへ向かうか、恐竜研究。その10 »

文化・芸術」カテゴリの記事

音楽」カテゴリの記事

民俗」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

神道」カテゴリの記事

コメント

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

投稿: 株の講座 | 2012年9月 5日 (水) 15時02分

喜んでいただきありがとうございます。

投稿: cova | 2012年9月 5日 (水) 16時50分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 巫女舞:

« 性教育を考えてみた。 | トップページ | トカゲと恐竜の赤ちゃん。どこへ向かうか、恐竜研究。その10 »