在原氏。
源氏と言えば清和源氏が有名だが、源氏姓を賜った一族は多いです。
嵯峨源氏にはじまり、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、冷泉源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏、後白河源氏、順徳源氏、後嵯峨源氏、後深草源氏、正親町源氏があります。
源氏姓の由来については、皇室と祖、つまり源流を同じくするという名誉の意味をこめて与えられたと説明されます。
だが、他に皇族に対して賜った姓としては、在原朝臣や平朝臣などがあるのです。
平氏は、源氏程一族は多くありません。
源平合戦で有名な桓武平氏のほか、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏があります。
源流を同じくするというなら、全て源氏姓で良いはずです。
さらにややこしいのは、源氏姓を賜った家系の中でも平氏姓を賜った例があることです。
ちなみに、皇族の出でありながら臣下に下るにはそれなりのわけがあります。
皇子皇女が増えることは、朝廷の財政を逼迫させる基にもなることから、早くに臣籍降下することが皇胤にとって子孫繁栄の道だったのです。
親王ながら皇位を望めない場合や、諸王にあって親王宣下を望めない皇族が自ら降下を求める場合と、朝廷から一方的に降下させる場合とがあります。
皇別氏族を取り巻く状況は、朝廷の財政事情と常に連動する要素が強かったといわれます。
土木で才を発揮した例の多い源氏、貿易で名を遺した平氏に対し、在原氏は今一つ特徴ははっきりしません。
そういえば、清和源氏の祖となった多田満仲も武士の棟梁してだけでなく、沼地を開拓して広大なる田畑を造成し、河川を改修して農耕の拡大に寄与しと民からたたえられていますね。
武士でも源氏の流れと言われる人たちは、土木でも名を遺していますよ。
それで、源は本来水源を意味する事から、治水をはじめとした土木の一族を掌握したことに由来すると言う説を立てましたね。
平氏は、渡来人が平姓を名乗ることが多かったことから、渡来人を掌握したことに由来する可能性を探りましたね。
平氏が貿易で財を成した背景には、渡来人を活用したことがあるのではないかと見てきましたね。
在原姓については、仁平道明東北大学教授の『詩経』小雅「常棣」の中にある“脊令在原 兄弟急難”の句から取ったと言う説があるけど、それくらい掴みどころのない姓なのです。
在原氏には、平城天皇の第 1皇子阿保親王の子孫と平城天皇の第 3皇子高岳親王の子孫の流れがあります。
薬子の変に伴う平城上皇の失脚で政治的に困難な立場に置かれていたため、臣籍に降ることによって皇位継承の資格を放棄し、保身を図ったものと考えられるというから、在原姓は天から原に下るという意味合いもあったかも知れません。
在原氏は、土佐日記で有名な在原業平に見られるように賜姓後もしばらくは不遇の日々でした。
清和天皇の代には、在原氏の家運も上昇していきます。
有力氏族により大学別曹が形成されるようになると、在原氏も奨学院を創設し、子女の教育にあたらせたといいます。
在原姓についても、武士の子孫がいるといわれるようですね。
上杉氏家臣であった長野業正・業盛父子は、業平の子孫とされます。
石田三成の盟友大谷吉継は、一説に行平の子孫ともいわれます。
尾張国知多郡に興る荒尾氏は在原姓を称し、尾張織田家の重臣である平手政秀を出した平手氏もその出自とする説があります。
ほかにも、関ヶ原東軍の総大将徳川家康の祖松平氏は、在原姓荒尾氏の裔と伝えます。
また、西軍の領袖大谷刑部吉隆も在原姓と伝えています。
在原姓の最も栄えた流れは、有名な在原業平の子孫です。
ついでにいうと、徳川家康はもともと松平家康と言い、この松平氏は業平の家系に繋がるという議論もあります。
業平の子孫の松平氏については、清和源氏義重流の子孫の血が入ったので源氏姓に改めたと系譜は伝えます。
徳川家康の旧姓の松平が、業平の子孫の松平であったなら、家康の言う源氏の子孫という主張は、一定の根拠が出てきます。
さらには、徳川家康の出自である松平氏については賀茂氏の流れという議論もありますね。
天皇家の外戚としては、藤原氏があまりに有名だけど、この藤原氏は元を辿れば秦氏であったと言う声があります。
藤原氏と言えば、藤の家紋で貴族の家系という印象が強いですね。
ところが、藤原氏からも神職は出ています。
さらに藤原氏からは、神職であったところから鎮守の杜にちなんで林や小林を姓にしたとみられる一族も出てます。
そして、林姓と小林姓は密接な関係が見られ、その林姓を辿ると賀茂氏が絡んでくるのです。
賀茂氏は秦氏であり、秦氏縁の神社が八幡宮です。
八幡宮の神職を務める中に、小林姓もいます。
そういえば、天皇家は祭祀を掌る一族であり、代々禰子ですね。
林姓や小林姓と深い関わりがある賀茂氏はまた、天皇家の祭祀にも深く関与していると指摘されます。
父である平城天皇の失脚に伴う臣籍への降下という形ではあったが、祭祀を掌る一族に封じ込めるという意味合いが在原姓にあったとしたらどうでしょう。
そういえば、神職の家からも武家は案外と出てますね。
戦国時代から江戸時代まで伊達氏に仕えた武士の一族であった片倉氏には、片倉氏の産土神社の由緒を持つ八幡宮片倉前社や、文正年間片倉氏が起こしたと伝わる片倉山神社があったが明治に入り諏訪神社に合祀され消失しています。
八幡宮片倉前社や片倉山神社の存在は、神職でもあった片倉氏のもう一つの側面を語っていると言われます。
肥田氏も、土岐氏庶流で代々武家として鎌倉幕府、室町幕府を支えた後、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、北条氏康、徳川家康の家臣として仕え、江戸時代には長崎奉行、勘定奉行などの旗本幕閣として徳川幕府中枢を支えるとともに、尾張藩、水戸藩、高松藩の家老を排出した氏族です。
肥田氏は、幕末には遣米使節一行として咸臨丸で渡米するなど明治にかけても活躍し新政府の下で文明開化に貢献してますね。
この肥田氏にも、面白い史実があります。
米田城主であった肥田氏の本当の姓は諏訪氏であり、諏訪大明神に仕える家柄だったことによると言うのです。
さらにこの諏訪氏には、小林姓も絡んできます。
この諏訪神社は、片倉氏縁の八幡宮片倉前社や片倉山神社が合祀されるという因縁が何とも興味深いです。
でも今回は在原氏を考えたいので、片倉氏には深入りしません。
神職の家系にして武士も出したと言えば、小林氏もそうですね。
忠臣蔵に出てくる吉良方の武士の小林平八郎も、親戚筋を辿ると神職を出していた家系に繋がるようですね。
さらに肥田氏を辿ると諏訪氏が出るが、諏訪氏を辿ると桓武天皇や清和源氏の源満快の名前も登場するのです。
徳川家康の出自である松平氏については、賀茂氏の流れという議論がある。
徳川家康の出自である松平氏については、在原業平の子孫の説がある。
在原業平の子孫の松平氏については、清和源氏義重流の子孫の血が入ったので源氏姓に改めたと系譜は伝える。
清和源氏の流れから諏訪氏が出、諏訪氏から肥田氏が出、肥田氏には藤原の出とされる小林氏が絡む。
小林氏と賀茂氏は林氏を介して繋がる。
さらにいえば、家康が名乗った徳川姓は藤原氏との繋がりを意識したとも伝わります。
藤原氏と天皇家の繋がりの深さは有名ですね。
藤原氏は元を辿れば秦氏であり、秦氏の中でも特に祭祀に深く関わったのが賀茂氏です。
在原氏と姻戚関係を結んだ源氏に縁の深い神社は、八幡宮ですよ。
在原氏と神職の関係の深さが、源氏との縁を結び、源氏縁の八幡宮と在原氏の繋がりが深まり、在原氏と賀茂氏の繋がりが深まって誕生したのが松平氏だったのでしょうか。
そして、それを最大限に利用しようとしたのが、徳川家康だったと見ても面白いですね。
在原氏を考えていたら、徳川家康まで行ってしまいましたね。
謎の多い在原氏を考えるには、周辺情報も貴重ですからね。
そうそう、徳川家は江戸に結界を結んでいたなどという説もありますね。
そういう説が出るあたり、賀茂氏との関連が取りざたされる徳川家康らしいといえるでしょうね。
追記
在原氏の系図は藤原氏との関わりの深さを示しています。
【在原系図】
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-ariwarashi.html
藤原氏と在原氏の関係は、在原氏を名乗る一族に藤井氏がいることや、武蔵の長井斎藤別当実盛の子孫は在藤氏を号するが本姓は在原であることにも、表れています。
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