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諦観

諦観とは、諦は、インドの原語「चत्वारि catvāri サットヤ」で真理、明理ということです。

「諦」は通常「諦(あきら)める」と読み、仕方がないと断念したり、思い切ってその状態を受け入れたりする、という否定的な意味あいで使われるが、本来の意味は「あきらか」「つまびらかにする」です。

とくに、良くない状態を思い切って受け入れると言う意味での諦観は、解釈が非常に厄介なところがあります。

観は、ミルということです。

諦観というのは「アキラカニ、真理ヲミル」ということなのです。

そこから、諦視とも呼ばれ、本質をはっきりと見きわめることという意味になりました。

「世の推移諦観する」などというときは、この意味で使われています。

また転じて、あきらめ、悟って超然とすることをも指すようになりました。

「諦観の境地」という場合、悟って超然とする境地ということです。

悟りは、覚りとも書きます。

知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくことです。

一般には、物事の真の意味を知ったり、理解したり、感づいたり、察知したりすることを言います。

「悟りが早い」という場合は、この意味で使っています。

仏教用語としては、迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得することの意味で使われます。

そこで、「悟りの境地に達する」という言葉は、「諦観の境地に達する」とほぼ同じ意味で使われることになります。

悟りは、サンスクリットでは「 बोधि bodhi ボーディ 」で、日本語では「菩提」「開眼」「開悟」「成道(じょうどう」とも言います。

「覚悟」「証(しょう)」「修証(しゅしょう)」「証得(しょうとく)」「証悟(しょうご)」「道(どう)」などの別称もあります。

開悟とは、悟りを開くことで、心の迷いが解けて、真理を会得することです。

成道とは、成仏得道の略で仏になるための道を会得することです。

悟りを開いた者を「buddha ブッダ」といい、漢字で音写し「仏陀」「仏」としたり、「覚者」と意訳したりします。   

諦観と悟りに共通する意味は、正しく、完全に知ることです。

諦観と悟りは、ともに、物事をその本質まで、正しく、完全に知ることをさし宗教的、哲学的に用いられることが多いです。

特に「悟り」については、一般に、物事の本質を知ることの意で用いられます。

一方「諦観」は、本質をはっきり見きわめることの他に、あきらめ悟るの意でも用いられます。

仏教では、諦観は四聖諦(しせいたい)という形で展開されます。

四聖諦は、四諦とも略され、サンスクリット語ではcatvāri āryasatyāni(चत्वारि आर्यसत्यानि)と記されパーリ語でcattāri ariyasaccāniとも呼ばれます。

釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた苦集滅道の4つを言います。

諦とは「真理」という意味であり、四聖諦とは「4つの聖なる真理」の意です。

苦諦(くたい、duHkha-aaryasatya)とは、苦という真理です。

人生の厳かな真相、現実を示します。

「人生が苦である」ということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿されます。

このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説きます。

四苦とは、生・老・病・死の4つです。

これに、愛する対象と別れねばならない「愛別離苦」(あいべつりく)憎む対象に出会わなければならない「怨憎会苦」(おんぞうえく)求めても得られない「求不得苦」(ぐふとっく)最後に人間生存自身の苦を示す「五陰盛苦」(ごおんじょうく)、または「五取薀苦」(ごしゅうんく)を加えて「八苦」と言います。

非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句「四苦八苦」はここから来ています。

集諦(じったいduHkha-samudaya-aaryasatya)とは、苦の原因という真理です。

集諦とは、苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって現れたものであるという真理、またはこの真理を悟ることを言います。

集諦とは「苦の源」、現実に苦があらわれる過去の煩悩をいうので、苦集諦といわれます。

「集」とは招き集める意味で、苦を招きあつめるものが煩悩とされます。

この集諦の原語は「サムダヤ」(samudaya)であり、この語は一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「つみかさねる」などを意味し、さらに「結合する」ことなどを意味します。

その点、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できます。

苦集諦とは "duHkha-samudaya-satya" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としています。

具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛(かつあい)をいいます。

これらは欲望を求めてやまない衝動的感情をいいます。

さて、仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起です。

この十二縁起とは苦の12の原因とその縁を示しているので、十二縁起より、苦とは12の原因のシステムという事になります。

12個集まってそれ全体が苦なので、「無明」も「渇愛」も、苦の根本原因であり苦集諦です。

滅諦(めったいnirodha-aaryasatya)、苦の滅という真理です。

「苦滅諦」といわれ、煩悩が滅して苦のなくなった涅槃の境地を言い、いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり、煩悩の火の吹き消された世界です。

苦の滅があるということを認識すること、すなわち苦の滅の悟り、または苦の滅を悟ることを滅諦というのです。

諸法皆空という言葉で言われているように、森羅万象全ての法、すなわち諸法はすべてこれ空であって、実体のあるものではなく、因と縁から成り立っているものとされます。

苦は縁であり、縁はたとえば心や行いなどの因を変えることによって変わりうるという悟りとも言えます。

道諦(どうたいmaarga-aaryasatya)とは、苦の滅を実現する道という真理です。

「苦滅道諦」で、苦を滅した涅槃を実現する方法、実践修行を言い、これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道です。

その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が、サンスクリットでआर्याष्टाङ्गो मार्गो(aryaaSTaaGgo-maargo)と記される八正道(はっしょうどう)です。

「八聖道」とも「八支正道」とも言うが、『倶舎論 』では「八聖道支」と記します。

『倶舎論 』は『阿毘達磨倶舎論』の略で、仏教哲学の基本的問題を整理したものです。

八正道とは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の、8種の徳です。

釈迦が最初の説法において説いたとされ、涅槃に至る修行の基本となります。

四聖諦では、「苦の原因」から「苦」が生じ、「苦の滅を実現する道」から「苦の滅」に至るというように、それぞれ順序が逆転しているので、4つの真理は、前半の2つと後半の2つで二分することができます。

つまり、集諦から苦諦が生じ、道諦から滅諦が生じると言うわけです。

それぞれ「遍知」、「滅除」、「成就」、「修習」という課題が付随しています。

遍知とは、苦は「知り尽くすべきもの」ということです。

滅除とは、苦の原因は「滅するべきもの」ということです。

成就とは、苦の滅は「実現すべきもの」ということです。

修習とは、苦の滅を実現する道は「実践すべきもの」ということです。

初転法輪とは、釈迦はさとりを得た後、ヴァーラーナスィーの鹿野苑において、初めて五比丘のために法を説いたことです。

仏教の教義を法輪といい、その法輪を初めて人々の前で回転させたと言うわけです。

 法輪、つまり、仏の教えには始めも終わりもないということでしょうか。

 もしそうなら、イエスのアルファでありオメガであるに、近いですよ。

確かに、似ていますね。

初転法輪の時、この四諦を説いたと言われ、四諦は仏陀の根本教説であるといえます。

 仏の教えの根本を明らかにし、人々を苦しみから救う。

 天の神である御父の教えの根本を明らかにし、救済の計画を成就します。

 ここでも、仏陀とイエスは似てますね。

四諦は、応病与薬という風に例えられるから、私は癒しが必要な人のために遣わされたと言うイエスに通じるものが見えますね。

 イエスも自分の教えを薬に例えていますからね。

四諦は、釈迦が人間の苦を救うために説いた教えです。

医者が、患者の病気の何であるかをよく知り、その病源を正しく把握し、それを治癒させ、さらに病気を再発しないように正しく導くようなものだと言われています。

初転法輪において釈迦は、まず迷いの現実が苦であることと、その苦は克服しうるものであることを明らかにしました。

すべてを苦と受け取らせる原因は、「煩悩」であることを明らかにしたのです。

 イエスも、肉体を持つことからくる様々な制約が、人々を悩ませ、苦しめていると説きますね。

しかし、仏陀もイエスも、人は肉体を持ったままで救いの境地に至れると説きます。

仏陀は、苦は、苦として外にあるのでなく、我々がそれをどう受け取るのかで変わってくることを説いています。

この煩悩を正しく処理すれば、苦に悩まされない境地をうるが、その道こそ、いっさいの自己愛を捨て、他に同化することにあるので、その根本は自己の本姿に徹することであるというのです。

本来、執着すべきでない自己に執着することこそ、苦の原因なので、この「苦」を滅して涅槃の世界に入る方法こそ「仏道」なのです。

 これは、イエスの言う、神の似姿としての人の本来のあり方に目覚め、自らの想いの上に神の想いを置くことを求める事と、基本的に同じでしょうね。

 聖書もまた、神の言葉を人が歩むべき道としているでしょ。

そうなると興味深いのが、大乗の四諦に対する解釈です。

大乗の『大般涅槃経』の四諦品では、通常の四諦に新しい大乗的な解釈を加えた、涅槃の教理的な四聖諦を説いています。

苦聖諦とは、この世の苦を明らかに徹見(てっけん)し、如来常住の真理を会得すること、常住の法身を信じないことが生死の苦の根源であると知ることです。

徹見とは、すみからすみまで見とおすこととか、ありありと見えることということです。

 如来常住の真理は、聖書でいう神は生きておられると言う考えを連想しますね。

 常住の法身を信じないことが生死の苦の根源というのも、イエスによって成就する救いを信じて御霊による導きを受け入れれば神の助けを得られるとする聖書の教えと似てますね。

集聖諦とは、苦の根源は煩悩妄執であることを徹見し、それに対して如来の深法は常住にして不変易であり、窮まりないと證知すること、非法を先とし正法を断滅することが生死の苦悩を受け集める原因であると知ることです。

 ここも、一切の苦悩と迷いはサタンの誑かしからくるとする聖書に近いようにみえますね。

滅聖諦とは、苦の原因である一切の煩悩を除き、苦を滅する事が悟りの境地をさします。

如来の秘密蔵を正しく知り修智すれば、煩悩があってもよく除く事ができ、衆生の一人一人が自己に内蔵する如来蔵(仏性)を信ずる一念が苦を滅するということです。

 サタンと立ち去れと、毅然と言い切れる信仰をもち、神の救いと導きを聖霊によって受けるなら、安らぎを得られるとする聖書の教えを、ここでも、連想できますね。

道聖諦とは、仏道修行を通して仏法僧は差別無く一体である一体三宝と解脱涅槃の常住不変易を知り、修習すること、如来が常住不変易であるから、三宝の一体、解脱は涅槃経の2つも常住不変易であると知ることです。

 如来が常住不変易であることは神の子イエスが世の初めからおられること、一体三宝は父と子と聖霊の絶対三神をほうふつとさせますね。

あきらめ、悟って超然とすることをも、諦観というようになったが、この、あきらめ悟る内容が、問題なのです。

 良くない状況でも仕方がないと言って受け入れれば良いと、言うわけではない。

周囲を変え、状況を変えるために、まずは自分が変わる必要があるわけです。

 その変わり方も、問題なのでしょ。

悟るとは、迷いの反対で、真理、すなわち、法に目覚めることなのです。

 ただ、解釈すればいいのではなく、変革の視点に立って物事の根本から理解しなければならない。

仏法であれば仏、聖書であれば神の、指し示された道に戻すため、近づけるために、どう判断し、祈り、求め、行動するか、問われると言えるでしょう。

悟りは初期仏教から部派仏教あたりまでは究極目的であり、悟るためにさまざまな修行が説かれ実践されます。

部派仏教(ぶはぶっきょう)またはアビダルマ仏教とは、インドを中心に釈迦の死後百年から数百年の間に分裂・成立した20の部派の総称で、分裂以前の仏教を「初期仏教」あるいは「原始仏教」といいます。

仏教の悟りは、智慧を体としています。

凡夫が煩悩に左右されて迷いの生存を繰り返し、輪廻を続けているのは、それは何事にも分別(ふんべつ)の心をもってし、分析的に納得しようとする結果であるとします。

輪廻の迷いから智慧の力によって解脱しなければならない、その方法は事物を如実に観察することで実現します。

これが真理を悟ることであり、そこには思考がなく、言葉もないとされます。

 一切の先入観や誤解や偏見や憶測や期待とか願望を排し、ありのままを見、ありのままを聞き、ありのままを受け入れるということですね。

 思考や言葉がないのではなく、その物事自体が語る内容を率直に受け止め、自分や人の考えで歪めるなということでしょうね。

大乗経典では、それ以前の教義と峻別するために「覚り」を超えるものとして「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、原語Anuttara samyaksaMbodhi)」「無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)」を措定しています。

悟りの意味の違いが宗教・宗派の違いであるということもできるが、般若経などでは、「覚り」と「悟り」は別のものとして使い分けられているなど、混乱して使われています。

 客観的な姿と、心に反映され理解や解釈された内容とは、どんなに近づけようとしても、所詮は別物だから、般若経のように「覚り」と「悟り」を区別する場合がある。

「覚り」は感覚で受け止めたばかりの外界に対する未処理の情報、「悟り」は理解や解釈を加えた外界に対する処理済みの情報、という風に分けて考えた方が良いのでしょうね。

 だから、二つの表記法がある。

後で触れるけど、覚りには、また、別のサンスクリットが対応する場合がありますよ。

 一般に問題になるのは、外界に対する認識の違いだから、外界に対する処理済みの情報を意味する悟りが、使われる。

釈迦は多くの哲学者や宗教家の教えを受け、苦行にも専念したが悟りを得られなかったと言いますからね。

 結局どの解釈も、部分的な真理は含んでいても根本で間違っていた。

そこで今までの修行法をすてて、尼連禅河(にれんぜんが)で沐浴し身を清め、村娘スジャータから乳粥(ちちがゆ)の供養を受けて河を渡り、対岸のピッパラ樹の下で坐禅をして禅定に入ったのです。

その禅定がしだいに深化し、三昧の中で「三明」が顕れ、真理を悟ることができ、釈迦は悟った者である覚者、すなわち「ブッダ(仏陀)」になったのです。

三明とは、不思議な力である神通力で「宿命智・天眼智・漏尽智」を言います。

三明に「神足通・他心通・天耳通」の三つを足して六通になり、末法の世の中を正法に回らすことが出来ます。

 なんだか、父と子と聖霊みたい。

 ヨハネに洗礼を受けたイエスに、御父の声が聞こえ聖霊が舞い降りた光景が浮かびました。

 仏陀となった釈迦自身は預言者と見れば、三人の天使の訪問を受けたともとれるが、父と子と聖霊の臨在かもしれないとみたら、間違えですか。

神はどんな名で呼ばれようとも、ただ、一人ですから。

この悟りの境地を「涅槃(ねはん)」といい、それは「寂静(じゃくじょう)」であるとされ、煩悩が制御されているので、とらわれのない心の静けさがあるということです。

 御霊に包まれて得られる安らぎ、ということですか。

 初期仏教には、御霊を授けられる高位の神権者がいたのでしょうか。

可能性は、有り得ますね。

また、悟りを求める心を菩提心といいます。

悟りを求める点では部派仏教も大乗仏教も共通であるが、自分のさとりを追求する部派仏教の場合、声聞(しょうもん)は四諦(したい)の教えを聞いて修行し、縁覚(えんがく)は十二因縁を覚ってそれぞれ解脱するとします。

「覚り」と訳す場合、部派仏教の旧訳(くやく)ではサンスクリット語「vitarka」に対応します。

vitarkaは「尋」とも訳し、対象を推しはかって分別する麁(あら)い心の働きをいいます。

一方、細かい心の働きを「vicaara」といい、旧訳では観(かん)、新訳では伺(し)と訳します

vitarkaとvicaaraは対になって用いられ、ともに定心(じようしん)を妨げるが、禅定の深まりによって消滅します。

 外界の情報は、受け入れたばかりのときは混とんとしているので理解や解釈の迷いを生じるが、関係が見えてくると心の中に形が定まって定着するということでしょうか。

大乗経典では「覚り」は「bodhi」の訳で「菩提」と音写され、覚り、もしくは覚りの智慧を表します。

古くは「道(どう)」「意」「覚意」などと訳されました。

 初期仏教は宗教というより、哲学に近かったと聞いたことがあります。

 覚りと悟りの使い分けは、認識論の問題を考察していた可能性はあり得ますね。

 それに対して、大乗仏教は聖書に近い内容がかなり入り込んできますね。

大乗仏教では、覚りについての解釈は、初期仏教の哲学上の認識論的考察に比べて、宗教的性格が強くなっているのかも知れません。

 預言や啓示との関係も、出てきているかもしれない。

預言や啓示が、大乗の聖典の記述にどう反映されたかですね。

大乗では、覚りには神による導きや諭しへの気付きという意味も込められたかも知れないですね。

「菩提」「道」「意」「覚意」と訳され、覚りの智慧を表したわけですから。

大乗仏教では自分の悟りは他人のさとりを前提に成立するという立場から、六波羅蜜(ろくはらみつ)という利他行を実践する菩薩行(ぼさつぎょう)を強調します。

 どのような諭しや導きを受けたかを、交流し合い、教え合って、より深く、より高く、経典を理解しようとしたのでしょうね。

悟りは、固定した状態とはされません。

悟りの行は、自利と利他の両面を願って行動し続けることであり、自らの悟りに安住することなく、悟りを求める人々に実践を指導するために活動し続けた釈迦の姿が想定されています。

活動していくことに悟りの意味を求めているのが、大乗以降の仏教における菩薩の特徴です。

そして菩薩の悟りは声聞や縁覚と違い、究極最高のものであるとして「阿耨多羅三藐三菩提」「無上正等正覚」、あるいは単に正覚と呼ばれます。

 実践によって、理解と確信をより確かにしていこうと言うのですね。

 教会でいうところの、証しを日々の営みや教えの実践から得る、ということに似てますね。

諦観についていえば、現実を正しく見て、何についてどう教えや諭しや導きを受けるかが、問題でしょうね。

神仏のご加護を、神仏の御心に従う事で受けようとするか。

神仏のご加護を、今の自分と自分を取り巻く状況を前提として受けようとするか。

今の自分と自分を取り巻く状況を前提として、神のご加護を受けようとするのが今の状況に対する諦めとすれば、神仏のご加護は気休め程度にしか得られないでしょうね。

ただし、自分の想いではなく神仏の御意志を優先させてくださいと祈るなら、今は耐えるしかないので仕方なく現実を受け入れている私を憐れみ支えてください助けてくださいと祈るのなら、気休め以上のご加護が得られるかもしれません。

この苦い盃を退けてくださいと祈りながらも私の気持ちよりあなたの気持ちを優先させてくださいと祈って、十字架に赴く決意を固められたイエスの諦観は、やはり、神仏の御心に従うことを選択の余地なしと受け入れたことなのでしょう。

諦観、奥が深いです。

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