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2012年12月

神も苦労してる?

だれだって、どっきりする質問されたら答えに困りますよね。

その一つにこの質問があります。

「あかちゃんはどこから来るの?」

「生まれるからよ。生まれることに理由なんかないの。一つあるとすれば、お母さんとお父さんが愛し合ってるから。」

すり替えといわれようがなんと言われようが、子どもは生まれたから生まれた、これしか誰も言いようがないのでは。

そして、もっと突っ込んで聞かれても愛し合ってるからとしか誰も答えようがないのでは。

 でも、もっと皆を困らす質問がありますね。

 「どうして殺しちゃいけないの?」

答えに困ったら、こういうしかないでしょうね。

「理由なんかないよ。殺しちゃいけないことに理由なんかないの。一つあるとすれば、むかしからそうなってるから。」

しつこい相手には、こう聞きかえしたらどうなるでしょ。

「好きになるのに理由が要る?」

誰かを、あるいは何かを好きな理由を聞かれてすらすら言えるでしょうか。

言えたとしても、それは好きになったから見えてきたことでは。

たとえ好感ぐらいであっても。

殺しちゃいけないわけも、似たようなものじゃないでしょうか。

どうしてと考えるから、心にあれこれ浮かんでくる。

思わなければ考えもつかないし、考えたこともないから想像もつかない。

 でも、こんな疑問のでてくるのは、日本に神を信ずる人の少ないことが原因でないでしょうか。

 神が“汝殺すなかれ”と命じられたなら、これを疑うことは神に対する罪と恐れるから。

でも、神を信じない人には、通じないから他の国でも説明に困っていたりして。

 そういえば、最近ヨーロッパでは無宗教の若者が増えていると言う話もあるようですね。

逆に、アジアやアフリカからの布教で、教会が出来る話もあるらしいです。

アメリカの治安が悪い地域に、日本から行った宣教師もいますからね。

 そうなのですか…。

神が守ってくださると、信頼しきって赴いたようですけどね。

 そうなのですか…。

世の中にはさまざまな“べからず”がありますね。

 以前聞いた中には、こんなのありました。

 “この土手に上るべからず警視庁”

聖書には“汝姦淫するなかれ”とあります。

「姦淫」とは、辞書によると「男女が不倫な肉体関係を結ぶこと」です。

言い換えるとこうなります。

“倫理に外れた両性間の性の営みはまかりならん!”

 つまり分かり易く言うとこうですね。

 “これはあかんで!”。

不倫や肉体関係を言い換えると、こうなります。

「男女が、彼らの属する社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体に反する、特に、人間としてふみ行うべき道すじにはずれる、性欲に関する関係を結ぶこと」

裏を返せば、お勧めはこれってなるのでしょうか。

「男女が、彼らの属する社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体に基づく、特に、人間としてふみ行うべき道すじにしたがい、性欲に関する関係を結ぶこと」

これは、“世間から公認された二人が、心から愛し合っていたすならよいぞ”というのなのでしょうか。

となると、世間公認な間柄、つまり婚約者同士や夫婦であっても“愛がなければおあずけよ!”となるのでしょうか。

 たしかに、そういいたくなる。

欲望のままに交わり、子どもを邪険にする「夫婦」と称する人々は最近よくあるように、残念ながら思えます。

 彼らもまた、こういって神のお叱りを受けちゃうのでしょうか。

 「汝姦淫すべからず」

そうかも。

 倫理の基準を持つことは、大切だけど、簡単ではない。

だから、宗教と神の出番があるのでしょうね。

 そして、地獄の出番もある。

そうかも。

 でも、神も説得には苦労してるのでは。

それで、御霊の出番があるのでしょうね。

 問答無用。

ただし、縁無き衆生は度し難しと、神仏も嘆いてますがね。

イエスも、あなたの信仰があなたを救ったと言ってるし…・

 神も、大変だ…。

そうかも。

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少子化で、人格形成にも影響が出ていないか想ってみた。

猫や犬は、大勢と暮らせる子に育つにはどうしたら良いと思いますか。

生まれてからすぐ家族から離れた子は、大勢と暮らすのが苦手です。

少なくとも四ヶ月くらいまで、家族の下で兄弟姉妹とじゃれあいながら過ごした子は、大勢と暮らすのはそれほど苦手ではないです。

人間には、最近きれる子が多いと聞きます。

かつては、“きれる”というと“頭がきれる”、つまり、いろいろとよく気がつくということだったでしょ。

いまは、“きれる”ということは“堪忍袋の緒がきれる”、つまり、変化についていけずストレスがたまりやすいということだそうですよ。

こどもは、大勢の仲間とじゃれたり駆け引きしたりすることで、変化に機敏に反応したり、感情を上手に操ったり、じっとこらえたりする訓練ができるのですよね。

近頃の人間の子は、少子化で兄弟姉妹はいないは、近所の遊び仲間はいないは、思いっきりじゃれるに家は狭いは、空き地はないは、小さいときから塾通いだは、一人遊びが多いは、でしょ。

おまけに、近所の大人とのコミュニケーションも商店街や地域の人間関係の崩壊で途絶えがちではないでしょうか。

これって、無人島向きの人を量産中ってことでしょうか。

 犬猫もペットショップで売れるのは2ヶ月くらいの子がいいとかで、はやく母離れさせることが多いそうですよ。

 そうすると情緒不安定で虚弱な子が多いそうです。

こどもにとって何がいいか、大人はもっと成長しないと、いけないようですね。

 犬猫は集団で生活するための協調性を養うために、すこし大きくなるまで親や兄弟と一緒にいるほうがいいってのも聞いたことあります。

 一緒に遊ぶ中で学ぶことは多いはず。

 犬も猫も人間もそれは同じことですね。

どうしたらいいか、もっと多くの人が考えるようになる方がいいでしょうね。

 最近は小さい頃からコミュニケーションを取る相手が限られてる感じですよね。

 昔は近所の子と空き地で遊んでたんですが、だんだんとそういう姿を見かけることもなくなっちゃうんでしょうか…。

空き地そのものがほとんどないか、入れなくされてるのではないでしょうか。

 最近は、空き地でなんかあったら、責任問題とかになったりしちゃいますからね。

 大人は、責任のなすり合いですからね。

 あとあと問題になりそうなことは、最初からやらせない…。

 いいんでしょうかね。。

責任能力の低下、なのでしょうかねえ。

 ふんふんと納得しながら聞いてました。

 うちの犬も1ヶ月半でデパートのペットショップにいましたが、見知らぬ犬や人と全然仲良く出来ないので当ってます。

 まあ犬だしほとんど外出しないんで人様に迷惑はかけてないけど、これが人間だと確かに困りますね。

でも、人間関係がうまく結べないで困ったり、周囲とトラブルになったりしてる人、最近多いようですねえ。

 幼い頃から近所の大人や老人など年上ばかり回りにいる中で育っていると、同年齢の世代とどう付き合ったらよいか勘所がつかみきれないで悩む人がますます増えるでしょうね。

やはり、少子化対策は、ちゃんときめ細かくやって欲しいですねえ。

社会を支える世代の減少ばかりが注目されるけど、人格形成にも深く関わってきますからねえ。

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風の盆

風の盆と言えば、富山県富山市八尾町(旧婦負郡八尾町)で毎年9月1日から3日にかけて行なわれている富山県を代表するおわら風の盆を思い浮かべます。

しかし、ここで疑問が起きます。

なぜ、風の盆なのでしょう。

 この時期は風が強いから、風を抑えるためという解釈する人もいますね。

「風」「かぜ」とは、空気の流れのこと、あるいは流れる空気自体のことです。

現代の気象学においては「風」とは、地球上の大気の流れを意味しています。

厳密には、地面に対して水平方向の流れである水平風のみを指し、垂直方向の流れである鉛直風は上昇気流または下降気流というが、一般的には分けないことが多いです。

ただ、日常において風は水平方向に吹くことが多いため、風といえば普通は水平方向の風を指すことになります。

富山県富山市八尾町といえば、蜃気楼で有名な富山湾と飛騨高山の山並みの間に挟まれた、富山湾から吹き込む風が絞り込まれて山々に阻まれる立地条件にあります。

そしてまた、山並みから吹き降ろす風がまともに当たる地域でもあります。

 そういう土地柄を思えば、こういう解釈が出てくるのも無理がないように見えますね。

ただ、この地域が風に悩まされるの台風の時期だけではないようですね。

束風とも玉風とも呼ばれる暴風は、冬に北西から東北・北陸地方の日本海沿岸で吹くそうです。

 でも、夏の終わり、あるいは、秋の始まりから冬にかけて、風に悩まされる地域ではある。

津波でも、入江の一番奥は絞り込まれて水が高く上がる事を思えば、風を抑えたいと言う願いは切実でしょうね。

 風で有名な地域はいくつもあるが、なぜ、この地域だけ風の盆と呼ぶのかという謎も、この立地条件で解けそうに見えますね。

けれど、もう一つの謎、なぜ封じの願いを込めた儀式が盆に行われるかです。

 盆は、魂との交流であり、祖霊をはじめとした霊力に満たされるからでしょうね。

神仏や祖霊の力を借りて荒れ狂う風を抑えたいから、盆の行事を風を抑える呪術として利用したいのも、もちろんあるでしょうね。

そして、この願いにぴったり合う名称の風習があったあったわけですね。

 その名もずばり、「風流」と呼ばれる民俗芸能ですね。

「風流」の読みには、「ふうりゅう」と「ふりゅう」の二通りがあります。

その中に、盆踊りも、含まれているのです。

「風」を「ふう」と読むと、こういう意味になります。

ある地域・社会などの範囲内で一般に行われている生活上の様式、または、やり方・流儀や風俗・習慣とかならわし。

人や物の姿・かっこう、なり、あるいは、風体。

それらしいようす、もしくは、ふり。

世間への体裁とか聞こえ。

性格の傾向、または、性向。

名詞に付いて、そういう様式である、そういう外見である、その傾向がある、などの意を表す。

「詩経」の六義(りくぎ)の一で、諸国の民衆の間で作られた詩歌も、風(ふう)と呼ばれました。

おそらく、官に対し民を野とする所から、野の流儀で作られた詩歌という気持ちを込めて、風(ふう)と呼んだのかも知れません。

これらの意味が出てくる背景には、風が物事を方向つける力を持っているという事実があると感じ取れます。

さらに、強風となった場合、まともに風圧を受けるような形のものは破壊されるが、上手にやり過ごす形のものは残ります。

つまり、風には物事の方向性や形に対して指示を与える能力が認められることになるでしょう。

そこから、風あたりが強いなどという言い回しも、生まれることになります。

そして、風の流れを上手に取り込んだりやり過ごすと、流れるような美しい形や仕草が生まれ、やがてそれを風流と形容していくことのなったのでしょう。

「風流」を「ふうりゅう」と読むと、こういう意味になります。

上品な趣があること、おちついた優雅な趣のあること、みやびやかなこと、また、そのさま、風雅。

世俗から離れて、詩歌・書画・茶など趣味の道に遊ぶこと。

美しく飾ること、意匠や数奇(すき)をこらすこと、また、そのさま。

「風流韻事」の略で、自然に親しみ、詩歌を作って遊ぶこと、また、詩歌を作ったり、書画を書いたりする風雅な遊びの意。

先人ののこしたよい流儀、なごり、遺風。

浮立ちとも書かれる民俗芸能である、念仏踊り・雨乞い踊り・盆踊り・太鼓踊り・鹿踊り・獅子踊りや獅子舞・ねり物・などの場合「ふりゅう」と呼ばれることもあります。

ここでいうねり物とは、ねり歩くということです。

上品で優雅なおもむきのあることも、「ふりゅう」と呼ばれることもあるけれど、文脈で区別がつきます。

ただし、次の場合は「ふりゅう」と呼ぶことが一般的です。

平安末期から中世にかけて流行した芸能の一で、祭礼などの際に行われる華やかな衣装や仮装を身につけて、囃(はや)し物の伴奏で群舞したもの。

中世芸能としての「ふりゅう」は、のちには、華麗な山車(だし)の行列や、その周りでの踊りをもいうようにもなる。

風流延年とも呼ばれる、唐土の故事を題材をとった延年舞の演目もまた「ふりゅう」と呼ばれる。

登場人物の問答のあと、歌舞となり、規模により大風流と小風流とある、能の式三番「翁」の特殊演出である。

風流延年は、狂言方が担当するとことろから狂言風流とも言われ、大勢の華やかな衣装の鶴亀・福神などに扮した演者が舞台に現れて、祝賀の舞を舞う。

都(みやこ)から、離れれば離れるほど、ひなびた土地であればあるほど、昔の文化は残りやすくなります。

 富山県富山市八尾町も、山を越えるか、海沿いに平野を伝うか、しないとたどり着けないという点では、都から近いとは言えないですね。

風流盆踊りが風の盆の語源ではないかと見たのも、こういった背景を考えたからなのです。

残念ながら、私はまだ、現地を知らないので、思い違いや勘違いがあれば、教えていただければ訂正したいと思います。

 どうしておわら風の盆なのかという謎の、風の盆の方は置いといて、どうして「おわら」か言わないと終わらない気がするけど。

「おわら」は「おはらい」の転化とも取れるけど、さらに、「おわり」の願いも重ねているのかも知れないですね。

 風が少しでも穏やかになって、風の季節が何事もなく終わって欲しいというお祓いの気持ちを込めて「おわら」と呼ぶ。

今回の話、そろそろ終わらせていいですか。

ていうか、終わらせます。

 ダジャレで落ちのつもりですか。

 余りベタ過ぎて寒いんですけど。

では、風とともに去りぬって、私の足は風より遅かったっけ、残念。

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十戒―仏教と聖書を比べて見た。

十戒には、十誡という表記もあります。

 でも、ごんべんの十誡は、最近見かけませんね。

かつての漢語訳では日本でも中国でも、仏教のものを「十戒」、ユダヤ教・キリスト教のものを「十誡」と書き分けたのですよ。

今では、どちらも「十戒」を使いますけどね。

ちなみに仏教の十戒は、仏教において沙弥および沙弥尼が守らなければならないとされる10ヶ条の戒律をいいます。

沙弥(しゃみ、zraamaNera)や沙弥尼(しゃみに、zraamaNerikaa)は、式叉摩那(しきしゃまな、zilSamaaNa)とともに出家者の仲間ではあるが、比丘や比丘尼ではない人のことです。

式叉摩那・沙弥・沙弥尼は、出家者としてやがて比丘・比丘尼となるべき人か、その試錬期にある者とされます。

仏教でいう10ヶ条の戒律とは、五戒に、別の5つを加えたものです。

五戒とは、仏教において在家の信者が守るべきとされる基本的な五つの戒のこと。で、より一般的には在家の五戒などと呼ばれます。

不殺生戒(ふせっしょうかい) - 生き物を殺してはいけない。

不偸盗戒(ふちゅうとうかい) - 他人のものを盗んではいけない。

不邪淫戒(ふじゃいんかい) - 自分の妻(または夫)以外と交わってはいけない。

不妄語戒(ふもうごかい) - うそをついてはいけない。

不飲酒戒(ふおんじゅかい) - 酒を飲んではいけない。

付け加えられるのは、この5つです。

不塗飾香鬘(ふずじきこうまん) - 首飾りを著けたり香を塗ったりしない。

不歌舞観聴(ふかぶかんちょう) - 歌舞音曲をしたり聞きに行くこと。をしない。

不坐高広大牀(ふざこうこうだいしょう) - 高広の大床に坐すこと。をしない

不非時食(ふひじじき) - 正午から翌日の日の出までは食事をしない

不蓄金銀宝(ふちくこんごんほう) - 金銀宝石などに執著せず持ち込まない。

仏教で十戒という場合、十善戒(じゅうぜんかい)を指す場合もあります。

十善戒とは、仏教における十悪を否定形にして、戒律としたものです。

江戸時代後期の徳僧、慈雲尊者によって広く宣揚されました。

 十悪は、これですね。

 殺生(vihiṃsā) 偸盗(theyya) 邪淫(kāmamicchācāra) 妄語(musāvāda) 綺語(samphappalāpa) 粗悪語(pisuṇāvācā) 離間語(pharusāvācā) 妄貪(abhijjhā) 瞋恚(byāpāda) 邪見(micchādiṭṭhi)

十善、十の善き戒めは、これです。

不殺生(ふせっしょう) - 故意に生き物を殺しません。

不偸盗(ふちゅうとう) - 与えられていないものを取りません。

不邪淫(ふじゃいん) - みだらな性的関係を持ちません。

不妄語(ふもうご) - 嘘をつきません。

不綺語(ふきご) - 無駄な噂話をしません。

不悪口(ふあっく) - 乱暴な言葉を使いません。

不両舌(ふりょうぜ) - 他人を仲違いさせるような言葉をいいません。

不慳貪(ふけんどん) - 異常な欲を持ちません。

不瞋恚(ふしんに) - 異常な怒りを持ちません。

不邪見(ふじゃけん) - (因果、業報、輪廻等を否定する)間違った見解を持ちません。

仏教の十戒をみると、聖書の十戒とよく似ていることに気づきます。

 でも、宗派によって多少違いがあるのでしょ。

微妙なようですが、意外に大きな差かもしれません。

正教会やルーテル教会以外のプロテスタントの場合はこうです。

1.主が唯一の神であること。

2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)。

3.神の名を徒らに取り上げてはならないこと。

4.安息日を守ること。

5.父母を敬うこと。

6.殺人をしてはいけないこと。

7.姦淫をしてはいけないこと。

8.盗んではいけないこと。

9.偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)。

10.隣人の家をむさぼってはいけないこと。

1から4までは神と人との関係であり、5から10までは人と人に関する項目と同時に刑法の根幹です。

ユダヤ教の安息日は土曜日であるが、キリスト教会ではイエスの復活の日である日曜日を主の日と呼び、日曜日を聖日として礼拝しています。

それにたいして、カソリック教会やルーテル教会の場合はこうです。

わたしはあなたの主なる神である。

1.わたしのほかに神があってはならない。

2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

4.あなたの父母を敬え。

5.殺してはならない。

6.姦淫してはならない。

7.盗んではならない。

8.隣人に関して偽証してはならない。

9.隣人の妻を欲してはならない。

10.隣人の財産を欲してはならない。

カソリック教会・ルーテル教会は、偶像崇拝禁止の代わりに、隣人の妻を欲してはならないという項目が入ります。

夫は家長として一家を取り仕切り、妻も子も家長に服従しないといけない時代が長く続きました。

カソリックやルーテル派の十戒は、そういう時代背景で生まれたという側面を見た方が良いかもしれません。

 じゃあ、カソリック教会やルーテル教会では隣人に関して偽証してはならないっていうけど、隣人は隣の家だから、家族には良いのかしら。

偽証してはいけないのは、誰に対してもでしょ、当然。

 やっぱりねえ。

注目したいのが、偶像崇拝禁止なのですよ。

正教会はイコンを作るけど、これを偶像として拝んではいけないのです。

これは、仏教でいえば写経に近い修行と言えるでしょう。

 イコンは飾るけれど、仏典の引用句を掲げるのに等しい。

そういうことでしょう。

カソリックは、異教徒への布教の方便としてイエスやマリアの偶像を利用してしまったので、十戒から偶像崇拝禁止を外してしまったようですね。

 正教会は、どこの国でも組織は別でも、同じ正教会でしたよね。

いずれの地域別の教会組織も、正教として同じ信仰を有しているので、教派名はあくまで正教会です。

ロシア正教会・ルーマニア正教会・ギリシャ正教会・ブルガリア正教会・セルビア正教会・グルジア正教会・日本正教会などは組織名であって教派名ではないですね。

なお、アルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会なども同じく「正教会」を名乗るが、ギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別の系統に属します。

これらの教会は、英語では"Oriental Orthodox Church"とも呼ばれますね。

 仏教とキリスト教、十戒が似ているのは偶然ではない。

釈迦のいた釈迦族とは、サカ族のことだと指摘する人もいます。

ヘロドトスの『歴史』、プトレマイオスの『地理学』、メガステネスの『インド誌』などによると、サカ族はチベットとも関わりが深いという説もあります。

 ペルシア人はすべてのスキタイ人をサカ人と呼ぶという指摘もありますね。

 スキタイは、古代イスラエル人が行動を共にしたとも言われますね。

古代中東の遺伝子は、チベットと日本に多く残ります。

離れた土地で、故郷の文化が強く残るのはよくあることですよ。

そのため、日ユ同祖論や日本スメル起源説が出たりします。

 それって、チベットユダヤ同祖論や、チベットスメル起源説に通じませんか。

当然、言ってる人はいるようです。

 釈迦はユダヤだった…。

釈迦はスメルだった、という議論もありますよ。

実際は、釈迦族はアーリヤ系のサンスクリットでSuurya-vaMzaと呼ばれる日種(にっしゅ)に属し、甘庶王(かんしょおう、オッカーカ)系といわれています。

「日種」とは「太陽の末裔」という意味で、太陽と光を表す「スヴァスティカ」を勝利の太陽神シンボルとしたのがアーリア人です。

 「スヴァスティカ」は仏教のシンボルで、万字としてお馴染みですね。

「アーリア人」は、今ではインドに移住してきたインド・アーリア人、イランに移住してきたイラン・アーリア人およびそれらの祖先のみを指す場合が多いです。

そして面白いことに、インドもイランも日本人のルーツを考えるときに意外と避けて通れない地域なのです。

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ロードピス―古代エジプトのシンデレラ。

世界中に、シンデレラのバリエーションといえる話が残っていると指摘されるのです。

 そういえば、中国や日本にもあるのよね。

中国では、唐の時代に楊貴妃がモデルと言われる「掃灰娘」という類話があるのですよね。

 「掃灰娘」といえば、基づいていると思われる唐代の小説「葉限」などの類話があるのでしたね。

 楊貴妃と言えば、蜀の出身ね。

 蜀と日本には、繋がりが見えたのよね。

山田仁史の「台湾のシンデレラ?」という記事が、篠田知和基編『愛の神話学』(楽瑯書院 2011)に収録されているそうですよ。

 台湾か、それは興味深い。

 大陸から民話の伝わった地域の一つが、台湾なのでしょうか。

中国と日本の間にあるだけに、気になりますね。

今回注目したいのは、シンデレラに似た話が中東のエジプトにあることです。

"The Egyptian Cinderella"とも言い得る、ギリシャの歴史家ストラボンが紀元前1世紀に記録したロードピスの話があるというのです。

これは、現在知られている中でもっとも古い記録の一つに挙げられると言うのです。

 ロードピスというと、どういう意味でしょう。

バラの顔と言う意味だそうで、ヨーロッパや中国の類似の物語にある灰とは関係ないですね。

 そうなると、灰が付く名前で呼ばれるようになった背景は、やはり聖書と何らかのかかわりがあるのでしょうか。

可能性は疑って良いけれど、裏を取る必要はありますね、

ロードピスの話は、こう言う筋書きだそうです。

エジプトのお屋敷に、美しい女奴隷ロードピスが住んでいた。

主人は優しい人だったが多くの召使いに十分目が届かず、肌が白く外国人のロードピスはまわりの女召使いからよくいじめられていた。

あるとき、ロードピスが上手に踊るのを見た主人はロードピスに美しいバラの飾りのついたサンダルをプレゼントした。

すると他の女召使いたちは、ロードピスに嫉妬していっそう彼女につらく当たるのだった。

その後、エジプトの王様が民衆を首都に招き、大きなお祭りを催した。

女召使いたちはそのお祭りに出かけていったが、ロードピスにはそのお祭りに行けないようにたくさんの仕事を言いつけた。

仕方なく言いつけどおりオルモク川で服を洗っていると、バラのサンダルを誤って濡らしてしまう。

そこでそれを岩の上で乾かしているとハヤブサが持っていってしまい、それをメンフィスにいるファラオの足元に落とした。

そのハヤブサがホルス神の使いだと考えた王様は、国中からそのサンダルに合う足の娘を探し、見つかったら結婚すると宣言した。

王様の船がロードピスの住むお屋敷にやってくると、ロードピスははじめ身を隠してしまったが、サンダルを履かせるとぴったりあった。

またロードピスが残していたサンダルのかたわれも見つかり、王は宣言どおり、ロードピスと結婚した。

主人公のロドービスは、色の白く美しい外国人の女奴隷だったという設定が、私たちの知るシンデレラと決定的に違うのです。

 どうして、奴隷になったのかなあ。

さあ、まだ、そこまでは調べてないです。

それに、元の物語にそこまでの記述があるかどうかも、疑問が残るのです。

この物語が生まれたころには、言うだけ野暮だったのかもしれません。

私たちが知っているシンデレラは、細部は異なるものの、大筋としては以下のとおりです。

シンデレラは、継母とその連れ子である姉たちに日々いじめられていた。

あるとき、城で舞踏会が開かれ、姉たちは着飾って出ていくが、シンデレラにはドレスがなかった。

舞踏会に行きたがるシンデレラを、不可思議な力が助け、準備を整えるが、12時には魔法が解けるので帰ってくるようにと警告される。

この不思議な力は、話によって、魔法使い、仙女、ネズミ、母親の形見の木、白鳩など、さまざま。

シンデレラは、城で王子に見初められる。

12時の鐘の音に焦ったシンデレラは階段に靴を落としてしまう。

王子は、靴を手がかりにシンデレラを捜す。

姉2人も含め、シンデレラの落とした靴は、シンデレラ以外の誰にも合わなかった。

シンデレラは王子に見出され、妃として迎えられる。

こうしてみると、17世紀の南イタリアでバジーレによって書かれた灰かぶり猫(Cenerentola)は、主人公の殺人から話が始まる点で、明らかに異質ですね。

ナポリ方言で書かれた民話集のPentamerone(ペンタメローネあるいはペンタメロン)に、1日目第6話として納められているそうです。

Pentameroneは、五日物語という意味だそうです。

 中東から地中海にかけて、似たような題の物語形式が流行ったのかなあ。

 日本では千夜一夜物語として知られる千一夜物語があるでしょ。

こう言う構成は枠物語に分類され、起源は、わかっている中で、紀元前1千年紀の古代インドにまで遡ることができるそうですよ。

バジーレの作品の最大の特徴は最初にゼゾッラが最初の継母を衣装箱に挟んで首を折って殺害する場面があることです。

このシーンは、グリム童話の1つである「ねずの木」と似ていると指摘されるのです。

ただし、「百槇の話」としても知られる「ねずの木」では、継母に先妻の子である男の子が殺されてしまうが、継母が復讐される顛末は共通です。

この、「ねずの木」も興味惹かれるけど、今回は深入りしないです。

 バジーレは灰かぶりや灰かぶり姫と呼ばれる物語に、なぜ灰をかぶったのかという説明を加えたかったのでしょうか。

一連のシンデレラ物語の中で、異質には違いないけど、理由は謎ですね。

ただ、旧約聖書の時代から、舞台となった地域の周辺の世界では灰をかぶって悔い改めるというのは最上級の心からの悔い改めを意味していたようです。

その最上級の心からの悔い改めを必要とした罪として、殺人を設定したと見ても良いのかもしれません。

さらに情報を集める必要があるので、推定に止ますけど。

五日物語の作者であるGiambattista Basile(ジャンバティスタ・バジーレ)は、17世紀初めにナポリ王国の軍人・詩人です。

各地を旅する中で、シンデレラの物語に原罪としての殺人を持ち込む着想を得たことは、十分あり得るかもしれないです。

継母からのいじめと復讐という構図が似ている、「ねずの木」から手法を転用したと見たくなるのはごく自然でです。

主人公の救いに鳥が関わる展開まで、似てるのですからね。

どこまでも、想像ですけどね。

シンデレラの物語は、ヨーロッパばかりか、中国、さらには台湾、日本と広がっているわけです。

 原作は、中東で生まれたと、想像できませんか。

楊貴妃の出身は、蜀ですね。

この蜀については、中東から来た人々である可能性を、考えたことがありました。

 そして、エジプトにも類似の物語があるのは、偶然ではないでしょ。

蜀の字は、目と屈んだ姿と虫です。

 虫を蛇と見れば、とぐろを巻いて頭をもたげた姿にも見えるのね。

「虫」は、「蟲」が旧字です。

 虫は、人や獣や鳥以外の、小動物全般を指すのよね。

特に昆虫だそうです。

「ホルスの目を差し出す蛇神ネヘブカウ」は、まさに蜀の字の格好そのものです。

世界で言う三大美人は、クレオパトラ7世、ヘレネ、楊貴妃です。

日本では、ヘレネの位置に小野小町を数えるのですけどね。

そして、この4人の美人の共通点として浮かび上がったのが、ギリシャでした。

 そうなると、エジプトのシンデレラと言えるロードピスの出自は気になるのね。

色の白いエジプトにいた外国人の美人となると、地理的に言ってもギリシャは疑って良さそうですね。

 ギリシャ神話とエジプト神話は、305年頃、ギリシャのプトレマイオス一世王朝創始の辺りから混じり合うのでしたね。

物語の成立した時代、エジプトにいたギリシャ人の中にもロードビスのような、奴隷に身を落とした人はいたかもしれないですね。

どこまでも、仮定ですけどね。

 ロードビスの話が、エジプトから、ヨーロッパや中国や、さらには台湾や日本に伝えられたと見て良いのでしょうか。

ギリシャ人の影響を強く受けた人々が、エジプトから各地へと広めたのでしょうかね。

シンデレラは、謎が多いです。

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十戒は何故石に刻まれたか想像してみた。

十戒は、なぜ、石の板に刻まれたのだと、思いますか。

 そこには石しか、なかったから。

 木があったら、木の板に刻んだのでは。

木の板はいつか朽ちるが、石の板は割れない限り持ちますよ。

 永久保存にしたいから、石に刻んだ。

 これで終わりでは、話は続きません。

十戒は、面白いことに、カソリックとプロテスタントでは、微妙に違うのですよ。

正教会と、ルーテル教会以外のプロテスタントの場合は、こうです。

主が唯一の神であること

偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)

神の名を徒らに取り上げてはならないこと

安息日を守ること

父母を敬うこと

殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)

姦淫をしてはいけないこと

盗んではいけないこと

偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)

隣人の家をむさぼってはいけないこと

一方、カソリック教会とルーテル教会の場合はこうです。

わたしはあなたの主なる神である。

わたしのほかに神があってはならない。

あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

あなたの父母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

隣人に関して偽証してはならない。

隣人の妻を欲してはならない。

隣人の財産を欲してはならない。

カソリック教会とルーテル教会は、偶像崇拝の禁止を外しています。

 そういえば、カソリックの教会には、磔刑のイエスの像や、マリア像、などありますね。

正教会と、ルーテル教会以外のプロテスタントでは、偶像を置かないと言いつつ、礼拝の場の真正面に、しばしば、十字架があるでしょ。

これに対しても、いくつかの宗派は異を唱えて、礼拝の場に十字架がなかったりします。

理由は様々で、イエスの殺害に使われたものを礼拝の場に置くなんて不謹慎だと言う宗派もあれば、十字架と言えども礼拝の場の真正面では偶像と紛らわしいと言う宗派も、あります。

偶像と紛らわしいと言って礼拝の場に置かない宗派の場合、教会の外観にはいかにもそれらしく見えるからとデザインに取り入れることもあるようです。

カソリック教会とルーテル教会は、偶像崇拝の禁止かわりに、隣人の家をむさぼってはいけないという戒めの二つの項目を分けています。

 ということは、十戒といいつつ、実質は十一戒じゃあないですか。

この、11という数字は、生命の樹のセフィラの数でもあります。

セフィロトというのは、セフィラの複数形です。

そして、生命の樹はアダムカドモンと呼ばれるように、アダムの姿でもあるが、もう一人のアダムに位置付けられるイエスの象徴でもあります。

想い起してください。

ヨハネによる福音書の1章1節から1章5説にはこうあります。

初めに言葉があった。

言葉は神と共にあった。

言葉は神であった。

この言葉は、初めに神と共にあった。

万物は言葉によって成った。

成ったもので言葉によらずに成ったものは

ひとつもなかった。

言葉のうちに命があった。

命は人間を照らす光であった。

光は暗闇の中で輝いている。

暗闇は、光を理解しなかった。      

この、神とともにあった言葉とは、御父の預言者としてのイエスですよ。

 十戒とは、イエスそのものである。

そうなりませんか。

 言葉は生きているが、文字は死んでいる。

 死んだ文字は、石に封じられている。

これは、十字架を下された後のイエスを、暗示していると言えないでしょうか。

 イエスは、石で封印された墓に横たえられた。

 そして、復活した。

まさに、イエスの死と復活の預言形になっていないでしょうか。

 しかも、今、イエスは昇天して、隠れ、言い換えれば、霊界の存在になっている。

 霊界にいることこは、事実上、死に等しいとも言い得る。

その意味では、再臨のイエスは、再度の復活を遂げるイエスとも、言えるかもしれないですね。

だが、飛鳥昭雄と三神たけるなら、言うでしょうね。

もっと奥があるよ。

 カッバーラは、言葉遊びの形で、仕掛けられる。

ま、ようするに、駄洒落です。

 古代イスラエル人や、イエスの時代の言葉なんて知らないから無理という人は…。

飛鳥昭雄と三神たけるに言わせると、この謎解きは日本人だから出来るそうですよ。

彼らは、日本には天孫一族という形で十支族、秦氏という形で二支族、来てるんだよと、言いますからね。

日本は、古代イスラエルを連想できる文化が満載だそうですよ。

カタカナなんかも、へブル文字と形ばかりか表している音まで似てると、言いますからね。

神社なんか、古代イスラエルの幕屋の呆れるほどのコピーですよ。

周りに神域を設ける。

入口に二本の柱を立てる。(鳥居に対してヤキンとポワズ)

拝殿と本殿に分ける。

賽銭箱がある。

神職の衣装の裾に房がある。

清めの塩を用いる。

二本の棒で担ぐ金で覆った箱の上に羽の付いた像が載ってる。(神輿の鳳凰とアークのケルビム)

お祓いをする。

ここまでそっくりな、神祀りの宮をもつ民族は日本とユダヤだけですよ。

 神祀りの宮でありながら、神像を持たないとこまで似てる。

正月の鏡餅は、過ぎ越しの祭りの種入れぬパンの飾り方に酷似。

日本は正月に葉野菜で雑煮をするが、ユダヤは苦菜を食す。

諏訪大社にも、アブラハムとイサクの故事そっくりの行事が守屋山を望む麓で行う風習が伝わっている。

古代中東の遺伝子は、中東以外ではチベットと日本に残るのみ。

後もいろいろあるようなので、興味のある人は日ユ同祖論で調べてみてください。

十戒、つまり、十の戒めです。

聖書で十とくれば、日本人で思い出す人が多いのが十字架でしょ。

十字架で絶えたイエスは、石の扉に封じられた。

そして、復活を遂げる。

十はジュウと読むが、ジュウとくればユダヤですよ。

イエスはユダヤ教徒によって、十字架に架けられる。

ますます、預言形でしょ。

さらに、飛鳥昭雄と三神たけるは聖書を理解する鍵を握るのがカッバーラだが、陰陽と同じというのです。

言葉は、息や風、さらには長いもの繋がりで、木にまで繋げられるのが、陰陽なのですよ。

十字架は、木で出来てます。

イエスは、木に架けられたという伝承もあるから、まさに当てはまる。

十戒石に込められた、預言と思われるものを、記してみますね。

イエスはユダヤ教徒によって、木で出来た十字架に架かる。

石で封じられた墓に横たえられるが復活して出てくる。

イエスは昇天して、今は霊界に隠れている。

いかがです。

 正しいかどうかは、さておき、もっともらしい解釈だけは、できますね。

これを、よくもまあ、もっとらしくでっち上げたと見るか、有り得ると見るかは、あなた次第です。

追記

イエスは、しばしば、石や岩に例えられます。

これは、イエスの教えはそれだけ強固であると言っているわけです。

そこで、十戒石を、永遠の真理を説いたイエスの象徴と見ることも可能でしょう。

今回は、別の切り口から考えて見ました。

また、十字架については、イエスは今も生きておられるので、死の象徴である十字架を祭壇に飾るのは適切ではないと見る宗派もあります。

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理想と良心をあざ笑う人に言いたい、

政権取りそうだから、大きな党だからと言って一票入れて、何か変わりましたか?

今一度、自分がどんな国に住みたいかよく考えてください。

あなたは何にどう怒り、どう変えて欲しいと思いましたか?

列挙してみてください。

見えてくるはずです。

そして多くの人が自分の気持ちに正直になれば変わります。

悔い改めて福音を信ぜよ。神の国はあなた方のうちにある。

というが、想い起して自らの気持ちを見つめて欲しいのです。

この国を変える鍵は、あなた方が自分の心の良心に正直に行動することにあるのではないでしょうか。

あなた方が自分の良心にのみ従うとき、この国は劇的に変わるのではないでしょうか。

違うでしょうか。

悔い改めて福音を信ぜよ。神の国は近づいた。

というが、想い起して自らの気持ちを見つめて欲しいのです。

この国を変えられる時は、あなた方が自分の心の良心に正直に行動する時にあるのではないでしょうか。

あなた方が自分の良心にのみ従うとき、この国を劇的に変えられるのではないでしょうか。

違うでしょうか。

神の国は、どこか遠くにあるのではないのでは、ないでしょうか。

人々の理想の中にあるのではないでしょうか。

人々の良心の中にあるのではないでしょうか。

理想をあざ笑い、良心をあざけるものは、想い起してください。

今のあなたの不幸は、理想をあざ笑い、良心をあざける、あなたの心が自ら招いたのではないでしょうか。

神の国とは、理想と良心の王国であるのでないでしょうか。

悔い改めて福音を信ぜよ。

これは、あなたのうちにある理想と良心に立ち返れという言うことであるのではないでしょうか。

神の国とは、理想と良心の王国であるのではないでしょうか。

理想と良心に忠実であってこそ、理想と良心の王国はこの地上にやってくるのではないでしょうか。

あなた方が悔い改めれば明日にでも来るのであるのではないでしょうか。

違うでしょうか。

宗教の言葉を使うだけで、嘲り笑う人がいます。

神などいないと。

神を法則と言い換えるがいいでしょう。

あなたは法則を信じないのでしょうか。

古人は法則の担い手を神と呼んだのではないでしょうか。

法則を信じない者は、科学を信ずるなと、言われないでしょうか。

違うでしょうか。

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阿羅漢と聖書?

以前、仏性について、こういう議論を展開しました。

上座部仏教では、この娑婆世界とか穢土とか言われる穢れた世界に生まれて苦しみを受けるのは煩悩によるものであると捉えます。

そこで、出家して厳しい戒律を保つことによって煩悩を断ち切り阿羅漢(あらはん)になることを目的とされます。

阿羅漢は、仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のことです。

サンスクリット語"arhat"の主格 "arhan" の音写語で、略称して羅漢(らかん)ともいいます。

"arhat"の主格 "arhan"は、「価値ある」「立派な」などの意味を持つ語根"arh-"の派生語です。

応供(おうぐ)は、 "arhan" の漢訳です。

阿羅漢はもとは、釈迦の尊称の一つでした。

そうなると気になってきたのが、"arhat"の主格 "arhan"は、「価値ある」「立派な」などの意味を持つ語根"arh-"の派生語ということです。

「価値ある」「立派な」などの意味を持つ"arhan"の語根が、"arh-"というのは、似た音の言葉をどこかで聞かなかったでしょうか。

 "אַלהַ(アレフラメッドヘー)"は、"エロハ"とも"アロハ"とも"アッラー"とも読める神の単数形ですね。

神の単数形には、"アル"や"エル"と読める、力や能力の意味もある"אַל(アレフラメッド)"もあります。

 こうみると、"אַלהַ(アレフラメッドヘー)"は神の単数形と見るよりも、力や能力を持つものという意味で解釈した方が良いように見えてきますね。

より高い次元の存在から与えられた力や能力が、"アル"や"エル"と読める"אַל(アレフラメッド)"。

より高い次元の存在から力や能力を与えられた存在が、"エロハ"とも"アロハ"とも"アッラー"とも読める"אַלהַ(アレフラメッドヘー)"。

そういう見方も出来そうですね。

 そうなると、"アル"や"エル"を神権、"エロハ"や"アロハ"あるいは"アッラー"を神権者と呼んでも良さそうですね。

"arh-"を神権、"arhan"を神権者と見なすと、 "arhan"が釈迦の尊称の一つであるということは、釈迦とは神権者を指す言葉であり、釈迦族とは神権者に従う一族という意味にとれますね。

 "arh-"は神の義だから「価値ある」「立派な」ことであり、 "arhan"は「価値ある」「立派な」ことである神の義に従う人とも、とれるわけですね。

"arhan"は「価値ある」「立派な」ことである神の義に従う人だから、応供の字があてられた可能性はありそうですね。

神仏の御心と御言葉に、応じて供となるから応供と呼ばれたと、なりそうですね。

 ゲッセマネの祈りを、想い起しますね。

こう言う祈りでしたね。

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。」

イエスが過ぎ去らせて欲しいと思った杯は、苦い杯と表されることもあります。

聖書の解釈の中に、私たちが地上に来た目的は天の神である御父のようになるために様々なことを学ぶ必要があるので、あえて肉体という制約を受けたのだと言う考えがあります。

 霊の体のままなら、考えたことは即座に形になるが、肉の体では、考えたことをいったん行動に移さないと形にならない。

 それも、なかなか想う通りにいかなくて、苛立ちや、焦りや、挫折や、絶望さえも、感じて悲しさや悔しさの涙も流す。

 でも、そこを乗り越えると、自在の境地が待っている。

 それを堪え忍んで、忍耐や寛容や、達成の喜びを学び、また、どのように困難を乗り越えるかを学ぶ。

この考えは、仏教でいう六道輪廻と似ていますよね。

天道(てんどう、天上道、天界道とも)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)

今回は深入りしないけど、この六道輪廻から解脱して悟りを開くことを仏は人々に求めています。

 旧約聖書で、イスラエルの民は悔い改めと堕落を繰り返しますね。

 まるで、六道輪廻、そのものですね。

一時の悔い改めも、長続きしないあたり、まさに六道のうちの天道を連想できます。

イスラエルの民には、何度となく様々な形で預言者が送られます。

預言者を含む、さまざまな神権者によって、イスラエルの民は導かれたのです。

この神権者たちを、応供=阿羅漢="arhan"とみると、見事なまでに、釈迦族にイスラエルの民は似てきます。

 こんなところにも、イエスは仏教徒だったと言う説が出る背景がある。

本当は、釈迦族こそ、イスラエルの民同様、古代中東出身の民と見るべきなのでしょうね。

 釈迦族も、イスラエルの民から分かれた一族だから、神権者の導きがあったのでしょうか。

そんなふうにも、思えてきますね。

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頑固と頑な。

事実を知ることは大事なのです。

でも、その事実が物語る真実の方がもっと大事なのです。

事実の名のもとに、どうでもいいような情報が山のように氾濫しているのです。

真実がわかる事実を、効率よく見分けられるようになりたいものです。

頑固と頑なは、似ていて違うのです。

頑固は見てないようで視ているのです。

聞いてないようで聴いているのです。

気づいていないようで気づいているのです。

理解していないようで理解しているのです。

頑なは見ているようで見えていないのです。

聞いているようで聞こえていないのです。

気づいているようで気づいていないのです。

理解しているようで理解していないのです。

頑固は、変われないのではないのです。

変わらないのです。

だからといって、自分のやり方を人に押し付けないのです。

自分の流儀は、わかるものがわかればいいのです。

従いたいものが従えばいいのです。

だから、勝手にしろ、と言えるのです。

頑なは、変わらないのではないのです。

変われないのです。

それでいて、自分のやり方を人の押し付けるのです。

自分の流儀は、わからないものがいる方がおかしいのです。

従いたくないものがいる方がおかしいのです。

だから、勝手にしろ、と言えないのです。

良い意味で頑固になりたいものだと思うのです。

事実を見せろと言う人には、頑なな人が多いのです。

そういう人は、自分が事実と信ずることしか事実と認めようとしないのです。

かれらにとっては、自分に都合が悪いことはすべてが嘘に見えるのです。

彼らにとっては嘘が真実であり、真実が嘘になるのです。

本当の事実を見分けられる心になりたいものです。

真実や原理や原則についての話に耳を傾けない人はたいていこういうのです。

事実を見せろって。

それでいて、偽りの事実にコロッと騙されて偽りの真実や原理や原則にからめとられていくのです。

本当の真実の証は気づけばいくらでも傍にあるのにのです。

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打ち砕かれた心と悔いる心について想ってみた。

打ち砕かれた心と悔いる心の、大切さを聖書は説きます。

また、悔い改めよ神の国は近づいた、とか、悔い改めよ神の国はあなた方のうちにある、とも言ってます。

 これを具体的に実践すると、どうなるわけでしょう。

打ち砕かれた心になるとは、どういうことでしょう。

 頑なな心や、凝り固まった偏見や先入観を、打ち砕くことですね、

おごり高ぶった傲慢さもまた、打ち砕かれる必要があるでしょ。

 謙虚になれば見えてくるものがあるのに、自分は間違ってない、自分こそが真理であり真実である、などと思い上がるなということですね。

我々は皆、不十分であり、愚かであり、理解や判断を誤る可能性から逃れることはできないのだと、気づくことですよ。

 それには、素直な心で現実を見、対応すべき変化が目の前で起きていないか、素早く見つけることが必要なのですね。

農業でも、林業でも、漁業でも、自然の中で起きる小さなな変化に、次の季節の訪れや、危機や危険が迫っていることに気づくための多くの数々の伝承があるはずです。

聖書でも、ブドウ園やイチジクを繰り返し、例えに使っています。

 多くの人が気づけず、見誤っているものに、政党支持とかもありませんか。

あるでしょうね。

例えば、あの党はいいこと言ってるけど議席が少ないとか、あの党はいいこと言ってるけど名前が悪いとか、などです。

 議席が少ないのは、当人たちの努力が足りないからでしょ。

もちろんそれもあるでしょう。

けれど考えてみてください。

この人は、いいこと言っていると認めているでしょ。

にもかかわらず、一票を投じないのは、議席が少ないからだと言うのですよ。

じゃあ、どう言う党が、多くの議席を持つのでしょう。

 政界再編で生まれた党だけ、ではないですよね。

政界再編で生まれる党には、自分たちの主張には実は大きな違いがなかったのだ、じっくり話し合えば越えられる小さな違いに拘っていたから、別の党だったのと分かり合った党同士なら、かまわないわけですよ。

託された一票は、行方不明にならずに済む。

数だけが目当てで、とりあえず傾向が似ているから一緒になろうと言うだけでは、別の党を作った理由である差異に気づいたとき紛糾し、混乱し、迷走し、分裂するでしょう。

託された一票は、行方不明になる。

これを、投票行動に置き換えてみて下さい。

 自分たちの主張には実は大きな違いがなかったのだ、じっくり考えば越えられる小さな違いに拘っていたから、別の党に入れていたのだとなる。

投票したのに、声が届いていないと考えるようになる理由の一つは、ここにないでしょうか。

 数だけが目当てで、とりあえず傾向が似ているから一票入れようと言うだけでは、自分の気持ちや考えと違う党に一票投じたと気づいたときがっかりするが、誤りに気が付かなければ何度でも同じ失敗を繰り返す。

だから、悔いる心の大切さを聖書は説くわけですよ。

悔い改めよ神の国は近づいた、とか、悔い改めよ神の国はあなた方のうちにある、という言葉も、こう言い換えてみてください。

悔い改めよあなたの求める国は近づいた、とか、悔い改めよあなたの求める国はあなた方のうちにある。

あの党はいいこと言ってるけど議席が少ないとか、あの党はいいこと言ってるけど名前が悪いとか、さまざまに理由を付けて別の党に入れたり棄権したりしている人が実はこの国の多数派なのだと気づいたら、どうなるでしょう。

 悔い改めよ変化の時は近づいた、とか、悔い改めよ変化の鍵はあなた方のうちにある。

聖書はいいこと言っているが、神なんか居るのかというのも、似たようなことでしょ。

精緻に出来上がった生命の仕組みを見てください。

巧妙に組み上がった自然の連鎖を見てください。

これらが、盲目的で偶然だけに頼っていたら、何兆年かかっても、今の姿にならない、そう思いませんか。

これらはすべて、ある種の意図に基づいて作られたとみてこそ、全ての謎は解けるのですよ。

だから聖書は言うのです。

悔い改めよ神の国は近づいた、とか、悔い改めよ神の国はあなた方のうちにある、と。

打ち砕かれた心と悔いる心の、大切さを。

 まさに、天にあるように地にも、ですね。

そうですね。

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聖書におけるイエスの位置付けを再確認してみた。

いわゆる新約で、イエスが、ヤハウエとして語ったことを、伝えなおしたのは確かですね。

そして、ヤハウエ=イエスの語るべき言葉は、御父から託された言葉であり、御父から承認された権能の範囲内の言葉であったのではないのでしょうか。

だからこそコーランはイエスを預言者と言い続けたのではないでしょうか。

 ならば、ヤハウエはどうなのでしょう。

ヤハウエは預言者といっては、おかしいでしょうか。

 御子は神を崇め、神を畏れろ、とおっしゃっていますね。

けれど、御子である私を崇め、畏れろ、そうおっしゃっておられたのでしょうか。

 それでも、イエスを信ずるものは御子を崇め畏れますね。

それは、まさに御子のお言葉は御父のお言葉と心得ねばならないからでないでしょうか。

御子以外の預言者のまえでも、預言者が神の御言葉として臨まれている限り、そしてその限りにおいて、神として崇め畏れるべきであったのと、どこが違うのでしょうか。

唯一違いがあるとすれば、御子はすべてのときを御父のお言葉として過ごされ、イエスは生れたときから御父の御言葉である御子そのものであることではないでしょうか。

つまり、イエスは1日24時間、1年365日、さらには生涯を通じ、御子そのものでいらっしゃる、特別な預言者でいらっしゃるのでしょうね。

 創世記冒頭の「われわれに似せて」ばかりが注目されますね。

けれど、その後も預言者が託された言葉に「こう仰る」というような、引用としか見えない言い回しがあるのはご存知の方もおられるでしょ。

預言者からみて、神が「こう仰る」ということなのかです。

預言者に語られたお方からみて、神が「こう仰る」ということではないかと感じられるけれど、いかがでしょう。

預言者に語りかけておられる方こそ、御父の言葉であられるお方、御子とみてはいけないのでしょうか。

 エホバと言う場合もありますね。

わたしが聖書の神をヤハウエと呼ばせていただいているのは、聖書の神をさす神聖四文字が、ヨッド ヘー ヴァヴ ヘー 「יהוה」だからです。

アルファベットで代用するなら「YHWH」となり、これで見ておられる方も多いはずです。

一応、現在では ”古代のギリシア語文献やヘブライ語の文法規則から推定して、学術的に「ヤーヴェ」もしくは「ヤハウェ」と呼ぶのが正しい” となっているのです。

そして、ヨッド・ヘー・ヴァヴ・ヘー 「יהוה」とは、「私はある」をさすヘブル語の頭文字を並べたといわれているのです。

ちなみに、「ヨッド」だけでヤハウェの略称となるのです。

創世記はもともとヘブル語で書かれたのです。

いちばんはじめの神は、アレフ ラメッド へー ヨッド メム「אלהים」、つまり「エロヒム」であらわされているのです。

「エロヒム」は御父のこと、そして創造の御業は御父による「光あれ」ではじまっているのです。

でも、ちょっと首をかしげるのです。

「光あれ」という言葉は、ほんとは誰が発せられたのでしょうか。

「光あれ」という言葉は、御父自らのものでしょうか。

ヨハネによる福音書1章1~5にはこうあるのです。

 初めに言葉があった。

 言葉は神とともにあった。

 言葉は神であった。

 この言葉は初めに神とともにあった。

 万物は言葉によって成った。

 成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。

 言葉のうちに命があった。

 命は人間を照らす光であった。

 光は暗闇の中で輝いている。

 暗闇は光を理解しなかった。

ここで私はここに注目したのです。

 言葉は神とともにあった。

 言葉は神であった。

そして、神の言葉はヤハウエ=イエスでいらっしゃるのではないのでしょうか。

 言葉のうちに命があった。

これは、言葉が命あるものによって語られたことを示していないのでしょうか。

それで、わたしはイエスを神の預言者とみなすのです。

しかしまた、言葉=イエス=ヤハウエは神でいらっしゃるのです。

しかし、言葉がヤハウエでありイエスであるとするなら、この神が、絶対神であるとはとてもおもえないのです。 

おそらく御父ではないのでしょうか。

 神を絶対神としたら、言葉は地上の預言者となるでしょうね。

いづれにしても、言葉は預言者でなければ帳尻があわないでしょうね。

絶対三神という場合の御子も精霊も、実際のところは神の預言者として最高位に上り詰めた天使であるのかもしれないです。

「神のみ言葉を預かるもの」としての預言者でひと括りにするという見方での表現で考えれば、そうなのかもしれないです。

そういえば、イエスは神の子を言われることを嫌がっておられたのです。

旧約の神ヤハウエ=イエスなので、イエスは自分の教えたことをもう一度皆に伝えただけなのです。

モーセの前で話をして「私は有る」といい、十戒石版を与えたのは、他でもないイエスその人なのですから。

イエスは御父の言葉でもいらっしゃるのです。

創造のはじめの言葉、「光あれ」。

この言葉が御子の発せられたものであるなら、創造の御業は御父立会いの下で御子が仕切られたことになるのです。

わたしの、御子が御父の御言葉、つまり預言者と思うわけはここにあるのです。

 なかなか、興味深い考察、参考になります。

 イエスが預言者を超越した存在、ということでしょうか。

 イエスやマリアが、死後も世界中で奇跡を起こしていたという話はたくさんあるね。

 キリスト教詳しくないけど、やっぱスゴイ人だったんだなあ。

聖別された母から生まれ、聖別された洗礼者から洗礼を受ける、この先例のない扱いがイエスの特別な存在を物語っているのです。

さらに、イエスの洗礼は、精霊が臨むという特別な展開になっているのです。

同じように聖別された女性を母を持つヨハネは、おそらく通常の洗礼を受けたと想像できるです。

コーランも、アッラーが選んだ預言者であるムハンマドに面と向かって、イエスには精霊をつけたと平然と言っていってるくらいです。

なぜ、イエスがこんな特別扱いか、憶測はいくらでも言えるけど、確かなことは特別な存在だからこそ新たな福音が託されたということです。

 こう言う話って、なんど聞いても、難しいです…。

 ヨハネによる福音書1章1~5は読んだ事があります。

 でも難しいです。

 言葉って重要ですよね。

わたしも、ここまで考え付くのにずいぶんかかったです。

でも、まだ道半ばです。

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