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打ち砕かれた心と悔いる心について想ってみた。

打ち砕かれた心と悔いる心の、大切さを聖書は説きます。

また、悔い改めよ神の国は近づいた、とか、悔い改めよ神の国はあなた方のうちにある、とも言ってます。

 これを具体的に実践すると、どうなるわけでしょう。

打ち砕かれた心になるとは、どういうことでしょう。

 頑なな心や、凝り固まった偏見や先入観を、打ち砕くことですね、

おごり高ぶった傲慢さもまた、打ち砕かれる必要があるでしょ。

 謙虚になれば見えてくるものがあるのに、自分は間違ってない、自分こそが真理であり真実である、などと思い上がるなということですね。

我々は皆、不十分であり、愚かであり、理解や判断を誤る可能性から逃れることはできないのだと、気づくことですよ。

 それには、素直な心で現実を見、対応すべき変化が目の前で起きていないか、素早く見つけることが必要なのですね。

農業でも、林業でも、漁業でも、自然の中で起きる小さなな変化に、次の季節の訪れや、危機や危険が迫っていることに気づくための多くの数々の伝承があるはずです。

聖書でも、ブドウ園やイチジクを繰り返し、例えに使っています。

 多くの人が気づけず、見誤っているものに、政党支持とかもありませんか。

あるでしょうね。

例えば、あの党はいいこと言ってるけど議席が少ないとか、あの党はいいこと言ってるけど名前が悪いとか、などです。

 議席が少ないのは、当人たちの努力が足りないからでしょ。

もちろんそれもあるでしょう。

けれど考えてみてください。

この人は、いいこと言っていると認めているでしょ。

にもかかわらず、一票を投じないのは、議席が少ないからだと言うのですよ。

じゃあ、どう言う党が、多くの議席を持つのでしょう。

 政界再編で生まれた党だけ、ではないですよね。

政界再編で生まれる党には、自分たちの主張には実は大きな違いがなかったのだ、じっくり話し合えば越えられる小さな違いに拘っていたから、別の党だったのと分かり合った党同士なら、かまわないわけですよ。

託された一票は、行方不明にならずに済む。

数だけが目当てで、とりあえず傾向が似ているから一緒になろうと言うだけでは、別の党を作った理由である差異に気づいたとき紛糾し、混乱し、迷走し、分裂するでしょう。

託された一票は、行方不明になる。

これを、投票行動に置き換えてみて下さい。

 自分たちの主張には実は大きな違いがなかったのだ、じっくり考えば越えられる小さな違いに拘っていたから、別の党に入れていたのだとなる。

投票したのに、声が届いていないと考えるようになる理由の一つは、ここにないでしょうか。

 数だけが目当てで、とりあえず傾向が似ているから一票入れようと言うだけでは、自分の気持ちや考えと違う党に一票投じたと気づいたときがっかりするが、誤りに気が付かなければ何度でも同じ失敗を繰り返す。

だから、悔いる心の大切さを聖書は説くわけですよ。

悔い改めよ神の国は近づいた、とか、悔い改めよ神の国はあなた方のうちにある、という言葉も、こう言い換えてみてください。

悔い改めよあなたの求める国は近づいた、とか、悔い改めよあなたの求める国はあなた方のうちにある。

あの党はいいこと言ってるけど議席が少ないとか、あの党はいいこと言ってるけど名前が悪いとか、さまざまに理由を付けて別の党に入れたり棄権したりしている人が実はこの国の多数派なのだと気づいたら、どうなるでしょう。

 悔い改めよ変化の時は近づいた、とか、悔い改めよ変化の鍵はあなた方のうちにある。

聖書はいいこと言っているが、神なんか居るのかというのも、似たようなことでしょ。

精緻に出来上がった生命の仕組みを見てください。

巧妙に組み上がった自然の連鎖を見てください。

これらが、盲目的で偶然だけに頼っていたら、何兆年かかっても、今の姿にならない、そう思いませんか。

これらはすべて、ある種の意図に基づいて作られたとみてこそ、全ての謎は解けるのですよ。

だから聖書は言うのです。

悔い改めよ神の国は近づいた、とか、悔い改めよ神の国はあなた方のうちにある、と。

打ち砕かれた心と悔いる心の、大切さを。

 まさに、天にあるように地にも、ですね。

そうですね。

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