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聖書におけるイエスの位置付けを再確認してみた。

いわゆる新約で、イエスが、ヤハウエとして語ったことを、伝えなおしたのは確かですね。

そして、ヤハウエ=イエスの語るべき言葉は、御父から託された言葉であり、御父から承認された権能の範囲内の言葉であったのではないのでしょうか。

だからこそコーランはイエスを預言者と言い続けたのではないでしょうか。

 ならば、ヤハウエはどうなのでしょう。

ヤハウエは預言者といっては、おかしいでしょうか。

 御子は神を崇め、神を畏れろ、とおっしゃっていますね。

けれど、御子である私を崇め、畏れろ、そうおっしゃっておられたのでしょうか。

 それでも、イエスを信ずるものは御子を崇め畏れますね。

それは、まさに御子のお言葉は御父のお言葉と心得ねばならないからでないでしょうか。

御子以外の預言者のまえでも、預言者が神の御言葉として臨まれている限り、そしてその限りにおいて、神として崇め畏れるべきであったのと、どこが違うのでしょうか。

唯一違いがあるとすれば、御子はすべてのときを御父のお言葉として過ごされ、イエスは生れたときから御父の御言葉である御子そのものであることではないでしょうか。

つまり、イエスは1日24時間、1年365日、さらには生涯を通じ、御子そのものでいらっしゃる、特別な預言者でいらっしゃるのでしょうね。

 創世記冒頭の「われわれに似せて」ばかりが注目されますね。

けれど、その後も預言者が託された言葉に「こう仰る」というような、引用としか見えない言い回しがあるのはご存知の方もおられるでしょ。

預言者からみて、神が「こう仰る」ということなのかです。

預言者に語られたお方からみて、神が「こう仰る」ということではないかと感じられるけれど、いかがでしょう。

預言者に語りかけておられる方こそ、御父の言葉であられるお方、御子とみてはいけないのでしょうか。

 エホバと言う場合もありますね。

わたしが聖書の神をヤハウエと呼ばせていただいているのは、聖書の神をさす神聖四文字が、ヨッド ヘー ヴァヴ ヘー 「יהוה」だからです。

アルファベットで代用するなら「YHWH」となり、これで見ておられる方も多いはずです。

一応、現在では ”古代のギリシア語文献やヘブライ語の文法規則から推定して、学術的に「ヤーヴェ」もしくは「ヤハウェ」と呼ぶのが正しい” となっているのです。

そして、ヨッド・ヘー・ヴァヴ・ヘー 「יהוה」とは、「私はある」をさすヘブル語の頭文字を並べたといわれているのです。

ちなみに、「ヨッド」だけでヤハウェの略称となるのです。

創世記はもともとヘブル語で書かれたのです。

いちばんはじめの神は、アレフ ラメッド へー ヨッド メム「אלהים」、つまり「エロヒム」であらわされているのです。

「エロヒム」は御父のこと、そして創造の御業は御父による「光あれ」ではじまっているのです。

でも、ちょっと首をかしげるのです。

「光あれ」という言葉は、ほんとは誰が発せられたのでしょうか。

「光あれ」という言葉は、御父自らのものでしょうか。

ヨハネによる福音書1章1~5にはこうあるのです。

 初めに言葉があった。

 言葉は神とともにあった。

 言葉は神であった。

 この言葉は初めに神とともにあった。

 万物は言葉によって成った。

 成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。

 言葉のうちに命があった。

 命は人間を照らす光であった。

 光は暗闇の中で輝いている。

 暗闇は光を理解しなかった。

ここで私はここに注目したのです。

 言葉は神とともにあった。

 言葉は神であった。

そして、神の言葉はヤハウエ=イエスでいらっしゃるのではないのでしょうか。

 言葉のうちに命があった。

これは、言葉が命あるものによって語られたことを示していないのでしょうか。

それで、わたしはイエスを神の預言者とみなすのです。

しかしまた、言葉=イエス=ヤハウエは神でいらっしゃるのです。

しかし、言葉がヤハウエでありイエスであるとするなら、この神が、絶対神であるとはとてもおもえないのです。 

おそらく御父ではないのでしょうか。

 神を絶対神としたら、言葉は地上の預言者となるでしょうね。

いづれにしても、言葉は預言者でなければ帳尻があわないでしょうね。

絶対三神という場合の御子も精霊も、実際のところは神の預言者として最高位に上り詰めた天使であるのかもしれないです。

「神のみ言葉を預かるもの」としての預言者でひと括りにするという見方での表現で考えれば、そうなのかもしれないです。

そういえば、イエスは神の子を言われることを嫌がっておられたのです。

旧約の神ヤハウエ=イエスなので、イエスは自分の教えたことをもう一度皆に伝えただけなのです。

モーセの前で話をして「私は有る」といい、十戒石版を与えたのは、他でもないイエスその人なのですから。

イエスは御父の言葉でもいらっしゃるのです。

創造のはじめの言葉、「光あれ」。

この言葉が御子の発せられたものであるなら、創造の御業は御父立会いの下で御子が仕切られたことになるのです。

わたしの、御子が御父の御言葉、つまり預言者と思うわけはここにあるのです。

 なかなか、興味深い考察、参考になります。

 イエスが預言者を超越した存在、ということでしょうか。

 イエスやマリアが、死後も世界中で奇跡を起こしていたという話はたくさんあるね。

 キリスト教詳しくないけど、やっぱスゴイ人だったんだなあ。

聖別された母から生まれ、聖別された洗礼者から洗礼を受ける、この先例のない扱いがイエスの特別な存在を物語っているのです。

さらに、イエスの洗礼は、精霊が臨むという特別な展開になっているのです。

同じように聖別された女性を母を持つヨハネは、おそらく通常の洗礼を受けたと想像できるです。

コーランも、アッラーが選んだ預言者であるムハンマドに面と向かって、イエスには精霊をつけたと平然と言っていってるくらいです。

なぜ、イエスがこんな特別扱いか、憶測はいくらでも言えるけど、確かなことは特別な存在だからこそ新たな福音が託されたということです。

 こう言う話って、なんど聞いても、難しいです…。

 ヨハネによる福音書1章1~5は読んだ事があります。

 でも難しいです。

 言葉って重要ですよね。

わたしも、ここまで考え付くのにずいぶんかかったです。

でも、まだ道半ばです。

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