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頑固と頑な。

事実を知ることは大事なのです。

でも、その事実が物語る真実の方がもっと大事なのです。

事実の名のもとに、どうでもいいような情報が山のように氾濫しているのです。

真実がわかる事実を、効率よく見分けられるようになりたいものです。

頑固と頑なは、似ていて違うのです。

頑固は見てないようで視ているのです。

聞いてないようで聴いているのです。

気づいていないようで気づいているのです。

理解していないようで理解しているのです。

頑なは見ているようで見えていないのです。

聞いているようで聞こえていないのです。

気づいているようで気づいていないのです。

理解しているようで理解していないのです。

頑固は、変われないのではないのです。

変わらないのです。

だからといって、自分のやり方を人に押し付けないのです。

自分の流儀は、わかるものがわかればいいのです。

従いたいものが従えばいいのです。

だから、勝手にしろ、と言えるのです。

頑なは、変わらないのではないのです。

変われないのです。

それでいて、自分のやり方を人の押し付けるのです。

自分の流儀は、わからないものがいる方がおかしいのです。

従いたくないものがいる方がおかしいのです。

だから、勝手にしろ、と言えないのです。

良い意味で頑固になりたいものだと思うのです。

事実を見せろと言う人には、頑なな人が多いのです。

そういう人は、自分が事実と信ずることしか事実と認めようとしないのです。

かれらにとっては、自分に都合が悪いことはすべてが嘘に見えるのです。

彼らにとっては嘘が真実であり、真実が嘘になるのです。

本当の事実を見分けられる心になりたいものです。

真実や原理や原則についての話に耳を傾けない人はたいていこういうのです。

事実を見せろって。

それでいて、偽りの事実にコロッと騙されて偽りの真実や原理や原則にからめとられていくのです。

本当の真実の証は気づけばいくらでも傍にあるのにのです。

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