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2013年1月

自由について想ってみた。

表現の自由の問題は、大きな課題を抱えているように思えます。

思想信条信仰などの精神の自由の問題と、深く関わるからです。

新しく画期的な発想は、思想信条信仰などで雁字搦めで制約だらけの状態からは極めて生まれにくいでしょうね。

だから、思想信条信仰などの自由を保障するために、表現の自由が法的に認められることになるでしょうね。

しかし、自由であろうとすればするほど、さまざまな制約に突き当たるでしょうね。

物理的制約であれば、可能であれば緩和できるが、可能でなければ逆手に取るしかないでしょうね。

そして、物理的制約があるからこそ、生まれてくる様々な創意工夫もあるでしょうね。

では、倫理的道徳的制約はどうでしょう。

これも、逆手にとって創意工夫で切り抜けること自体は不可能ではないでしょう。

とはいえ、何処かで限界がくるのも、間違えないでしょう。

許容限度の逸脱かどうかの課題に、常に直面するでしょう。

いまは、表現の自由の許容範囲が史上最も高い時代ではないでしょうか。

それだけに、許容限度の限界に限りなく近づいているように思えます。

芸術かポルノか、芸術かエログロナンセンスか、芸術か反倫理・反道徳か、この壁の限界にまで来ているのではないでしょうか。

表現技術の水準の高さや、芸術的完成度さえ高ければ、芸術として許容するのか、どうかが問われているのではないでしょうか。

表現技術の水準の高さや、芸術的完成度の高さがたとえあっても、ポルノ・エログロナンセンス・反倫理・反道徳として拒否するのかどうかの線引きの基準が、あいまいなのではないでしょうか。

それだけに、法的規制は馴染まないし、発表者側の自主規制も馴染まないのではないでしょうか。

法的なら弾圧、私的なら迫害に繋がるでしょうね。

むしろ、どのような倫理道徳観を持つべきかの絶対的基準の確立こそ、必要でしょうね。

どのような倫理道徳観が神の視点であり、どのような倫理道徳観が悪魔の視点であるか、ここでも真剣に考えるべき時に、私たちは来ているように思えるのです。

需要があるから、供給もある。

言い換えれば、何をどう求めるべきなのかという課題を、人々はかつてない水準で求められている時代に生きているのではないでしょうか。

まずは、ここに気が付くべきなのでしょう。

マタイによる福音書の、7章7節から8節には、こうあります。

求めよ、さらば与えられん。

尋ねよ、さらば見出さん。

門を叩け、さらば開かれん。

すべて求むる者は得、尋ねる者は見いだし、門をたたく者は開かれるなり。

人々は、答えを求めているでしょうか。

求めない答えは、永遠に与えられることはないでしょうね。

答えを求めて得られ、その答えをすべての人が共有するなら、その答えに基づいて考えることを当たり前にすべての人が考えるなら、人々は真の自由を手に入れるのではないでしょうか。

悔い改めて福音を信ぜよ、神の国はあなた方のうちにある。

悔い改めて福音を信ぜよ、神の国は近づいた。

福音を得るべき真の答え、神の国を得るべき真の自由の国、そう置き換えて読むなら、異論がある人はどれだけいるでしょう。

そして、そのとき、多くの人は実感するのではないでしょうか。

得るべき真の自由の国は近づいた。

そして、そのとき、多くの人は実感するのではないでしょうか。

得るべき真の自由の国はわわわれのうちにある。

いかがでしょうか。

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「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。

イエス=キリストが磔にされたときに叫んだとされる7つの言葉のうちの一に、これがあるのです。

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。

新約聖書における表現ではアラム語とヘブライ語が混用されています。

『マタイによる福音書』 第27章46節ではヘブライ語の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」が、現れるのです。 

『マルコによる福音書』第15章34節ではアラム語の「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」が現れるのです。

 旧約聖書 『詩編』 第22編冒頭の言葉ですね。

第22編には、キリストの受難を予言したような箇所があると指摘されるのです。

長くなるが、引用してみたいです。

第22篇

22:1  わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。

22:2  わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。

22:3  しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです。

22:4  われらの先祖たちはあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。

22:5  彼らはあなたに呼ばわって救われ、あなたに信頼して恥をうけなかったのです。

22:6  しかし、わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる。

22:7  すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、

22:8 「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。

22:9  しかし、あなたはわたしを生れさせ、母のふところにわたしを安らかに守られた方です。

22:10 わたしは生れた時から、あなたにゆだねられました。母の胎を出てからこのかた、あなたはわたしの神でいらせられました。

22:11 わたしを遠く離れないでください。悩みが近づき、助ける者がないのです。

22:12 多くの雄牛はわたしを取り巻き、バシャンの強い雄牛はわたしを囲み、

22:13 かき裂き、ほえたけるししのように、わたしにむかって口を開く。

22:14 わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。

22:15 わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。

22:16 まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。

22:17 わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。

22:18 彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。

22:19 しかし主よ、遠く離れないでください。わが力よ、速く来てわたしをお助けください。

22:20 わたしの魂をつるぎから、わたしのいのちを犬の力から助け出してください。

22:21 わたしをししの口から、苦しむわが魂を野牛の角から救い出してください。

22:22 わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。

22:23 主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。

22:24 主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。

22:25 大いなる会衆の中で、わたしのさんびはあなたから出るのです。わたしは主を恐れる者の前で、わたしの誓いを果します。

22:26 貧しい者は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえるでしょう。どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。

22:27 地のはての者はみな思い出して、主に帰り、もろもろの国のやからはみな、み前に伏し拝むでしょう。

22:28 国は主のものであって、主はもろもろの国民を統べ治められるのです。

22:29 地の誇り高ぶる者はみな主を拝み、ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせえない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。

22:30 子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、

22:31 主がなされたその救を後に生れる民にのべ伝えるでしょう。

細かく見てもいいけど、気になる部分だけ取り上げたいです。

6節 人にそしられ、民に侮られる。

その通りになったのです。

8節 「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」

似たような言葉が聞かれました。

18節 彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。

その通りになったのです。

22節 わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。

イエスも使徒たちも御父の御名を称えたのです。

25節 大いなる会衆の中で、わたしのさんびはあなたから出るのです。わたしは主を恐れる者の前で、わたしの誓いを果します。

これこそイエスの生涯そのものの預言でしょう。

 特に、十字架の預言。

まさに、その通りです。

これが意味するもの、それは何かということです。

 詩篇のほとんどは、ダビデのものとされるのよね。

ダビデ以外の人の詩もありますよ。

そして、詩篇から、いわゆる新約で多くの引用がなされてるのです。

 詩篇は、戒めや讃美を語る言葉として語られているだけではない。

預言としても、語られている可能性は、大きいですよ。

 預言は、神から託された言葉ですよね。

もちろんそうです。

 別の側面もある。

予言としても、語られているようですね。

ただし、警告としてであり、警告に従うなら、語られた通りには、起きないかも知れない事柄が述べられているでしょうね。

 実際は、人は愚かさをさらけ出し、警告に従いきれないから…。

預言の警告は、予言となって成就してしまうことになるということでしょうね。

 じゃあ、この詩は、イエスに関する預言だけに止まらない…。

それは、神のみぞ、知ることでしょう。

詩篇は、預言詩を集めたものであるとともに、予言詩を集めたものでもあると、思って読む方が良いかも知れないです。

預言者として召されたとある者たち以外にも、預言や異言を語る状態になった場合があることを、聖書は伝えています。

 じゃあ、詩篇は、ダビデなどの預言詩を集めている…。

そう思って、読んだ方が良いのは、確かかも知れないです。

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。

今回は、この言葉から、詩篇を見直して見たのです。

 イエスの、人の子としての、思わず口から出た、弱音ではなかったのですねえ。

そういう解釈も、して良いでしょうね。

 イエスは、自分の弱さを知り尽くしていたから、天の神なる御父にすべてを委ねて、心の安らぎを得ようとしていた。

幾重にも受け取れるから、この言葉が気になる人は、後を絶たないのでしょうね。

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「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ」と聖書?

浪曲『壺坂霊験記』を知らないでも、「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ」の一節なら聞いたことがあると言う方もまだまだ、多いのではないでしょうか。

おそらく、この一節を知って、夫婦円満の極意として共感の涙とため息とともに、一人酒を呑み、あるいは、友と酌み交わす夫は、今日もどこかにいることでしょう。

実は私も、今回の話の準備の中で恥ずかしながらこの浪曲を知ったので、あまり偉そうなことは言えませんけど。

ちなみに、これは人形浄瑠璃や歌舞伎にもなっているらしいです。

 それぞれのフアンからは、それくらい知っときなさいと言われそうですね。

言われても、それは仕方ないです。

妻には、家内には、女房には、頭が上がらないよ、感謝しっぱなしだよ。

そういう家庭は、それなりに、上手くいっているはずです。

それについては、聖書に面白い件があります。

創世記第2章18節から24節です。

また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。

そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。

それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。

主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。

人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

つまり、神が、男がひとりでいるのは良くないからふさわしい助け手を造ろうと分身として作って与えたのが、女だというのです。

 男は自分分身である女を、女は自分の分身である男を、探し求めて伴侶とするから、ベターハーフと呼ばれる。

そうなのでしょうね。

さらに最初の人であるアダムに対しても、聖書はこう語ります。

創世記第1章26節から28節です。

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

神はアダムに、地を従わせ、海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配する権限を与え、イブを助け手としたのです。

言い換えれば、アダムはイブの助けを得て初めて、神から与えられた権限を行使できる存在として、作られたとなります。

 昔から、なぜに男は女に頭が上がらないのかと、説明を求めていたのですね。

 そして、神にその責任を押し付けた。

 自分のせいじゃないと、言いたいわけね。

それは、言い過ぎでしょ。

権限を行使するには、力、あるいは、能力が必要です。

面白いことに、ヘブル語では、神の単数形"אַל(アレフラメッド)”には、力や能力と言う意味もあるのです。

これは、権限を行使するために必要な力や能力は神に由来するという思想があるのかもしれません。

 力や能力は神から授けられているとみているなら、力や能力を用いる権限は神権とみていると考えても良いのでしょうか。

可能性はありますね。

 性別を問わず力や能力はあるわけだから、性別を問わず神権もあることになりませんか。

だが、預言者には男だけでなく女もいるが、士師記の士師あるいはさばきつかさ以外に、聖書に女性の指導者が出てくることはほとんどないでしょ。

 そういえば、女性預言者に訊ねる男性指導者はいても、女性指導者は士師記くらいしかいないかも知れないですね。

つまり、神権を行使する男性とそれを助ける女性という、アダムとイブ以来の形が基本的に貫かれているわけですよ。

けれど、一家の中で、夫が神権を行使するには妻の助けは不可欠でしょ。

 妻は、夫と子供たち、どうかすると、夫と舅や姑との間に、立ちますね。

つまり、夫の神権行使は、実際には妻を通じて行われている。

 そういえば、そうですね。

イエスは、御父や御子には、どんなことを言っても良いが、聖霊は侮るなと言っています。

 御父や御子は、預言者など限られた人にしか現れないけれど、聖霊は、全ての人に現れますね。

つまり、ほとんどの人にとって聖霊を通じて、御父や御子と繋がっている構図が見えるわけですよ。

 聖霊を侮ることは、電話機を箱に過ぎないと侮って壊すようなものと、いうことですか。

 郵便はあっても、リアルタイムじゃないけど、電話機はリアルタイムですね。

 携帯端末に至っては、圏外でさえなければ、基本的にはいつでもどこでも繋がる。

聖霊を侮ると、御父や御子との意思疎通が困難になり、場合によっては音信不通になりかねないわけですよ。

 聖霊は、人々と御父や御子を繋ぐメッセンジャーなのですね。

聖霊に機嫌損ねられたら大変でしょ。

 夫と、子どもや、舅や姑との間のメッセンジャーが妻としたら、こうなりますね。

 夫を御父や御子になぞらえると、舅や姑との間のメッセンジャーである妻は聖霊に当たる。

 御父や御子には、どんなことを言っても良いが、聖霊は侮るなとは、夫にはどんなことを言っても良いが、妻は侮るなとなる。

なるほど、これじゃあ、妻には、家内には、女房には、頭が上がらないよ、感謝しっぱなしというのも、頷けますねえ。

 しかも、夫の神権行使に最初にチェックを入れるのは、妻ですねえ。

妻を説得できないと、夫は神権を行使できない。

 御父や御子も、聖霊を説得できないと神権は行使が思うようにいかない。

御父や御子も、聖霊の前で権威を保つために、研鑽と努力の日々なんでしょうかね。

 だから、聖霊を侮るなという忠告が出る。

案外、そうかも知れないですよ。

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神を信じ切るということ。

聖書には、お金にまつわる話がいくつかあるが、今回はそのうちの二つを見てみたいです。

その一つは、やもめの献金です。

 マルコによる福音書第12章の41節から44節と、ルカによる福音書第21章の1節から4節ですね。

イエスは弟子たちと、神殿に献金を捧げる人たちを見て、多くの金額を差し出す人たちの中で、1コドラントに当たるレプトン銅貨二枚しか差し出さなかったやもめを褒めます。

それは、余裕のある中からではなく、生活費全部を入れたからというのです。

 イエスは、やもめにとっての全財産であることを御父から与えられた権能である神権によって、理解したのでしょうか。

おそらくそうでしょう。

もちろん、そのやもめの表情などからも、それがこのやもめにとっては大金であると見て取れたでしょうけど。

聖書は、神を信ずるなら、怖気づくことなく、雄々しく行動することを求めてるでしょう。

 神を心から受け入れるなら、今日のことは今日が、明日のことは明日が思い煩うから、あなたは何も心配するなと説きますよね。

やもめは、神に心からの信頼を寄せているから、全財産を捧げることが出来たのだと、褒めたのでしょう。

 惜しみなく与えよとは、金持ちの青年にも諭していましたね。

マタイによる福音書第19章ですね。

同じ話と思われるものは、マルコによる福音書第10章の金持ちの男、ルカによる福音書第18章の金持ちの議員として出てきますよね。

もう一つは、、3人の僕にタラントを与えた人の話です。

 マタイによる福音書第25章14節から28節ですね。

天国を、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものと例えています。

その人はそれぞれの能力に応じて、ある者には5タラント、ある者には2タラント、ある者には1タラントを与えて、旅に出ました。

5タラントと2タラントの二人は、商売でそれぞれ、5タラントと2タラントを新たに得て、10タラントと4タラントに増やしました。

一方、1タラントを受け取った者は、それを使わずにいたので1タラントのままでした。

3人にタラントを預けた人は、増やした2人を褒めたが、増やさなかった者からはその1タラントを取り上げて10タラントに増やした人に与えたのというのです。

 自分の与えられた者が少ないからと言って、何もできないとあきらめたなら、才能のある人に自分が得られたであろうチャンスまで持っていかれるというのですね。

 マルコによる福音書第4章25節にも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられると、ありますね。

この1タラントをこれだけじゃ何もできないとあきらめた者は、ちゃんと判断できない愚か者ということでしょう。

 10人のおとめに出てくる、十分に備えなかった賢くない5人のおとめと、同じということですね。

マタイによる福音書第25章1節から13節ですね。

婚礼の花婿を待つ10人のおとめがいたが、そのうち5人は余分な油を持ってきてないかったので、明かりが消えそうになったのですよね。

十分備えてきた賢いおとめたちに分けてもらおうとしたが、あなた方に分ける分までないと言われて買いに行ったら、扉はしまりあなた方を知らないと入れてもらえなかったという話ですね。

婚礼の花婿とはイエスのことであり、イエスの再臨にいつも備えていなさいと言う、たとえ話ですね。

そうそう、全財産を献金したやもめと、1タラントを惜しんだばかりに取り上げられてしまった僕の話です。

どう思いますか。

 どちらも、わずかなお金の使い道という共通点がありますね。

 神を信じ切って全財産を捧げたやもめと、たった1タラントで何が出来るかとあきらめた僕。

 わずかしかないからと、あきらめない者とあきらめた者。

たった1タラントかもしれないけど、1タラントもあると考えられたなら、可能性は広がるということもあるでしょう。

だが、それだけではなく、神を心から信ずるなら、わずか1タラントからでも、後の2人より多くを得たかも知れないと言いたかったとも想像できますね。

 たとえ、1タラントからさらに1タラント増えてもそこでこの程度しか無理とあきらめないなら、さらにその倍の4タラントに、そして、8タラント、ついには16タラント。

神の力には限りがないので、信じ切れば、自分の持てる以上の力が出せるはずだと言うのでしょう。

 イエスを信じ切れば、水の上も歩け、風や波さえも静まる。

水の上を歩く話は、マタイによる福音書第14章24節から34節ですね。

 ペテロは途中まで歩けたのに、風に恐れをなすと溺れかけてイエスに助けられたのでしたね。

2人が乗ると、舟を揺らしていた風も波も静まりますね。

舟と風と波といえば、マルコによる福音書第4章36節から、41節ですね。

 突風が来て、舟が沈みそうと言うのにイエスは平然として寝ていたのでしたね。

 弟子たちに起こされたイエスは、風を沈めてから弟子たちの信仰の足りなさをたしなめたのですよね。

ところが、弟子たちは自分たちにそんな権能が与えられていたとは気が付いていなかったのでしたね。

 この方はどなたなのか、風や海さえも従うと、言い合ってますからね。

今回は、お金のことから、神を信じ切ることで、多くの力や可能性が与えられるという話にまで行ってしまいました。

 聖書は、とことん神を信ずれば、不可能はないということをしきりに説いている本ですね。

確かに…。

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仲保者としてのイエスは本当に強かったのか想ってみた。

イエスがなぜ、仲保者と呼ばれるのでしょう。

 天の神である御父との間を取りもってくれるからでしょ。

イエスは、奇跡を起こすたび、あなたの信仰があなたを救ったと言っています。

 イエスは治された人と天の神である御父に、全ての責任を転化していると、見えるわけ。

感謝は天の神である御父にしなさい、私が取り次ぐと言っています。

 あなたの身に起きた奇跡は、あなたの信仰が天の神である御父から遣わされた私を通じたことによってなされたと言いたいようですね。

私自身が、自分の身の起きた奇跡の体験者ですからね。

神頼みが本当に効くと言うその人の周りに、なぜ、そうなるのか、説明できる人がいなかった方が、私には不思議なのです。

その人に、私は言いました。

あなたは、神頼みのたびに、こころから、驚いて、喜んで、感謝したでしょう。

神様だって、無邪気に喜ぶ人の頼みなら、気前よく引き受けたくなる、そう思いませんか。

ほとんどの人は、こころから、驚いて、喜んで、でも、その次には、運が良かったとか、自分の力だとか言って、神に素直に感謝しないのではないでしょうか。

それでいて、気休めという、御利益はありがたがる、おかしなもんですね。

神も人も、心から感謝されたり、喜んでもらったりしたら、ついつい、気持ちが大きくなるのは似たようなものでしょ。

すると、その人は、これからあなたにいろいろ相談したいと、言いだしたのです。

あたしは、あっけにとられました。

私は預言者でも、神の子や神の使いでもない、まして神ではない、普通の人だから間違うことがあり得る、質問なら神にしてくれませんか。

 そう言っても、あなたは正直だから騙されても良いと、言い返され絶句したのでしたね。

その後、その人から受けた仕事上の質問は、心に浮かんだままいうと、その通りになることが5,6回続いたのです。

私はそのたびに、言いました。

あなたの日頃の神への感謝が、私の思いついたまま述べたに過ぎない言葉を現実に変えたのでしょう。

感謝は神にしてください、私も神に感謝します。

私は、この奇跡の全責任を神と私の相談者に丸投げして、気持ちを楽にしたかったのです。

あの時の奇跡は、神とあの人の間に起きたのであり、私はたまたま、利用されたに過ぎないと、自分に言い聞かせたかったのです。

 そして、その人の転職による別れで、ちょっと寂しいような、ほっとしたような気分になったのでは。

自分の身に起きた奇跡と、神頼みがことごとく効く人との出会いは、今思い出しても、不思議な体験でした。

私はその時、神から神権を行使する権限をあなたに与えるなどと言う声は、聞いた覚えがありません。

空耳で、そのような言葉が聞こえた気がする経験さえなかったのです。

まさに、その時は、突然来るのです。

そして、それを判断する権限は神にあるのです。

 天の神である、御父が判断するから、御子であるイエスさえ知らない。

そういうことでしょう。

おそらく、イエスへの十字架の召しも、事前に知っていたとはいえ、御父から改めてその時が来たと知らされた時、イエスと言えども、戸惑う気持ちは抑えきれなかったことでしょう。

ルカによる福音書第22章43節から44節にはこうあります。

その時、御使(みつかい)が天からあらわれてイエスを力づけた。

イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。

そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。

復活の奇跡自体は、自らも行って実際にあることは知っていても、いざ、自分の番となると、御父に信頼は寄せながらも、不安で心は満たされたでしょうね。

イエスは、十字架にかかる前、ゲッセマネで天の神である御父に、この杯を退けてくださいといってから、あなたの思いを自分の思いの上に置いてくださいと祈ってます。

つまり、自分の行った奇跡のすべての責任は天の神である御父から出たのであって、自分は取り次いだに過ぎない言いたいようです。

 御父に全幅の信頼を寄せ、身も心も委ね切ろうと努めてきたが、湖の上を歩いたイエスを真似ようとしながら強風に怖気づいたパウロのように、イエスもまた十字架に怖気づいたのでしょうね。

でも、イエスは、全てを御父に委ねたことを思い出し、全てを受け入れる心を固めたのでしたね。

舟で渡るとき、風雨で沈みそうになったら弟子たちに起こされてしまったイエスは、風雨を鎮めた後、信仰の薄い者たちだなとぼやいたでしょ。

それは、イエスは、弟子たちがイエスを頼りにしてくれるのはありがたいが、御父との間の仲保者としてまだ十分認識していないことへの、まだ教育が足りないなあと、ため息をついたのではないでしょうか。

そして、頑なで見ても素直に信じないあろう人達のばかりいる前では、奇跡を起こさなかったです。

これは、イエスの奇跡を、イエス自身の力と思い込んだり、時の聖職者たちのように悪霊の仕業と思い込んだりしてしまって、責任を御父と奇跡を見た当人たちに転化できないからではないでしょうか。

 イエスも、本当は、奇跡の全責任を御父や奇跡を受けた当事者に転化して、自分の気持ちを楽にしたいと言うのが、本音だったりして。

イエスは、あなたの重荷を、私が負って楽にしてあげようと言うけど、その責任も全部御父に委ねてたりしていたのでしょうか。

 だから、仲保者を名乗ったと。

 そして、御父もまた、自分を指導してくれた先輩に全責任を委ね、その先輩もまたの先輩にって、きりがなかったりして。

それは、十分あり得えそうですね。

 イエスは、思われているほど精神的に強かったわけではなく、逆に御父に全責任を丸投げしたいくらい、本当は、精神的に弱かったのでは無いでしょうか。

だから、天の神である御父に、全面的に頼り切って、心の安らぎを得ていたのかも知れないですね。

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「蛇のように賢く、鳩のように素直」の鳩について思いを巡らせてみた。

「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」と、聖書は説きます。

 先入観を廃し、ありのままを見ろ、物事は両面あると、いうことでしょうか。

素直というのは、ありのままを受け入れろということでもあるでしょうね。

賢くというのは、不都合だからと全てを退けるな、都合良いからと言ってなんでもうまくと思うなということでも、あるでしょうね。

 不都合の中にも使えるものがあり、使えるもの中にも不都合がある。

何が使えて何が使えないか、賢く見定めなさいと言うことでもあるでしょうね。

また、迷ったら素直に神に訊ねよということでしょう。

 そういえば、 鳩のように素直であれとありますね。

創世記3章1節には、「野の生き物の中で最も賢いのは蛇であった」と書かれているのです。

マタイによる福音書10章16節には、有名な聖句があるのです。

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、なりなさい。」

それで、蛇のように賢くとあるのは、創世記などの記述を踏まえていることはわかるのです。

素直さを例えるのに、なぜ、鳩なのだと思うかです。

 伝書鳩に使われるくらい、鳩の帰巣本能は強いからね。

 懐くだけなら、他の鳥も懐くでしょうけど。

帰巣本能を利用して、鳩のレースもあるのですよ。

でも、それだけでしょうか。

帰巣本能というけれど、ノアの方舟に鳩は最後には帰ってこなかったでしょ。

 そういえば、そうね。

イエスは洗礼を受けた時、天から聖霊が下ったのですよ。

 声も、天から聞こえたのよね。

 そういえば、聖霊は、大抵白い鳩で表現されるのね。

白い鳥はいろいろいるけれど、全身が白いのは白鳥か白い鳩くらいね。

 鳩、とりわけ白い鳩は、聖霊の象徴ということかしら。

そうかもしれないですね。

聖霊は、御子と違って、神である御父の言葉どおりの言動しか許されていないのです。

 それで、聖霊を冒涜することは、決して許されないと言われるのね。

 聖霊は、御父や御子の指示通りに忠実に話し、行動しているわけだから、聖霊に対する冒涜は、そのまま、御父と御子への冒涜になる。

そう考えると、イエスは人々に、聖霊のように御父や御子の言葉に忠実であることだけを求めてはいないことになるのですね。

 素直さの例えに、羊ではなく鳩を用いたのは、そのためかしら。

良き羊飼いに例えられる御子は、迷える子羊を救うお方でもありますよ。

 どんなに子羊が素直でも、道に迷えば、自分で途方にくれながらもどちらかに進むべきか、あるいは、留まって迎えを待つべきか、判断を迫られるのね。

つまり、御父や御子に忠実であるだけでなく、自分でも、どう行動すればはぐれずに済むか、判断をする必要があるわけでしょ。

 でも、判断は、適切じゃないと、とんでもない方向を選んでしまう。

そこで、賢さが求められるわけですよ。

 蛇のような、賢さね。

 でも、創世記の蛇は、サタンの誑かしを手伝っているのですよ。

旧約聖書には、他にも、蛇が出る場面があります。

 民数記の21章4節から9節ですね。

民の食べ物に対する不平に対して、神は火の蛇を送くると、多くの人は噛まれて死んだのです。

人々が過ちを認め、火の蛇を取り去ってくれるようモーセに頼んだので、神は火の蛇を作って竿に掲げるように指示するのです。

そこでモーセは青銅の蛇を作って、竿に掲げるのです。

この、青銅の蛇はイエスの予型とされているのです。

 イエスの予型は、青銅の蛇だけかしら。

 イエスは裁き人としても、再臨するのでしょ。

 従わない人を罰した火の蛇もまた、イエスの予型ではないかなあ。

 イエスは罪人の汚名を着せられて、十字架にかかるでしょ。

竿に掲げられた青銅の蛇は、火の蛇を模ったものであることは、裁き人、罪人、救い主、贖い主、など様々な意味を込められたイエスの象徴であることは、言えそうですね。

 蛇のように賢くとは、サタンの誑かしに加担するか、イエスの弟子としての道を歩むか、正しい判断を出来るようになりなさいということかしら。

ただし、それぞれの選択肢には、サタンの道か、イエスの道か、書いてないわけだからきちんとした判断基準がいるわけですよね。

 ここで、鳩のように素直という指示が、効いてくる。

どうしていいか、判断に迷ったらためらうことなく神に助けを乞い、支持を仰ぐということでしょうね。

自分の力だけでは、くじけそうなとき、迷いそうなとき、自分の意思や判断の上に御父と御子の意思や判断を優先してくださいと、心から求めることも必要かも。

 でも、マタイによる福音書7章 21節にこうありますよ。

 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいるのわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

 日頃の、神に対する感謝の積み重ねがないと、せっかく答えが与えられても、気づけなかったり、十分な助けが得られなかったりして。

蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさいという指示の実行は、そう簡単にはいかないようですね。

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味噌とチーズ。

ヨーグルトは、食べて良し、和えて良し、スープで良し。

こうやってみると、けっこう使える食材です。

 日本に対抗できる食材がありましたっけ。

ありますよ。

味噌です。

面白いことに、ヨーグルトと味噌は、動物性と植物性の差こそあれ、たんぱく質が豊富な材料から作られる発酵食品という共通点があります。

ここでは味噌との比較のために、プレーンヨーグルトを例にとります。

プレーンヨーグルトは、糖や香料など添加物を一切加えず、生乳などの乳製品つまり成分を乳酸菌だけで発酵させたものです。

原材料を混合、撹拌し、殺菌後、スターターとなる乳酸菌を添加し、その後すぐに容器に充てんし、容器内で発酵させます。

もちろん容器に充填された後は、雑菌が入らないように管理される必要があります。

ちなみに、チーズとヨーグルトの差は、凝乳酵素で固めるかどうかにあります。

チーズを作る際、ホエー(乳清)も取れます。

ホエーは、下ごしらえに使ったり、味を調えたりと、調味料的な用途があるので、どこか醤油に似ていますね。

ホエーが、醤油やソースのように、各人の好みの味付けのために食卓に乗るかどうかは、まだ確かめてません。

味噌の主材料は、畑の肉とも称される大豆と、米あるいは麦、そして塩と水です。

ヨーグルトと違って、主材料は固形なので水につけて蒸す必要があります。

さらに米あるいは麦に麹菌をつけて、米麹や麦麹を作る手間が加わります。

大豆に、麹と塩と酵母を混ぜて仕込み、発酵、熟成させます。

ホエーがチーズの副産物なのに対し、醤油を絞った残りが醤油粕です。

醤油と製法が似ているのが、日本酒です。

まず、醤油の製法です。

丸大豆、もしくは、脱脂加工大豆に炒めた麦を加えたものに麹菌を加え三日かけて製麹(せいぎく)し、原塩を溶かして作った食塩水を加えて仕込みます。

こうしてできたものが、もろみであり用途はクリームチーズに近いかも知れません。

ただ、クリームチーズに茶漬けのような用途があるかは、知りません。

もろみを胡瓜に付けて食べるから、もろきゅうと呼ばれるので、味噌をつけて食べた場合は、正式にはもろきゅうではありません。

醤油を絞ると、醤油粕が出来ます。

だが、酒粕がホエーをとった後のチーズ同様に人間の食用となるのに対し、醤油粕は全て畜産の飼料に利用されていました。

醤油粕にも醤油同様に窒素分などの栄養素が含まれており、有効利用だったわけですが、最近は全てを飼料に利用することが難しくなってきています。

それは、畜産動物の用途ごとに配合飼料が低価格で供給されるようになってきたこと、また畜産農家が醤油工場よりも遠隔地にあることなどが原因です。

そのため、醤油業界においては、工場の熱源に利用したり、古紙に混ぜて紙として再利用、 バイオなどにより利用価値の高い飼料、肥料に利用するなどの取り組みをしています。

 醤油粕は飼料にされてきた点では、ワインを絞った後のワイン粕と用途が似てますね。

日本酒作りは、精米といって米の表面に集中する糠(ぬか)を削って精白する作業から始まります。

酒に必要なのは芯白に含まれる澱粉なので、米粒の外側に多く含まれる蛋白質・脂肪は雑味の原因となるため、米が砕けないよう慎重に削り落とされます。

精米後は、洗米、浸漬、甑(こしき)という杉製の桶で蒸米され、麹用と仕込み用に分けられます。

麹は麹菌による発酵で作られ、酒母ともろみを作るために用いられます。

酒母とは、蒸し米、麹、水、酵母を混ぜ合わせて酵素や菌の働きで分解、発酵を進め、不必要な雑菌を淘汰した粥状の発酵スターターのことです。

酒母を蒸米、麹、水とあわせて、もろみをつくります。

桶やタンクの中で発酵させることを「仕込み」、使う水を「仕込み水」といいます。

仕込みは腐造(ふぞう)を防止するために4日に分けて「添え」「仲仕込み」「留め仕込み」の3回行うことから、「3段仕込み」といいます。

こうしてできた、もろみを酒袋に入れて搾り、酒粕と液体に分けることを上槽といいます。

こうしてできた新酒が、濾過、火入れ、貯蔵を経て原酒となります。

実際の出荷は、割り水といい出荷の前に仕込みを加えてアルコール度数を整える過程が仕上げに加わります。

こうしてできた日本酒は、飲用はもちろん、調理の味付けに使われてきた点で用途がワインに似てます。

 本来水分を含まないはずの米から、手間暇かけてまで、なぜ、日本酒を造ろうとしたかですよ。

その理由は、日本酒がライスワインとして紹介されることが、物語っているかもしれません。

 故郷で飲んでいた、ワインがどうしても恋しかった。

そうでなければ、どうしてわざわざ、手間暇かけて仕込むでしょうか。

今では炊くのが当たり前の米だが、かつては、蒸すのが当たり前だったそうです。

蒸した米が発酵して酒が出来ると知って、腐敗させない方法を試行錯誤で編み出したのかも知れないですね。

 味噌の話だったでしょ。

 ヨーグルトやチーズは、菓子やつまみとしてそのままでも食べるけど、味噌はどうでしたっけ。

味噌を主原料にした、味噌せんべいという瓦せんべいの一種ならあるそうだけど、味噌はほとんどの場合味付けに使われるようですね。

 そういえば、肴として売られている場合でもほとんどは味噌漬けですね。

しいていえば、味噌を肴に酒を飲むという話が徒然草に載っているそうですけどね。
http://e-satoken.blogspot.jp/2009/05/blog-post_18.html

もろみ味噌に生胡瓜をつけて食べるもろきゅうは、酒の肴としても美味いそうだから、味噌だけでも十分いけるのかもしれません。

徒然草には、「心よく數獻(すこん)に及びて、興に入られ侍りき」つまり、気持ち良く数杯は傾け合って十分楽しんだとあるといいますから。

 チーズにも、香りを楽しむものがあるし、味も濃厚な種類がある事を思えば、案外、味噌だけでも肴としていけるかもしれないですね。

 味噌は、和えて良し、スープで良し、もっと、ヨーグルトやチーズの代わりとして、産地それぞれの味を生かして売り込んでも面白い食材でしょうね。

イタリア料理はもちろん、産地によっては、フランス料理にも、生かせるかも知れないですよ。

 今回は、なんと、味噌からヨーロッパとの繋がりが見えてきたと言いたいのですか。

手前味噌、と言いたそうですねえ。

 もちろん。

やっぱり、味噌が付きますか…。

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機械に心は宿るか、また、宿すべきか?

人工知能の研究者と会話をして、いろいろ考えさせられました。

 ネットを介して、でしょ。

今回は、その会話を踏まえて展開するけど、議論全体の内容についての責任は私にあります。

人工知能やロボットの廃棄は、処分である。

客観的にはそうだし、これからもそうでしょう。

だが、主観はどうでしょう。

ここを掘り下げましょう。

汝殺すなかれ。

その殺すなかれの対象に、人工知能やロボットが入るのか、多くの人が煩悶するときはやがて来ることでしょう。

人工知能やロボットが、心を持つかのように振る舞いだすであろうからです。

やがて、人工知能やロボットに関して、人は故障や破損を病気や怪我と呼び、修理修繕を治療や入院、廃棄を葬儀と思いもし言いもする、そういう時代が国境も文化も越えてやってくるかもしれないのです。

重大な課題は、「人間の良きパートナー」が実現可能か、そして、それを実現することが倫理的、社会的に許されているかどうかです。

道具を廃棄することにはあまり抵抗を感じないのですが、パートナーはとてもそうはいきません。

 でしょうね。

 ペットは単なる動物ではなく家族です。

 人工知能やロボットもその仲間になるわけですね。

ペット以上の存在になると思います。

 ある意味、人工知能やロボットは分身化した存在でしょうから。

 少なくとも、研究者は哲学、倫理や価値観という意味で、が問われる時代になってきたということでしょうか。

これからの人工知能の研究では、必要不可欠だと思います。

 ある意味、宗教と科学の融合の時代ですね。

宗教的観点は人間の存在や行いの意味を根源から問い直すという意味で重要だと思います。

少なくとも自分の試みが人類にとっていかなる意味を持つか、真摯に考えなければならないと思います。

 それだけに、技術論に流れやすい研究者の意識改革も要るということでしょうか。

まさに、手塚治虫の描いた近未来の光景を目撃する世代はすぐそこまで来ている気がするのです。

人工知能の使い方を、振り返ってみましょう。

 情報処理から情報検索、さらに、情報シュミレーションへと展開してきた。

そうなると疑問が浮かんできます。

 人工知能を使うことは、利用者の脳の外部への延長や拡張なのか、それとも、他者との相談なのか。

少なくとも共同使用された人工知能の使用は、限りなく他者との相談に近くなるでしょう。

 神に訊ねる内容に、人工知能との相談の生かし方も加えるべきですね。

人工知能やロボット、個人で使用している段階ではある種の分身かも知れないが、家族で共有したら家族の一員、組織で共有したら組織の一員、そう思われる時代がやがて来るかもしれないですね。

 人工知能は、ときに設計者の想定外の答えを返す。

だが、前もってインプットされた思考形式からは無数の選択肢が生まれる可能性があり、設計者が見落としていた視点を提示しているに過ぎないでしょう。

解は無理としても理解を得たい…。

 人工知能にたいして、幻想が独り歩きする原因の一つに「知能」という言葉があるかも。

人工知能なるものは、どこまでもシュミレーターであって、アウトプット、つまり出力はその結果に過ぎない。

 どこまでもインプットー外部からの入力―に対してアウトプット―外部への出力―を返している。

それ以上でもそれ以下でもない、ということでしょうね。

人はそれ以上が可能だから人なのだ、そういえるでしょう。

 人工知能…。

組み込まれてる思考は、設計者の嗜好に相当左右されてる気がするのは、私だけでしょうか。

こればっかりは、何人でやろうが、当人たちの癖が否応なしに入るはずと思えます。

だから異なる設計者の人工知能同士の会話は、設計者同士の会話の代理の様相を呈するように思えるのです。

 人工知能の思考は組み込まれるものなのか、それとも宿る、発現するものなのか…。

 前者は人工知能と呼ぶに相応しい様に感じますが、後者も人工知能って呼んでいいんですかね。

 それとも人工生命とかになるんでしょうかね。

インプットなしのアウトプットはあり得ません。

学習なしに何かが出来るわけけではないのと同じことでしょう。

人工生命の次元や段階の差と見る方が良い気がします。

 限りなく人に近いことが求められるが、人になられても困る。

 なんのための人工知能かということですね。

ここが議論の分かれ目です。

 ということは、人工知能は知的行動のレベルでよき協力者となってくれる、存在を目指すということですね。

 機械は基本的にはツールですから。

 ジレンマですね。

その通りです。

そこが、「心」の機能が求められるところです。

心、ないしはそれに近い存在が破壊されると心がひどく痛みます。

 アトムの中でも、大きな課題として出てきましたね。

 これが現実味を帯びてきたのですね。

心の失敗作は破壊していいものなのか。

 心とさえ、見なしえる現象が、現実に存在してしまう。

 ここにシミレーターとしての人工知能の存在意義の一つがある。

相談相手としてのもう一人の自分として、ということでしょうね。

こればっかりは、何人でやろうが、当人たちの癖が否応なしに入るはずだと、思えますね。

 だから異なる設計者の人工知能同士の会話は、設計者同士の会話の代理の様相を呈するように思えるのです。

人工知能同士で、対話もどきの状態は作れるでしょうね。

怒ってるような反応や笑ってるような反応もさせられるかもしれないです。

だが、人工知能が会話を楽しめるかという疑問は当然残ります。

人工知能との会話や人工知能同士の対話を楽しんでいるのは人であって、人工知能ではない、そうでしょ。

ここを考えてない議論が多くないでしょうか。

 人工知能はしょせんどこまで行っても、シュミレーションの道具であるはずでしょ。

 ルーチンワークの集積で出せる答えなら、人工知能の能力は人より上。

1960年代の人工知能研究では、大規模探索空間を多くの場合に効率的に探索する能力、と規定してきました。

よく定義されたゲームであれば、人間はチャンピオンですらも人工知能に勝てなくなってしまいました。

 狭いながらも人間の能力を超えていると仰います。

 そうかもしれません。

 だが、ロボットは多かれ少なかれみなそうなのです。

 問題は、どういう点でどういう意味で超えているのかではないですか…。 

人間の高い能力が求められる領域で、ということです。

 だが、その結果をみて、責任をおって判断しなければならないのは、最終的には人であるはずでしょ。

 そこをちゃんと考えて理解してない議論が多すぎる気がする。

判断能力は、価値判断と関わりが深いでしょ。

 価値判断は、心の問題でしょう。

機械に心が宿るかどうかですよ。

 人工知能に学習機能をつければ、そのうち自らのプログラミングさえ自律的に改善改良してくれる能力を供えるかもしれない。

 だが、その対応は結局、経験からみちびかれる想定の範囲でしか、できないのではないでしょうか。

 想定外の事態に対応できる能力では永久に人工知能は、人を超せないはすだと思えますが。

そこあたりは、議論の余地があるでしょうね。

人の世界に人工物が深く浸透したことが原因です。

 人は人としか生きられない以上、この問題は避けて通れない。

 この問題に否応なしに機械もまきこまれた。

 それが、ロボットや人工知能の必要性となったということでしょうか。

問題はここに存在します。

さらに急速に変化する世界。

 複雑化した現在、なにがもっとも優先順位が高いかの判断も難しい。

 にもかかわらず迅速な判断が求められる。

 その判断のパートナーとしての人工知能が、求められるということでしょうか。

より重大な課題は、「人間の良きパートナー」が実現可能か、そして、それを実現することが倫理的、社会的に許されているかどうかです。

人工知能の学習についても、いろいろの手法や方向、段階があるように見える。

だが言えるのは、適切で的確なアウトプットのためにインプットするのであって、極端な話インプットのやり方は道義的倫理的に問題さえなければ何をやってもいい。

だから、ここに設計者の創意工夫と腕の見せ所がある。 

道具を廃棄することにはあまり抵抗を感じないのですが、パートナーはとてもそうはいきません。

 でも機械は道具ですね。

その通りです。

しかし、これを突き詰めていくと精神的な奴隷をつくろうということになります。

 人工知能やロボットの処分は、廃棄と割り切っていいのかどうか。

 これはまさにアトム、そして手塚治虫の流し続けた涙であり、それが現代人すべてのものとなる時代がそこまで来ているのですね。

心、ないしはそれに近い存在が破壊されると心がひどく痛みます。

影響を与えないのなら役にも立たないということなので…。

 ロボットの破壊力は半端じゃないですから。

 だから困る。

 人となら喧嘩も良いけど。

現実には「人々に影響を与えない心」をイメージすることは難しいですね。

 人工知能やロボットもまた、価値観を共有してくれないと、役に立たない。

 ある意味、有能な秘書であり執事であってほしいわけですね。

その通りです。

そこが、「心」の機能が求められるところです。

 だから、察してくれる人工知能が欲しい。

 理想を言えば、空気を読んでくれるくらい。

 やはりそうですか。

 いつかそういう時代が来ると思っていました。

科学的観点だけでは解けないということでしょう。

 客観的に決まるなら、法則があるはずです。

 人工知能で対処できるのは法則やなんらかの決まり事のある世界でしょ。

 主観と創造には未知の法則があるかも知れないし、カオスかも知れません。

 つまりイコールパートナーを目指しているわけですね。

 人工知能は有能な助手になりえてもそれ以上ではない、ということですね。 

いいえ、ここは非常に興味深い点です。

人工知能研究者はその壁を越えたいのです…。

人間が偉いのは価値を創り出せるからです。

例えば、ゲームは複数の答えはあっても最適解がある。

だが創造に最適解はない。

ここで人はまだ勝てるはずです。

コミュニケーションがうまくいかないときはひどくなります。

が、逆に賭けたいということです。

確かに、人と人であってさえ意思の疎通は難しいです。

 いうより、心があるからかえって厄介とさえ言えますね。

そうなのです。

 人はいやおうなしに神の領域に踏み込んだわけですね。

 生命科学でもそうですが。

そこまで人工物は進化しました。

人間の霊性の進化が求められる局面を齎す研究なのですね。

これについてもそう思っています。

 高度な知性の助けなしには生きられない時代ということですね。

そう思っています。

 つまり最新科学は、皮肉にもある意味神学的側面を持たざるを得ない局面を迎えているということでしょうか。

では、なぜ人工知能、そして心のあるロボットが必要かという問いにも関わってきますね。

 遣い勝手の向上という点はないですか。

使い勝手というのは程度の問題、一方が他方より少しまし、ということですが、いまや死活の問題に発展しつつあると思います。

 遣い勝手の内容と質が、そもそもの出発点から問われるわけですね。

 人間の霊性の進化が求められる局面を齎す研究なのですね。

その通りです。

非古典的な考察が必要なのは、純粋に善、純粋に悪という心を考えられないからです。

 ある意味、天使と悪魔の問題と言えそうですね。

そのような倫理的な観点からの議論が必要だと思います。

ロボットだけでなく、研究者倫理も議論の対象になるでしょう。

 まさにロボット憲章の必要性が現実味を帯びてきたということでしょうか。

原点に戻る必要がありますが、過去とは違ったマインドが必要だと思います。

 そもそも心とは何か。

 そして心を持つ機械としてのロボットや人工知能はなぜ必要になったかという、ここに立ち返る必要はありませんか。

 迷たときは原点に戻るのは基本と思いますが。

大きな社会的問題だと思います。

 さらに多くの議論への参加者が欲しい問題ですね。

 一般市民も交えての。

まったくその通りと思います。

 物理的に、また、原理的に可能かという議論もあるでしょうね。

今の時点で、可能かということと、これから可能になるかは、分けて考えるべきでしょう。

知識の発展の歴史は、有り得ないを有り得るに変えてきた歴史でもあります。

知識と知恵にとって、何が永遠に不可能かは、神のみが知るということでしょう。

そして、判断はますます、もし神ならばどう思うだろうかを基準にすることが求められるようになるでしょう。

確かに言えるのは、これだけに思えます。

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日本は面白い。

サイボーグ009、仮面ライダー、デビルマン、正義のヒーローが悪の手で与えられた力を悪に向かって使うのです。

イエスは堕落したユダヤ教徒に十字架に架けられるが、復活して悪と戦うヒーローとしてやがて再臨するのです。

ウルトラマン、光の国から来たヒーロー。

イエスは弟子に光る姿を見せ、天使たちも光に包まれてくる。

言い換えれば、光の国から来たヒーロー。

どっちも、悪を倒して人々を救う。

なに、この奇妙な類似。

他の国のヒーローに、こんなイエスとの類似を感じることあるのでしょうか。

宗教でなら、古代エジプトのホルスや、ヒンズー教のクリシュナに、イエスと似た神話があると指摘されますけど。

もっとも、どちらの国も、日本人のルーツを考える上で避けて通れない国です。

古代エジプトの宗教と日本の神道は、神界の構造がそっくりな上に偶像と賽銭箱の有無や建築素材の差を除けば神殿と神社の構造がそっくりです。

おまけに、日本人の足で最も多いのは、エジプトタイプ。

インドも、タミル語に日本語の起源を求める説が出たり、似た顔の人がいます。

フランダースの犬のネロを負け犬と見る西欧に対し、逆境でも愛を貫くひたむきさを日本人は愛するのです。

このネロの姿は、愛を貫いて殉教したイエスや聖人たちに近いものを感じるのです。

聖書から見れば、セントネロではないでしょうか。

東日本大震災で、被災者たちのパニックになるどころか、支援物資にお行儀よく並ぶ様子は世界を驚かせたのです。

彼らが言うには、大抵は先を争ってパニックになるらしいのです。

聖書は、隣人愛を説くのです。

面白いことに、かつて、フランシスコザビエルは、日本の精神文化に聖書、特に、キリスト教的なものを感じて、自分は二番手だったのかと気になって調べたことがあると言うのです。

結局、先客の存在は見つけられなかったそうなのです。

この日本に、古代中東の遺伝子が残り、旧約聖書を連想できる風習が残り、へブル文字と形と表現する音の似たカタカナがあり、呆れるほどの古代イスラエルの幕屋や神殿と類似がみられる神社が祀られるのです。

これじゃ、失われた十支族を探すイスラエルのアミシャブが日本を気にしても仕方がないのです。

日本のものに、やたらと自国起源を言いたがる韓国には、アミシャブが関心を持った話は一向に聞かないのです。

日本には、中国に似た顔の方が、韓国朝鮮に似た顔より多い気がするのは、私だけでしょうか。

韓国朝鮮には、シルクロードを連想できる顔を見ないが、日本にはいるのです。

日本にはおまけに、中東や地中海世界を連想できる顔までいるのです。

中東や地中海世界を連想できる顔を、私は韓国朝鮮に知らないのです。

つくづく、日本は面白い国なのです。

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