« 仲保者としてのイエスは本当に強かったのか想ってみた。 | トップページ | 「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ」と聖書? »

神を信じ切るということ。

聖書には、お金にまつわる話がいくつかあるが、今回はそのうちの二つを見てみたいです。

その一つは、やもめの献金です。

 マルコによる福音書第12章の41節から44節と、ルカによる福音書第21章の1節から4節ですね。

イエスは弟子たちと、神殿に献金を捧げる人たちを見て、多くの金額を差し出す人たちの中で、1コドラントに当たるレプトン銅貨二枚しか差し出さなかったやもめを褒めます。

それは、余裕のある中からではなく、生活費全部を入れたからというのです。

 イエスは、やもめにとっての全財産であることを御父から与えられた権能である神権によって、理解したのでしょうか。

おそらくそうでしょう。

もちろん、そのやもめの表情などからも、それがこのやもめにとっては大金であると見て取れたでしょうけど。

聖書は、神を信ずるなら、怖気づくことなく、雄々しく行動することを求めてるでしょう。

 神を心から受け入れるなら、今日のことは今日が、明日のことは明日が思い煩うから、あなたは何も心配するなと説きますよね。

やもめは、神に心からの信頼を寄せているから、全財産を捧げることが出来たのだと、褒めたのでしょう。

 惜しみなく与えよとは、金持ちの青年にも諭していましたね。

マタイによる福音書第19章ですね。

同じ話と思われるものは、マルコによる福音書第10章の金持ちの男、ルカによる福音書第18章の金持ちの議員として出てきますよね。

もう一つは、、3人の僕にタラントを与えた人の話です。

 マタイによる福音書第25章14節から28節ですね。

天国を、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものと例えています。

その人はそれぞれの能力に応じて、ある者には5タラント、ある者には2タラント、ある者には1タラントを与えて、旅に出ました。

5タラントと2タラントの二人は、商売でそれぞれ、5タラントと2タラントを新たに得て、10タラントと4タラントに増やしました。

一方、1タラントを受け取った者は、それを使わずにいたので1タラントのままでした。

3人にタラントを預けた人は、増やした2人を褒めたが、増やさなかった者からはその1タラントを取り上げて10タラントに増やした人に与えたのというのです。

 自分の与えられた者が少ないからと言って、何もできないとあきらめたなら、才能のある人に自分が得られたであろうチャンスまで持っていかれるというのですね。

 マルコによる福音書第4章25節にも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられると、ありますね。

この1タラントをこれだけじゃ何もできないとあきらめた者は、ちゃんと判断できない愚か者ということでしょう。

 10人のおとめに出てくる、十分に備えなかった賢くない5人のおとめと、同じということですね。

マタイによる福音書第25章1節から13節ですね。

婚礼の花婿を待つ10人のおとめがいたが、そのうち5人は余分な油を持ってきてないかったので、明かりが消えそうになったのですよね。

十分備えてきた賢いおとめたちに分けてもらおうとしたが、あなた方に分ける分までないと言われて買いに行ったら、扉はしまりあなた方を知らないと入れてもらえなかったという話ですね。

婚礼の花婿とはイエスのことであり、イエスの再臨にいつも備えていなさいと言う、たとえ話ですね。

そうそう、全財産を献金したやもめと、1タラントを惜しんだばかりに取り上げられてしまった僕の話です。

どう思いますか。

 どちらも、わずかなお金の使い道という共通点がありますね。

 神を信じ切って全財産を捧げたやもめと、たった1タラントで何が出来るかとあきらめた僕。

 わずかしかないからと、あきらめない者とあきらめた者。

たった1タラントかもしれないけど、1タラントもあると考えられたなら、可能性は広がるということもあるでしょう。

だが、それだけではなく、神を心から信ずるなら、わずか1タラントからでも、後の2人より多くを得たかも知れないと言いたかったとも想像できますね。

 たとえ、1タラントからさらに1タラント増えてもそこでこの程度しか無理とあきらめないなら、さらにその倍の4タラントに、そして、8タラント、ついには16タラント。

神の力には限りがないので、信じ切れば、自分の持てる以上の力が出せるはずだと言うのでしょう。

 イエスを信じ切れば、水の上も歩け、風や波さえも静まる。

水の上を歩く話は、マタイによる福音書第14章24節から34節ですね。

 ペテロは途中まで歩けたのに、風に恐れをなすと溺れかけてイエスに助けられたのでしたね。

2人が乗ると、舟を揺らしていた風も波も静まりますね。

舟と風と波といえば、マルコによる福音書第4章36節から、41節ですね。

 突風が来て、舟が沈みそうと言うのにイエスは平然として寝ていたのでしたね。

 弟子たちに起こされたイエスは、風を沈めてから弟子たちの信仰の足りなさをたしなめたのですよね。

ところが、弟子たちは自分たちにそんな権能が与えられていたとは気が付いていなかったのでしたね。

 この方はどなたなのか、風や海さえも従うと、言い合ってますからね。

今回は、お金のことから、神を信じ切ることで、多くの力や可能性が与えられるという話にまで行ってしまいました。

 聖書は、とことん神を信ずれば、不可能はないということをしきりに説いている本ですね。

確かに…。

|

« 仲保者としてのイエスは本当に強かったのか想ってみた。 | トップページ | 「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ」と聖書? »

民俗」カテゴリの記事

思想」カテゴリの記事

聖書・コーラン」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 神を信じ切るということ。:

« 仲保者としてのイエスは本当に強かったのか想ってみた。 | トップページ | 「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ」と聖書? »