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自由について想ってみた。

表現の自由の問題は、大きな課題を抱えているように思えます。

思想信条信仰などの精神の自由の問題と、深く関わるからです。

新しく画期的な発想は、思想信条信仰などで雁字搦めで制約だらけの状態からは極めて生まれにくいでしょうね。

だから、思想信条信仰などの自由を保障するために、表現の自由が法的に認められることになるでしょうね。

しかし、自由であろうとすればするほど、さまざまな制約に突き当たるでしょうね。

物理的制約であれば、可能であれば緩和できるが、可能でなければ逆手に取るしかないでしょうね。

そして、物理的制約があるからこそ、生まれてくる様々な創意工夫もあるでしょうね。

では、倫理的道徳的制約はどうでしょう。

これも、逆手にとって創意工夫で切り抜けること自体は不可能ではないでしょう。

とはいえ、何処かで限界がくるのも、間違えないでしょう。

許容限度の逸脱かどうかの課題に、常に直面するでしょう。

いまは、表現の自由の許容範囲が史上最も高い時代ではないでしょうか。

それだけに、許容限度の限界に限りなく近づいているように思えます。

芸術かポルノか、芸術かエログロナンセンスか、芸術か反倫理・反道徳か、この壁の限界にまで来ているのではないでしょうか。

表現技術の水準の高さや、芸術的完成度さえ高ければ、芸術として許容するのか、どうかが問われているのではないでしょうか。

表現技術の水準の高さや、芸術的完成度の高さがたとえあっても、ポルノ・エログロナンセンス・反倫理・反道徳として拒否するのかどうかの線引きの基準が、あいまいなのではないでしょうか。

それだけに、法的規制は馴染まないし、発表者側の自主規制も馴染まないのではないでしょうか。

法的なら弾圧、私的なら迫害に繋がるでしょうね。

むしろ、どのような倫理道徳観を持つべきかの絶対的基準の確立こそ、必要でしょうね。

どのような倫理道徳観が神の視点であり、どのような倫理道徳観が悪魔の視点であるか、ここでも真剣に考えるべき時に、私たちは来ているように思えるのです。

需要があるから、供給もある。

言い換えれば、何をどう求めるべきなのかという課題を、人々はかつてない水準で求められている時代に生きているのではないでしょうか。

まずは、ここに気が付くべきなのでしょう。

マタイによる福音書の、7章7節から8節には、こうあります。

求めよ、さらば与えられん。

尋ねよ、さらば見出さん。

門を叩け、さらば開かれん。

すべて求むる者は得、尋ねる者は見いだし、門をたたく者は開かれるなり。

人々は、答えを求めているでしょうか。

求めない答えは、永遠に与えられることはないでしょうね。

答えを求めて得られ、その答えをすべての人が共有するなら、その答えに基づいて考えることを当たり前にすべての人が考えるなら、人々は真の自由を手に入れるのではないでしょうか。

悔い改めて福音を信ぜよ、神の国はあなた方のうちにある。

悔い改めて福音を信ぜよ、神の国は近づいた。

福音を得るべき真の答え、神の国を得るべき真の自由の国、そう置き換えて読むなら、異論がある人はどれだけいるでしょう。

そして、そのとき、多くの人は実感するのではないでしょうか。

得るべき真の自由の国は近づいた。

そして、そのとき、多くの人は実感するのではないでしょうか。

得るべき真の自由の国はわわわれのうちにある。

いかがでしょうか。

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