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仲保者としてのイエスは本当に強かったのか想ってみた。

イエスがなぜ、仲保者と呼ばれるのでしょう。

 天の神である御父との間を取りもってくれるからでしょ。

イエスは、奇跡を起こすたび、あなたの信仰があなたを救ったと言っています。

 イエスは治された人と天の神である御父に、全ての責任を転化していると、見えるわけ。

感謝は天の神である御父にしなさい、私が取り次ぐと言っています。

 あなたの身に起きた奇跡は、あなたの信仰が天の神である御父から遣わされた私を通じたことによってなされたと言いたいようですね。

私自身が、自分の身の起きた奇跡の体験者ですからね。

神頼みが本当に効くと言うその人の周りに、なぜ、そうなるのか、説明できる人がいなかった方が、私には不思議なのです。

その人に、私は言いました。

あなたは、神頼みのたびに、こころから、驚いて、喜んで、感謝したでしょう。

神様だって、無邪気に喜ぶ人の頼みなら、気前よく引き受けたくなる、そう思いませんか。

ほとんどの人は、こころから、驚いて、喜んで、でも、その次には、運が良かったとか、自分の力だとか言って、神に素直に感謝しないのではないでしょうか。

それでいて、気休めという、御利益はありがたがる、おかしなもんですね。

神も人も、心から感謝されたり、喜んでもらったりしたら、ついつい、気持ちが大きくなるのは似たようなものでしょ。

すると、その人は、これからあなたにいろいろ相談したいと、言いだしたのです。

あたしは、あっけにとられました。

私は預言者でも、神の子や神の使いでもない、まして神ではない、普通の人だから間違うことがあり得る、質問なら神にしてくれませんか。

 そう言っても、あなたは正直だから騙されても良いと、言い返され絶句したのでしたね。

その後、その人から受けた仕事上の質問は、心に浮かんだままいうと、その通りになることが5,6回続いたのです。

私はそのたびに、言いました。

あなたの日頃の神への感謝が、私の思いついたまま述べたに過ぎない言葉を現実に変えたのでしょう。

感謝は神にしてください、私も神に感謝します。

私は、この奇跡の全責任を神と私の相談者に丸投げして、気持ちを楽にしたかったのです。

あの時の奇跡は、神とあの人の間に起きたのであり、私はたまたま、利用されたに過ぎないと、自分に言い聞かせたかったのです。

 そして、その人の転職による別れで、ちょっと寂しいような、ほっとしたような気分になったのでは。

自分の身に起きた奇跡と、神頼みがことごとく効く人との出会いは、今思い出しても、不思議な体験でした。

私はその時、神から神権を行使する権限をあなたに与えるなどと言う声は、聞いた覚えがありません。

空耳で、そのような言葉が聞こえた気がする経験さえなかったのです。

まさに、その時は、突然来るのです。

そして、それを判断する権限は神にあるのです。

 天の神である、御父が判断するから、御子であるイエスさえ知らない。

そういうことでしょう。

おそらく、イエスへの十字架の召しも、事前に知っていたとはいえ、御父から改めてその時が来たと知らされた時、イエスと言えども、戸惑う気持ちは抑えきれなかったことでしょう。

ルカによる福音書第22章43節から44節にはこうあります。

その時、御使(みつかい)が天からあらわれてイエスを力づけた。

イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。

そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。

復活の奇跡自体は、自らも行って実際にあることは知っていても、いざ、自分の番となると、御父に信頼は寄せながらも、不安で心は満たされたでしょうね。

イエスは、十字架にかかる前、ゲッセマネで天の神である御父に、この杯を退けてくださいといってから、あなたの思いを自分の思いの上に置いてくださいと祈ってます。

つまり、自分の行った奇跡のすべての責任は天の神である御父から出たのであって、自分は取り次いだに過ぎない言いたいようです。

 御父に全幅の信頼を寄せ、身も心も委ね切ろうと努めてきたが、湖の上を歩いたイエスを真似ようとしながら強風に怖気づいたパウロのように、イエスもまた十字架に怖気づいたのでしょうね。

でも、イエスは、全てを御父に委ねたことを思い出し、全てを受け入れる心を固めたのでしたね。

舟で渡るとき、風雨で沈みそうになったら弟子たちに起こされてしまったイエスは、風雨を鎮めた後、信仰の薄い者たちだなとぼやいたでしょ。

それは、イエスは、弟子たちがイエスを頼りにしてくれるのはありがたいが、御父との間の仲保者としてまだ十分認識していないことへの、まだ教育が足りないなあと、ため息をついたのではないでしょうか。

そして、頑なで見ても素直に信じないあろう人達のばかりいる前では、奇跡を起こさなかったです。

これは、イエスの奇跡を、イエス自身の力と思い込んだり、時の聖職者たちのように悪霊の仕業と思い込んだりしてしまって、責任を御父と奇跡を見た当人たちに転化できないからではないでしょうか。

 イエスも、本当は、奇跡の全責任を御父や奇跡を受けた当事者に転化して、自分の気持ちを楽にしたいと言うのが、本音だったりして。

イエスは、あなたの重荷を、私が負って楽にしてあげようと言うけど、その責任も全部御父に委ねてたりしていたのでしょうか。

 だから、仲保者を名乗ったと。

 そして、御父もまた、自分を指導してくれた先輩に全責任を委ね、その先輩もまたの先輩にって、きりがなかったりして。

それは、十分あり得えそうですね。

 イエスは、思われているほど精神的に強かったわけではなく、逆に御父に全責任を丸投げしたいくらい、本当は、精神的に弱かったのでは無いでしょうか。

だから、天の神である御父に、全面的に頼り切って、心の安らぎを得ていたのかも知れないですね。

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