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やはり日本はキリスト教的な国?

日本の英語教育に、こう想うことがあります。

欧米理解も結構だが、やはり日本の歴史文化伝統を自分の言葉で語れる教育は必要ではないでしょうか。

今でも世界から見れば、十分ミステリアスな国ではないでしょうか。

自分自身に語るネタがなくても、古代から現代まで一貫性のある日本はネタの宝庫と言えます。

まず、ネタの宝庫である日本を日本語で語れない人に、英語で語れるわけがないです。

 語るべきものもないのに、英語で何を話すのかしら。

買物や、観光で行くだけなら、きめ細かく世話をしてくれるツアーのなかから、行きたいものを探せばいいだけの話ではないでしょうか。

語るネタの話の一つに、歴史があり、その背景についての考察があります。

欧米では、あなたはどう考えているかが、しばしば問われるからです。

古代から連綿と続く天皇と共存しながらも、近代化を自力で成し遂げたアジアで唯一の国が日本と言って良いでしょうね。

それが可能だった背景には、やはり、日本版教皇ともいえる立場を築いて、あたかも欧州キリスト教国と似通った歴史を辿ってきたことは大きいです。

これは天皇制への好き嫌いに関係なく、認めるべき事でしょうね。

世界に先駆けて近代に突入した欧州は、キリスト教国が多いです。

興味深いことに、アジアで唯一自力で近代化した日本も、フランシスコザビエルに自分は日本布教の二番手だったかと慌てさせるほど、精神文化はキリスト教に近いといいます。

つまり、近代化の背景にキリスト教ありということなようです。

 日本の精神文化はどこが、キリスト教的かというと。

日本は、東日本大震災で、世界を驚かせたのです。

彼らが驚いた理由とは、これほどの大災害でありながら、略奪も、暴動も、パニックも、起きないばかりか、救援に対しても大人しく順番を守って、並んだことであります。

被災者は、こういうでしょうね。

自然が相手じゃ、仕方がないじゃないか。

困ったときはお互いさま。

 このような気持ちに彼らをさせている精神文化の背景には、何があるのかしら。

ここにこそ、フランダースの犬の主人公であるネロが、日本人の心をつかんで離さない訳があるのではないでしょうか。

ネロは、どんな困難な中でも、笑顔と優しさと素直さを、忘れなかったのです。

言われなく迫害された時でさえ、誰にも愚痴も恨み言も言わなかったのです。

死に直面した時でさえ、笑顔と優しさと素直さを、忘れなかったのです。

作品に登場人物たちの礼拝の場面こそないが、ネロも含めて全員がキリスト教徒であることは言うだけ野暮でしょう。

 ネロは、むしろ模範的なキリスト教徒だった…。

実在していたら、セント・ネロと言い得るくらい模範的なキリスト教徒と呼ばれたでしょうね。

 ここに多くの欧米人は、気づけていない…。

もちろん、大半の日本人も気づいてはいないでしょうね。

 そのネロの生きざまに、多くの日本人は共感の涙を流す…。

 欧米では、負け犬としか見られていないのに…。

イエスは言う、神の教えの根本とは、愛であると。

そして、イエスはこうも言います。

寛容であれと。

どんな状況下であれ、愛と寛容を忘れるなと。

神は、試しのために試練を与えられます。

平時に、愛と寛容を言えた人でも、困難に直面しても貫けないなら、神は悔い改めを求めると。

キリスト教には、多くの殉教者がいます。

殉教者の一人目が、イエス自身と言って良いでしょうね。

十字架が迫ってきたとき、そして十字架の上でさえ、イエスは嘆きもぼやきも愚痴も言わなかったのです。

こう言い返す人がいるでしょうね。

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)と、言っていたではないかと。

これは、旧約聖書詩編第22編の冒頭に出てくる言葉だと指摘されています。

続く言葉には、イエス受難の預言詩とも取れる、内容が綴られています。

嘆きやぼやきや愚痴どころか、預言は成就したと、十字架の上でさえ語ろうとしていたのです。

聖書の詩篇にはほかにも、詩編第22編の冒頭の言葉と良く似た文章を見つけることが出来ます。

例えばここです。

長くなるが、理解してもらいたいのであえて引用します。

第6篇

6:1 主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、あなたの激しい怒りをもって、わたしを懲らしめないでください。

6:2 主よ、わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。主よ、わたしをいやしてください。わたしの骨は悩み苦しんでいます。

6:3 わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。

6:4 主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。

6:5 死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府においては、だれがあなたをほめたたえることができましょうか。

6:6 わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。

6:7 わたしの目は憂いによって衰え、もろもろのあだのゆえに弱くなった。

6:8 すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。主はわたしの泣く声を聞かれた。

6:9 主はわたしの願いを聞かれた。主はわたしの祈をうけられる。

6:10 わたしの敵は恥じて、いたく悩み苦しみ、彼らは退いて、たちどころに恥をうけるであろう。

こちらも、似ている印象を受けます。

第13篇

13:1 主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。

13:2 いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に悲しみをいだかなければならないのですか。いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか。

13:3 わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、わたしの目を明らかにしてください。さもないと、わたしは死の眠りに陥り、

13:4 わたしの敵は「わたしは敵に勝った」と言い、わたしのあだは、わたしの動かされることによって喜ぶでしょう。

13:5 しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、わたしの心はあなたの救を喜びます。

13:6主は豊かにわたしをあしらわれたゆえ、わたしは主にむかって歌います。

イエスは天の神である御父に、あなたの御心のままになさってくださいと、ゲッセマネで祈ったのです。

この杯を退けてくださいと、弱音は言ったけれど、すぐに、御心のままになさってくださいと、言い直しています。

そして、一心不乱に祈って、必死に不安と闘い、乗り越えられたのでした。

だとすれば、十字架の上でイエスは死に直面してまで、御父を賛美し、詩篇の一節を口ずさんだとみるほうが自然でないでしょうか。

仕方がないといって、受け入れた点で東日本大震災の被災者たちとどう違います。

困難の直面しても、パニックに陥ってない東日本大震災の被災者たちとどう違います。

悲劇の中でさえ、人の心に思いをはせる東日本大震災の被災者たちとどう違います。

この心の壺に、フランダースの犬の主人公のネロは、あまりにぴったりと嵌ったとは、言えないでしょうか。

そして、この精神文化こそフランシスコザビエルに、自分は日本布教の二番手だったのかと慌てさせたものではないでしょうか。

極東の、キリスト教的精神文化の国だったからこそ、日本もまた西欧型の近代への歩みを進めたのだと見ても、面白い気はします。

どんなもんでしょう。

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コメント

親鸞聖人の浄土真宗には
世尊布施論という仏教経典があるのですが
実は漢訳されたマタイの福音書なんですよ

中国にはニケーア公会議でローマ帝国
を追放されたネストリウス派
キリスト教(景教)が伝わっていて
マタイの福音書も世尊布施論として
日本仏教に影響を与えたみたいですね。

投稿: | 2013年10月12日 (土) 03時26分

キリスト教の仏教、特に大乗仏教に与えた影響は大きいとは、良く指摘されますね。

景教の仏教に対する関与はかなりなものですね。

投稿: cova | 2013年10月13日 (日) 09時46分

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