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京都と東北と秦氏?出雲童歌「ネコにゃんにゃん」とナニャドラヤ?その2

出雲童歌「ネコにゃんにゃん」の出雲については、大きな謎があります。

島根県の出雲大社前の地元の民謡保存会も知らない、聞いたことがないと言われます。

民謡保存会さえ知らないのだから、一般地元民は、なおさら知らない。

 出雲在住なのですが、そのような歌は聞いたことがないです。

 出雲は出雲でも別の地区の出雲なのでしょうか…。

島根県の出雲大社ではなく、京都府亀岡市の出雲大神宮に因んだ童歌かもという。

 実際この地には、出雲大神宮が存在します。

しかも、こちらの方こそ、元出雲だと言うのです。

出雲大神宮御祭神
http://www.izumo-d.org/history/gosaijin.htm

 出雲大神宮は京都府亀岡市の北東部に位置し、大国主命(オオクニヌシノミコト)と后神である三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)を奉斎し(明治の制による)、特にこの二柱を合わせて出雲大神、出雲大神宮(日本書紀)、出雲神社などと称へ奉ります。

古事記や日本書紀に見られるように、大国主命は因幡の素兎で知られる慈愛に満ちた神様で、当宮末社に祀られる少那毘古名命(スクナヒコナノミコト)と共に国土経営に尽力なされました。
その後、皇孫に国譲りの後、幽世(カクリヨ)を統治すべく、現在の島根県にある出雲大社に鎮座される事となります。

『丹波国風土記』によれば、「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記します。
よって当宮に古来より元出雲の信仰があります。

丹波もまた、秦氏の拠点でした。

秦氏は、日本へ渡ると初め豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していったのです。

大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えました。

山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行きました。

戦国時代の丹波の武将である川勝 広継(かわかつ ひろつぐ)は、光照(みつてる)とも称したのです。

本姓は秦氏で、秦河勝の後裔とされます。

またの名を下田氏という川勝氏は丹波国桑田郡・船井郡内を知行し、室町幕府に仕えてきました。

秦氏は、『日本書紀』で応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君を祖とします。

『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔とされるが、その真実性には疑問が呈せられており、その出自は明らかではありません。

だがこの秦氏には、ユダヤ人説が出されています。

佐伯好郎は秦氏は景教、つまりキリスト教のネストリウス派のユダヤ人であるとの説をとなえたが、飛鳥昭雄によれば晩年には原始キリスト教徒説に変わっていたと言うのです。

 原始キリスト教とは、最初期のキリスト教のことですね。

イエスの直弟子である使徒たちがユダヤ、ガリラヤにおいて伝道活動、つまり布教を始めた時代より、新約聖書の主要な文書が成立した後の西暦150年頃までをいいます。

飛鳥昭雄と三神たけるなどは、イエスの直弟子の直系であるエルサレム教団であると主張します。

エルサレムに定住していたエルサレム教団は、「第一次ユダヤ戦争」が勃発するやいなや、戦火を逃れてエルサレムを離れてしまったと言われています。

4世紀の神学者エウゼビオスの『教会史』によるとエルサレム教団は、第一次ユダヤ戦争が本格化すると見るや、エルサレムを脱出し、ガリラヤ湖南方、ヨルダン河東岸にあるペラというギリシア人都市へ集団移住したというのです。

だが、エルサレム教団は、古代ローマ帝国、ユダヤ教保守派、さらには非ユダヤ系イエス信者たちからの2重3重の迫害、弾圧、差別を、一身に受けることとなったといいます。

そして、ベラを後にしたエルサレム教団は、その後消息を絶つのです。

 飛鳥昭雄と三神たけるは、そのベラで消息を絶ったエルサレム教団が秦氏の正体というのですか。

秦(ハタ)とは、ユダヤの発音であるイエフダ―から、イエハダー、ハダに転訛し、さらに濁点がとれてハタとなったと見ています。

 そして、その秦氏の拠点に丹波も含まれます。

 ナニャドラヤは、ヘブル語で解けると説があります。

ナニャドヤラとは、「ナニャトヤラ」とも言われる青森県南部から岩手県北部にかけての地域及び秋田県鹿角地方の旧南部藩領内に伝わる盆踊りです。

ネコにゃんにゃんの歌は、元々は歌垣の歌かも知れないと、この歌を聞かされた人は推論しています。
http://www3.ocn.ne.jp/~hikarion/hikarinokai/reigen2.html

ニャンニャンと聞こえることから南部の猫歌と呼ばれるナニャドラヤもまた、土地の老若男女が夜を徹して踊りながら歌い、この晩だけは普段思い合っている男女が夜陰にまぎれて思いを遂げることを許されていたというのです。

 出雲童歌「ネコにゃんにゃん」から、バステトの大祭を連想したこともあったでしょ。

男女の出会いの場として見た場合、バステトの大祭もまた、一種の歌垣とみても、面白いですね。

ナニャドラヤは、「ニャニャドヤレ」だか「ニャニャドヤラ」とかいう風に聞かれもし、歌われもしていたといいます。

 そうなると、ナニャドラヤにも歌垣の要素があるから、ネコにゃんにゃんの歌は、元々は歌垣の歌かも知れないという解釈と重なります。

ナニャドラヤの伝わる地域の一つである戸来村は、現在の青森県三戸郡新郷村大字戸来にあたります。

戸来(へらい)には、ヘブライからの転訛という説があります。

もっとも、イエスの時代はアラム語を話していたはずだから、偶然似てるだけと、一笑に付す人もいます。

だが、こう言う証言もあるのです

村の赤ちゃんには、魔よけとして額にクロス、すなわち十字を書く習慣があった。

村の野良着は、ユダヤの民族衣装に酷似していた。

赤ちゃんの揺り籠は、ユダヤの伝統的な揺り籠と同じ形態であった。

沢口家当主の容貌は、一見、青眼に彫りの深い外国人のような顔だちであった。

この沢口家の当主の祖先、なんとキリストの娘をキリストの娘を嫁にもらったと伝わるらしいですよ。

 実際は、原始キリスト教徒の娘かも知れない。

東北もまた、秦氏の進出した土地なのです。

 そして、秦氏にはユダヤ人キリスト教徒説があります。

 矛盾しないですね。

現在キリストの墓とされる場所の横には、イスラエル大使館が立てた記念碑が建立されているといいますよ。

 出雲童歌「ネコにゃんにゃん」の出雲が、京都の丹波であってみれば、ナニャドラヤの伝わる地域とは、秦氏で繋がりますね。

ますます、ネコにゃんにゃんの元歌が、ナニャドラヤである可能性が見えてきたようですね。

追記

出雲童歌「ネコにゃんにゃん」の歌詞はここに収めました。

この歌についての情報募集中です
http://cova-nekosuki.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_78ef.html

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