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改めてバブテスマについて想ってみた。

創世記3章1節から5節には、こうあります。

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。

蛇は女に言った。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

女は蛇に答えた。

「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

蛇は女に言った。

「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

この言葉で、蛇はイブを騙したとされるのです。

だが、狡猾な蛇は、嘘の中に真実を、そして、真実の中に嘘を、混ぜているのです。

 真実はここでしょ。

 「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

確かにそうでしょうね。

でも、嘘も入っているのですよ。

というより、触れないことで事実上の嘘になってしまっているのでしょうね。

目が開け、神のように善悪を知るものとなることは事実でしょうね。

だが、善悪を正しく判断するにはそれなりの知恵も知識も必要なのです。

 つまり、善悪を知る樹とは、善悪を判断する能力を手に入れられる樹ではあるが、それ以上でもそれ以下でもない。

そういうことでしょうね。

神の命令をちゃんと理解し判断して行動する能力は、始めから授かっているはずですから。

そしてまた、どこに何がどのような状態であるかも、判断して適切に対処する能力も授かっているはずでしょうね。

 当然、自分たちが裸であることも知っている。

知っていても、何をどうすれば怪我をしないで済むか、仮に怪我をしてもどうすれば治るか判断できれば、何の問題もないのでしょうね。

 わからないときは、神に聞けばいい。

そういうことでしょうね。

南方にほとんど裸で暮らす人たちが居るように、エデンの園のように快適な場所であれば、体を覆う衣服は基本的には要らないでしょうね。

 裸で暮らす彼らから、性的羞恥心が消えれば、一生何も着ないわけですね。

実際、性的羞恥心のない子どもたちは、アダムとイブのように裸ですからね。

 善悪を判断する必要がある知識や技術を身に着けて欲しい、ということでしょうか。

いちいち神に聞かないでも、善悪を自分で判断できるようになって欲しいということかも知れないですね。

 アダムとイブも、無邪気に遊んでいるうちに、自分たちの体の違いを使って快感が得られることを知ったらどうなるかですね。

気持ちは良いは、イブも産みの苦しみがないから、気楽に出産するはとなったら、どうなるかです。

 なるほど、いくら神のエデンの園でも、限度ってものがありますね。

つまり、どこまでが許容範囲か判断する必要もあるのでしょうね。

そこには、どうあるべきかという基準がないといけない。

 善悪を知るとは、判断基準を自分で持つということですね。

イチジクの葉で腰を覆ったのも、性差の理由に気づいたので自制心を働かせることの必要性を知ったからでしょうね。

「決して死ぬことはない。」

この言葉にも、嘘と本当があるのです。

 食べてもすぐに死ぬことはないのは本当だが、死ぬ運命になるから、決して死ぬことはないと言うのは嘘。

つまり、こう言えば、嘘にならないぎりぎりだったということでしょうね。

「決してすぐに死ぬことはない。」

でも、これで騙せるかです。

 すぐに死ぬことはないわけだから、いつかは死ぬと言ってることになりますね。

だから、すぐにとは、言わなかったわけでしょうね。

そして、実際にも、善悪を知る樹の実を食べて、すぐには死ななかったでしょうね。

 神も、善悪を知る樹の実を食べたら死ぬことになるとは言ったが、すぐに死ぬとは言ってないから、矛盾はしてない。

死の存在を知るとは、限度や限界を身を持って体験しろということかも知れないですね。

 そうなると、死は善悪を知る樹の実を食べたことの罰ではない。

労働の苦労や、出産の苦しみさえ、神が人に課した学習課題という見方さえできるかも知れないですよ。

 となると、アダムのイブの原罪とは、実は何もないとなってしまう。

 強いて言えば、言いつけに背いたことだけれど、反省したから神は許して皮の服まで与えたでしょ。

つまり、アダムとイブによって人は判断ミスを犯す存在になってしまったわけですよ。

 反省もするが、判断ミスで過ちも犯す。

これを教会では、堕落と言っているのです。

そこで、救いは必要となるわけですね。

 だから、預言者をよこして、教えを伝えようとする。

それだけでは、十分ではないとしたらどうです。

 過ちの清算が必要でしょうね。

では、その清算を誰がするかですよ。

 特別な人でないと、不可能。

だから、神を父に人は母に生まれた、イエスが必要だったわけでしょうね。

 死んで詫びる必要がある。

でも、自殺では十分ではないのでしょうね。

 冤罪で死ぬしかない。

そこで、十字架となるわけでしょうね。

 イエスの十字架の死を、人の過ちの清算として受け入れるならば、これまでの過ちは清算される。

イエスはその後復活しています。

 イエスの十字架と復活による、過ちの清算を事実として受け入れる必要がある。

これを教会では、贖いと言ってるのです。

契約が、バブテスマなわけですよ。

 いわゆる洗礼ですね。

儀礼的に、イエスの死と復活を追体験するわけですね。

 水を使うのは、清めでもあるが、一種の胎内潜りでもある。

教会では、墓からの復活の儀礼的な追体験と説明するが、生まれ直すと言う意味では本質は同じでしょうね。

 だから教会は、洗礼、つまり、バブテスマにこだわる。

そういうことかも知れないですね。

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コメント

はじめまして。
よく拝読しております。
話題が豊富で、示唆に富んでいますね。
勉強させてもらっています。

ありがとうございます。
これからも楽しみにしています。

投稿: Kouji | 2013年3月15日 (金) 17時30分

私自身、発展途上です。

どこまでご期待に沿えますかどうか。

投稿: cova | 2013年3月15日 (金) 18時58分

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