« 日本の極東外交を考えてみた。 | トップページ | 素粒子の先はあるか。 »

稲荷と邪馬台国?

yahoo知恵袋で、面白い問答を見つけました。

伏見稲荷の元稲荷?

伏見稲荷の元稲荷? 京都市伏見区の伏見稲荷大社は、かなり昔に移転していて、元は今の東山の今熊野観音寺や泉涌寺の土地のあたりにあったというのは本当ですか?

現在の伏見稲荷の土地が、藤森神社の土地にあって、藤森神社のお祭りで、その土地を稲荷さんに奪われたことを遠まわしに何か掛け声のようなものを、氏子が言っているというのは、ありますか?

かなり前に、伏見稲荷の境内でガイドさんか研究会サークルか何かの人がそのことを何人かの人に講釈しているのを偶然に聞いてから気になっています。

ベストアンサーに選ばれた、といっても、寄せられた答えはこれだけなんですが。

元は今の東山の今熊野観音寺や泉涌寺の土地のあたりにあったなんて話は聞いたことがありません

藤森さんに行って 藁ひと束の土地をかして と言うので いいよと言ったら 藁を横に伸ばして多くの土地をその社にした いまでも藤森さんのお祭りで 御輿が いなり土地返せ というと 神主がでて 今稲荷は不在です といって 手みやげを持たせたというのは 本当みたいよ

ちなみに稲荷の氏子は東寺さん近辺 東寺さんが建つ時稲荷の木を無断で使って かなわんなぁ といったら かわりに東寺周辺を氏子にして といったとか だから稲荷の御輿が東寺前に行くと 坊さんが出てきて 挨拶するとか

また 東寺南門は三十三間堂から 800円(?)でもらったとか 都市伝説ですわ

何が面白いかと言えば、元は今の東山の今熊野観音寺や泉涌寺の土地のあたりにあったなんて話は聞いたことがありません、と言いつつ奇妙な言い伝えを紹介しているのです。

藤森さんに行って 藁ひと束の土地をかして と言うので いいよと言ったら 藁を横に伸ばして多くの土地をその社にした。

これに似た話は、カルタゴの始まりの物語
として伝わっています。

ディードーは、幼名はエリッサといい、
フェニキアの都市国家テュロスの国王の娘でした。

ティロス(あるいはテュルス)は、レバノンの南西部、地中海に面する都市で、今は遺跡になっています。

父の弟でメルカルトの神官をしていたシュカイオスと結ばれ、メルカルトの巫女として仕えていました。

メルカルトはティルスの主神で、冥府の王にして、植物の生長サイクルを司る者であり、狩人でもありました。

父は死去の際の遺言で、彼女と兄のピュグマリオーンが共同で国を治める様に告げます。

ところが、兄は王位の独占と叔父の財産目当てに遺言に違えてシュカイオスを暗殺し、ディードーの命をも狙います。

彼女は、全てを捨てて航海に出ます。

心ある家臣たちとともに旅立った彼女は、途中でキプロス島で豊饒の女神アスタルテーに仕える神官と神殿に献上される予定であった乙女達を受け入れます。

ディードーの一行は、現在の北アフリカ・チュニジアの地に辿り着き、彼女は、この地の王であるイアルバースに土地の分与を申し入れます。

イアルバースは、1頭の牝牛の皮が覆えるだけの土地であれば分与しても良いと応えました。

そこで彼女は牝牛1頭分の皮を細かく引き裂いて土地を取り囲み、砦を築くだけの土地を得ます。

この地が、後のカルタゴとなったのです。

古代ギリシアの歴史家ティーマイオスによれば、これを見たイアルバースは彼女の才能に惚れて求婚しました。

だが、亡き夫の死の際に決して再婚しないと誓っていた彼女はこれを拒んで火葬の炎の中に飛び込んで自らの命を絶ったといいます。

 藁ひと束の土地と1頭の牝牛の皮が覆えるだけの土地という、違いはあっても、確かに似てますね。

 カルタゴを建国したのはフェニキア人であり。古代イスラエルも、版図に入っていたでしょ。

 偶然じゃないですよね。

伏見と言えば、yahoo知恵袋でこんな問答もありました。

簡潔によくまとまってるので、紹介します。

伏見稲荷大社と景教は関連があるのですか??

伏見稲荷を創建した秦氏は、キリスト教徒だったと考えられます。

但し、俗に「景教徒」だったと言われますが、秦氏は景教=ネストリウス派が異端としてローマ帝国を追放された頃には秦氏は既に日本に渡来しているので、実際は景教より古いエルサレムのユダヤ人教会の末裔であると思われます。

しかし、後に伏見稲荷社は空海と深く結び付いていくことになります。

空海が訪れた頃の唐では景教が盛んで、空海もその影響を受けたと言われています。

(真言宗の儀式にはキリスト教に似たものがあるらしいです。一説では、空海は漢訳の聖書を持ち帰ったとも。)

実は空海(及び最澄)の入唐のバックには秦氏が深く関わっており、空海自身も母方が秦氏の出であったと言われます。

彼らを率いた遣唐使の藤原葛野麻呂は秦氏と深い関係にありました。

空海が帰国後伏見稲荷と結び付いたように、最澄は日吉神社と結び付きますが、ここも秦氏ゆかりの神社でした。

二人は新しく造営されたばかりの平安京を拠点に活動してゆきますが、平安京は、秦氏の発案により、秦氏の資金と秦氏の技術をもって、秦氏が本拠地としていた土地に建てられた都市でした。

その名「平安京」は「エルサレム」の直訳です。

ユダヤ人教会=秦氏=伏見稲荷=平安京=空海=景教 というラインには何らかのつながりが見られますね。

なお、「稲荷」の名は、十字架に架けられたイエスの罪状書き「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」の、ラテン語表記「Iesvs Nazarenvs Rex Ieudaeorvm」の頭文字「INRI」に由来していると思われます。

聖書によれば罪状書きはヘブライ語、ギリシア語、ラテン語の三言語で並記されていましたが、ヘブライ語では「Yeshua Haーnotzri Weーmelech Haーyehudeem」となり、「INRI」は「YHWH」に変換されます。

これは言うまでもなくイスラエルの唯一神にしてキリスト教の「父なる神」である「ヤハウェ」を表す「聖四文字」です。

ここにも何かからくりがありそうです。

回答者は藤原葛野麻呂は秦氏と深い関係というけれど、藤原氏自体も秦氏の一族だという情報があると指摘する人もいます。

 稲荷の語源に、「INRI」説があるのは、前から知ってるけど…。

 稲荷に関係した伝承のあるとみられる東寺と藤森神社を結ぶ線と、稲荷山と元稲荷古墳を結ぶ線でできる十文字の交点の傍に、伏見稲荷があるように見える…。

ちょっと西にかしいでいるけど、そう見えますね。

 古墳の名前は、埋葬者が分かってないので、地名が付くはずでしょ。

 元稲荷古墳の名前も、この地が元稲荷と呼ばれてなければ、つかないはずでしょ。

そうですねえ。

 なぜ、伏見稲荷に限らず稲荷の赤い鳥居は、トンネルのようにいくつも並ぶのでしょう。

 私たちを清める、イエスの血の象徴だったりして…。

聖書には、悔い改めた者はイエスの血で清められるとありますね。

 伏見とは、十字架を荷うイエスとともに、不死身をもさした…。

 イエスの担いだのは、T十字の横棒だけだったのでしょ。

稲荷山と元稲荷古墳を結ぶ線は、担がれたと言わんばかりに傾いてますね。

しかも、陰陽でいう、生の方位の東から死の方位の西へと向かっているかのように。

 話が出来過ぎて、当惑しちゃいそう…。

元出雲を名乗る出雲大明神は京都府亀岡市で出雲大社の島根県とは離れているけど、元稲荷古墳は目と鼻の先と言って良い位に伏見稲荷と近いですからね。

 元稲荷、思わせぶりですよ。

 まさか、元稲荷は旧約聖書の「YHWH」、つまり、ヤハウエを指しているなんてことは。

畿内に邪馬台国があったとすれば、さらにヤマタイが、ヤマトの転訛だったとすれば、面白いことになりますよ。

日本語でヤマトと言えば、イスラエル人にはヘブル語で「ヤハウエの民」に聞こえてしまうそうです。

実際の発音はヤマトゥだそうだけど、ヤマタイと似てるでしょ。

 しかも、古代日本語は二重母音、つまり、ワ行母音だったから、ヤマトゥとヤマタイは、さらに音は近くなりそうですねえ。

君が代はヘブル語で解釈できると言って、ヘブル語で歌ってくれた讃美歌の歌い手がいましたよ。

旧仮名遣いの君が代を、聞いているような気分になりましたね。

違和感がなかったです。

 そして、卑弥呼や臺與の時代は、西日本はアイヌと起源を共有する琉球人の時代でしょ。

 臺與には、壱与と呼ぶという説も出てるけど。

 アイヌには生活文物に古代イスラエルと似ていると指摘があるし、アイヌと琉球人のYAPプラスも本土に多いYAPマイナスも古代中東の遺伝子でしょ。

元稲荷古墳といえば、こんな記事がありますね。

卑弥呼“後継者”の墓に酷似 京都の元稲荷古墳
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120215/art12021521250007-n1.htm
2012.2.15 21:24 [歴史・考古学] MSN産経ニュース

 京都府向日市の元稲荷古墳(3世紀後半、全長約92メートル)が、邪馬台国の女王・卑弥呼の後継者、壱与(いよ)(台与)の墓説がある奈良県天理市の西殿塚古墳(3世紀後半、全長約230メートル)の2.5分の1の相似形で造営されたことが分かり、向日市埋蔵文化センターが15日、発表した。

 西殿塚古墳と酷似する古墳が確認されたのは、これまでに大阪府柏原市の玉手山古墳群以外ないという。

同センターは「相似形で造営するのは、大和の大王家と密接でなければ技術的に無理。被葬者が地域の有力者だったことが裏付けられる」としている。

 元稲荷古墳は国内最古級の前方後方墳。

昨年12月から前方部付近の約130平方メートルを発掘調査した結果、直線的に伸びる前方部(長さ約42メートル)の形が前方後円墳の大王墓とされる西殿塚古墳の前方部と酷似し、2.5分の1サイズと分かった。

 また、前方部と後方(円)部の長さの比率が、卑弥呼の墓ともされる奈良県桜井市の前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳(全長約280メートル)とほぼ同じだった。

センターは「箸墓、西殿塚両古墳の造営方法が影響したのだろう」としている。

現地説明会は18日午前11時から。

元稲荷古墳の埋葬者が何者なのか、気になります。

 楽しみな展開になりそう。

確かに。

|

« 日本の極東外交を考えてみた。 | トップページ | 素粒子の先はあるか。 »

歴史」カテゴリの記事

聖書・コーラン」カテゴリの記事

仏教」カテゴリの記事

イスラエル・ユダヤ」カテゴリの記事

中国」カテゴリの記事

陰陽・弁証法」カテゴリの記事

コメント

「邪馬台国」は、「魏」がライバル「呉」への牽制の為に、古文書「魏志倭人伝」に作り上げた架空の国。朝鮮半島から九州北部までの上陸行程は具体的だが、それ以降が曖昧な理由は、「呉」の背後の海上に無理矢理書面上で引っ張ってきたことによる。ちなみに、もう一つのライバル「蜀」の背後には「大月氏国」があり、「魏」は、「大月氏国」「邪馬台国」双方に金印を授けている。「邪馬台国」があるとしたら、「魏志倭人伝」の作成時期(三世紀頃)に日本列島で隆盛した大和地方に存在したものだろう。

投稿: Hinode | 2013年4月28日 (日) 15時43分

わたしは、邪馬台国は大和地方の辺りに拠点を置いた西日本国家連合であったと見ています。

日本に、中国人の耳に邪馬台(ヤマタイ)と聞こえた名前の国があったことだけは、確かでしょう。

それが、ヤハウエの民を指すヤマトゥに近い音であったなら、面白いことになります。

大月氏国にも、ユダヤ人キリスト教徒説の出る秦氏が絡んでくると指摘されるのです。

魏は、大月氏国と邪馬台国の双方に金印を授けている。

つまり、ユダヤ人がらみの二つの国に魏は金印を授けたことになります。

投稿: cova | 2013年4月28日 (日) 17時15分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 稲荷と邪馬台国?:

« 日本の極東外交を考えてみた。 | トップページ | 素粒子の先はあるか。 »