輿と腰?
新共同訳で「神の宮」と訳される箇所は、口語訳では「幕屋」「神の家」「神々の家」に当たります。
そして、口語訳で「神の宮」と訳される箇所は、新共同訳では「神殿」に当たります。
つまり、同じ日本語の聖書を使っても、意味は微妙に食い違う場合があるのです。
でも、幕屋が神殿に作り替えられる事を思えば、大きな矛盾はない。
そこで、両者が会話をしてもそれほど意見は食い違うことはないことになるでしょうね。
ここで気になるのは、聖書には人の体は生ける「神の宮」であり「神殿」であるとする記述があることです。
コリント人への、あるいは、コリントの信徒への、第一の手紙の3章16節17節や第二の手紙の6章16節に、この言葉はあります。
短いので口語訳と新共同訳の全文紹介しますね。
コリント人への第一の手紙 3章 16節 口語訳
あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
コリントの信徒への手紙一 3章 16節 新共同訳
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
コリント人への第一の手紙 3章 17節 口語訳
もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。
コリントの信徒への手紙一 3章 17節 新共同訳
神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
コリント人への第二の手紙 6章 16節 口語訳
神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。
コリントの信徒への手紙二 6章 16節 新共同訳
口語訳を見る
神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
神の宮は、神殿として固定される前は、移動する幕屋でした。
幕屋の移動は、聖なる箱であるアークの移動でもありましたね。
言い換えれば、アークの移動が幕屋の移動でした。
アークを据えるところが、幕屋を営むところだったのです。
アークは、日本の神輿とよく似ているのですよね。
二本の棒で担がれる羽の付いた飾りの乗った金で覆われた箱、と言えば、アークと神輿、双方の説明になってしまいます。
神輿は、外国人には携帯神社と説明されるのですよね。
神輿は据えれば神社になり、神社は携帯すれば神輿になります。
神社は、基本的には、地面の上に据えてあるだけなのです。
面白いことに、腰を据える、という言葉がありますね。
腰を据えるとは、腰を下げて構える、あるいは、腰の重心を低くする姿勢の事です。
転じて、腰を落ち着けることを指すようになり、いろいろな意味を持つようになりました。
落ち着いて事に当たる。
ある場所に落ち着く。
そして、神輿を据える、にはこういう意味があります。
ゆったりと落ち着いて動じないこと。
まさに、ある場所に落ち着いて事に当たる、状態を指しますね。
神輿を据えれば神社になり、そこで神事を行うわけだから、なすべきことが済むまで動くわけにはいかないでしょ。
神輿を据えるという言葉は、今でこそ皮肉を込めて使われているけれども、人を神輿に例えるのは、考えてみたら面白いですね。
神輿は古代イスラエルのアークにそっくりであり、聖書は人の体を神の宮といい、日本人も体を神輿に例えていますからね。
輿(koshi)と腰(koshi)、同じ音なのも、意味があるのでしょうね。
腰は体を支える要だから、肉の変形となった肉月と要を組み合わせた文字なのです。
輿もまた、体をのせて支えるでしょ。
さらに、体には四肢があり、輿も二本棒がまるで四肢のように前後に伸びているでしょ。
だから、輿(koshi)と腰(koshi)は、同音異義語…。
聖書は人々に、神の似姿として生まれたのは心身ともに神に近づいて欲しいと言うメッセージを伝えています。
日本人は、尊敬した人や、祟りを恐れる人を、死後、神として祀ります。
優れた人に敬意をこめて、神に準えることもありますね。
例えられた本人が、傲慢になったり驕り高ぶったり、してはいけないですけどね。
日本人の発想にも、体を神の宮として考える思想があったのかしら。
聖書は神の宮を清く保つように説き、日本人が入浴が好きというのも、そう思ってみると奇妙な気分ですね。
神輿は神が乗られるでしょ。
聖書にはアロンの杖があり、神輿の前には杖をつく人がいる。
これも偶然では片づけられない、何かがありますね。
アークには二枚の十戒石板がのり、神輿に鏡が付くけど、これって意味があるのですか。
二枚の十戒石板は、合わせ鏡の比喩という人もいますよ。
鏡は姿見として、もともとは二枚一組の合わせ鏡でした。
後ろ姿も確かめる必要があったから。
じゃあ、神輿の鏡は、十戒石板の象徴…。
そう見る人もいるでしょうね。
だったら、幕末頃新たに加わった、樽神輿は、マナの壺?
食べ物繋がりで…。
壺は重いし割れやすいけど、樽は壺よりは軽いし割れにくいから…。
酒(しゅ)は主(しゅ)に通じ、さらに三酉は三柱の神の三鳥居とか。
そう見ても、面白いですね。
でも、輿(koshi)と腰(koshi)、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮って…。
その意味は、想像してみてくださいな。
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