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2013年5月

情報はすべて神のように大事か。

生活保護の不正受給は、悪いことだからすぐにニュースとなるでしょ。

 必要でありながら却下された人の話は、餓死でもしない限りニュースにまずならない。

だが必要で困っている人や生活保護基準以下でありながら、受けられていない人たちの苦労があまりに語られなさすぎると思いませんか。

 もっとメディアは、ちゃんと取材して伝えるべきではないかしら。

ニュースってのは、よほど重大か、イヌが人に噛まれたかしないと、まず報じられないでしょ。

 不正受給がニュースになるのは、犬が人に噛まれた程度のレアケースだから。

言い換えれば不正受給が蔓延していたら、本当に必要な人が受けられたらニュースになるってことはないでしょうか。

 生活保護で助かっている大半は、ニュースにならないですねえ。

交通事故や、公共交通の人身事故の報道も、似たようなものです。

 複数あっても、大半は報じられない。

交通事故であれば、大規模であれば報じられるが、通常の事故の大半は、おそらく報じられていないでしょ。

犠牲者が大勢であるか、飲酒やよそ見、車体の整備不良など、明らかに問題なケースがニュースになるのではないでしょうか。

 即死か、後遺症が残ることが多い事故で、小さな怪我程度で助かっても、大半は報じられないですね。

報道になるのは、よほどの大事故で助かった、つまり、絵になる現場が存在する場合なのでしょうね。

大事故の場合、レアケースで、かつ、周辺の交通などに明らかに支障が出るから、ニュースになるでしょ。

 ニュースとは、結局こういうものだと知ったうえで、判断材料にしないといけない。

身近に、良いことをしてる人はいっぱいいるはずだが、よほど目立つ行為でなければ、大半は報じられないですよね。

地域の伝統的な、儀式や行事でも、大半がローカルメディア止まりであり、よほど有名か珍しくなければ、広域に報じられることはないでしょ。

伝統的な、儀式や行事は、非日常、つまりレアケースであることと、季節の変わり目を実感できるうえに、共有できるから、それなりにニュースになるでしょうけど。

ニュースに接した場合、これは何故報じられたか、重大だからか、それとも、非日常的であるかレアケースだからか、とっさに判断しないと、判断を誤るのではないでしょうか。

 取捨選択の判断はメディアによるので、レアなだけで小さなことがニュースになる。

レアでない、他に比べて優先順位が低いと判断された場合、当人たちにとっていかに重大であろうと、無視されることも起こり得るのが報道なのだと、知って付き合う必要があるでしょうね。

そうでないと、報道にミスリードされる危険性が常に付きまとっていることを、気を付けておいた方が良いでしょう。

メデイアの情報は、利用しても良いが、どれが本当に自分にとって大事な情報なのか、とっさに見分けられないと、膨大なニュースに振り回されてしまうでしょうね。

聖書は神を見失うなと警告するが、本当に目を向け、耳を傾けるべき情報こそ、正しく導いてくれる声だとしたら、神を本当に大事な情報と置き換え、こう言っても良いかもしれないです。

 本当に大事な情報を見失うな。

 聖書を神の話ばかりと思わず、神を様々に言い換えれば、多くの教訓が詰まっている書だと、思った方が良い。

だから、こんなに何年も何十年も何百年もたっても、読み継がれるのでしょうね。

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聖書はどう読む?

フランダースの犬の主人公、ネロに対し、多くのヨーロッパ人は負け犬のレッテルを貼るそうです。

 でも、ちょっとまって、アロアについては、どう思ってるわけでしょう。

 アロアは、ネロがどういう人か知ってる。

 ネロに対して、弁護できる立場の人だったのでは。

確かに、アロアはネロがどういう人か知ってるし、誤解であることも知っていたはずですね。

では、あなたがアロアの立場なら、ネロを弁護したでしょうか。

 アロアは子どもだから、こういう問題に口を出しても、もともに取り合ってもらえないかも。

 それに、ネロが好きだからネロを庇いたいだけと思われるのが、関の山…。

アロアは発言しようにも、様々な理由を付けて制されてしまうでしょうね。

 アロアは子どもだし、ネロのような生活の糧もない。

 それにあったとしても、ネロのように干されてしまったなら、どうやって暮らしますか。

ネロが誤解を解こうとして、行動を起こしたら味方をするかと、いうことになりますね。

 大人であっても、いや、むしろ大人であればなおさら、守るべき立場も家族もあるから、干されるわけにはいかない…。

ネロを負け犬と言うけれど、ネロが行動を起こしても、誰も聞こうとしなければ、ネロの思いは空回りするだけでしょ。

 ネロに対する誤解を解く、協力者が出てこないといけない。

では、ネロはどうしたら協力者が得られたでしょう。

 ネロがどういう人物か、人々が思い起こさないといけませんね。

それには、きっかけが要るでしょ。

 ネロは、お金を拾って、持ち主にパトラッシュに届けさせますね。

パトラッシュだけでも、助かって欲しかったわけでしょ。

 でも、パトラッシュは、ネロを選んだ….

このお金のことで、ネロに対する誤解が解け、人々はネロを探し始めるのでしたね。

 ネロが一切、人々に対して愚痴も妬みも恨みも言わず、以前と変わらずやさしく穏やかなままであったことも、人々の心に引っかかっていたでしょうね。

訳もわからないまま、突然人々の態度が変わってしまったのに、理由も聞かないし、責めようともしない、反発しようともしないですからね。

 心当たりがあれば、取れない態度…。

それもあるけど、ネロの心の底からの優しさでしょうね。

 この優しさは、どこかイエスに通じる…。

ネロを負け犬と言うなら、ネロが助けを求めて行動したなら、自分たちは助けたはずと言いたいのでしょうか。

 アントワープの人たち、ベルギーの人たちは、自分たちはネロを助けなかった作中の人物のような薄情ものじゃないと反発してますね。

自分たちはもっと、愛があると言いたいのでしょうね。

 自分たちはもっと、弱者を大事にすると…。

でも、ネロを弱者と評価する点では、ヨーロッパの他の地域の人たちと大差ないでしょ。

 そういえば…。

 イエスは、自分を迫害した人々を責めるどころか、何をしているかわからないでいる彼らを許してくださいと、天の神である御父に祈ってますね。

 ネロは、祈ってこそいないが、許しているし、今までと同じように愛し続けている。

 ネロはその点では、キリスト教の聖人たちや、模範となったイエスに近いですね。

 ネロとイエスの類似に気づけていない点では大差ない…。

フランダースの犬の話が好きなのは、日本とアメリカぐらいでしょうね。

 でも、アメリカはネロが死なない方がハッピーエンドだと思っている。

日本人だって、ネロが死んでも良いと思っているわけではないでしょうね。

 だが、ネロが死に際してさえも、愛の気持ちを忘れず、優しさを貫いて短い生涯を閉じた、その生き様の方に感動している。

 純粋に愛を貫いて、死んだ点ではイエスや、聖人を連想できますね。

そうですね。

 愛を貫いて死んだ点では、ロミオとジュリエットも似てませんか。

 でも、多くの人は、この愛の物語に涙しますね。

悲恋物は、多くの人の気持ちを引き付けるのは確かでしょう。

だが、何に感動して涙を流しているかとなると、どうでしょうね。

 ヨーロッパ人は、二人が両家の不仲を嘆きながらも、逢瀬を重ね、必死になって活路を見出そうとしながらも不幸な行き違いによって死んでしまうことに、涙を流すのでしょうね。

そこは、日本人も変わらないでしょうね。

 日本人の感性に訴える壺は、他にある…。

 純愛だから…。

むしろ、日本人はそちらの方に惹かれているのではないでしょうか。

 ヨーロッパは、二人の一途さの方に惹かれしかも純愛であることに感動する。

 日本は、二人の純愛に惹かれしかも一途であることに感動する。

 日本人の、心を引き付ける壺は、純粋さにある。

どうでしょうか。

 幼子のように神を愛するように、イエスは説きますね。

 幼子の愛は、純粋である…。

 日本の方が、キリスト教的ということ…でしょうか。

ドラえもんで、日本人はのび太も受け入れているでしょ。

 欧米では、むしろ、自己主張のあるジャイアンやスネオの方が人気はあると聞きますね。

 のび太は、ドラえもんに頼りっぱなしで、情けなさすぎるからとあまり人気がないとか。

聖書を見てくださいな。

神を頼りっぱなしで、しかも、頼ったと思うとすぐにどうしょうもなくなって、神にたしなめられて居る民族として、イスラエルやユダは描かれていませんか。

 そういえば…。

 新約でも、後に十二使徒となる人達も、イエス存命中の間は、けっこう何度もイエスに頼っているし、イエスにもっと信仰を強めるようにたしなめられて居ますね。

 のび太と、イスラエルやユダ、イエス被昇天前の十二使徒は、どこか印象が重なりますね。

 日本人は、のび太や、イスラエルやユダ、イエス被昇天前の十二使徒に、自分を重ね合わせて見ている…。

イエスは、人々に自分のようになって欲しいと、求めているでしょ。

 この辺りに、どのようにしたら良いかのヒントが隠れているのかしら。

どうなのでしょうね。

 少なくとも、日本人の感性は妙に聖書的だとは感じますね。

 欧米人的な感性で布教されてきたから、日本人に聖書やキリスト教は広まらなかったのかしら。

ユダヤ教も、キリスト教も、イスラムも、皆、モンゴロイドであるセムの宗教ですよ。

 そして日本人も、モンゴロイド、つまり、セム。

日本で布教したければ、もっと日本の感性にあった説明をした方が良い事だけは、確かかも知れないですね。

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臭い物に蓋して良いか?

臭い物に蓋をする、と言う諺があります。

もともとは、悪い事や悪い物を隠してしまうこと、と言う意味とされています。

一般には、このように解釈されています。

失敗や醜聞・悪事などが外部に洩れないように、安易で、しかも一時凌ぎの手段を取ること。

だが、この用法は本来は例えとして用いられていたのではないでしょうか。

臭い物とは、具体的にはどのような物でしょう。

 臭さとは、基本的には、腐敗物などの匂いに感じる、危険性のシグナルですね。

 そこで、引火性の強いガスが無臭だった場合などは、わざと臭いと感じる物質を混ぜるでしょ。

つまり、臭い物に蓋をする行為は、本来は合理的な理由のある正しい行動だったわけですね。

 だから、わざと目立つような塞ぎ方をしたはずですね。

 もちろん、念入りに塞いで匂いが漏れないようにしたわけですね。

有害であったり、少なくとも、不快であったり、しますからね。

 漏れたら都合が悪いから、蓋をして封じ込めることが、本来の意味だった。

この、漏れたら都合の悪いことのシグナルが、臭さだったわけですね。

 臭さはやがて、さまざまな例えにも使われるようになるわけですね。

腐敗が、堕落した状態の例えとして用いられていくうちに同義語となり、臭さも疑惑の同義語の意味を持つことになるわけですね。

 そこで、堕落した人が発覚を恐れて疑惑を隠蔽する行為の隠語としても、臭い物に蓋をする、と言う言葉が使われるようになる。

そしてまた、不快なことも都合悪いことであることから、出来れば見たくないということで、ここにも使われるようになるわけですね。

 不安もまた、不快だから、臭い物にいつの間にか入れられて蓋をする対象になってしまった。

でも、それは本来やってはいけないことでしょ。

臭い物に蓋をすること自体は、不安を直視した結果行った行為なので、むしろ目立つようにして、近づかないようにし、蓋を外さないように徹底したはずなのです。

 ところが、危ないから近づくなとやっているうちに、何故近づいてはいけないか忘れられ、都合の悪いことから遠ざける意味となっていった。

 さらに、目を反らす、誤魔化す、意味に転訛していった。

臭いものに蓋をしたのは、それしか対処法がなかった時代にはやむを得ない処置だったが、知識も深まり、技術も進歩した現在、臭い物はその物自体を無害化するように考えるべきでしょうね。

 無害化できる技術の、開発のできていない物、開発の目途が立たない物は、用いるべきではない。

臭い物は無害化するか、無害化の目途が立つまで使わないことを、新たな常識にすべきでしょうね。

 臭い物から目をそむけなかった、本来の対処法に立ち返るべし。

そういうことでしょうね。

そしてまた、臭いものに蓋とは、危険なことをするなと言う戒めでもあったはずでしょ。

 危機管理のために、絶対触れてはいけない場所を封印することであり、絶対してはいけない行為を封印することでもあった。

その意味では「君子危うきに近寄らず」と「臭いものに蓋」は類似した諺でもあったでしょうね。

 悪い意味に転化してしまった以上、「臭いものに蓋をするな」と言い換える必要があるかも知れない。

本来の意味にこだわる人からは、誤用を指摘されるかもしれないけれど、意味が変わってしまった以上は、今の新しい用法に言い回しも変える方が好ましいかもしれないですね。

追記

日常生活では、臭いものに蓋は今でも有効と言う声があるかも知れないが、今日では臭いからと言うより、臭くなる前に、あるいは、臭くしないために、速やかに封印し処理や処分をすると言った方が良いかもしれません。

これは、もちろん、通常の廃棄物の話ですから、念のため。

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まな板とイエス?

まな板は、俎、俎板、真魚板って書くでしょ。

「俎」という漢字は、偏が「肉」を、旁が「台」を示す字であり、やはり肉を調理する台という意味を持つというけど、古代中国の祭器の一で生贄(いけにえ)の肉をのせる脚つきの木製の台のことでもあります。

 俎というのは、もともと、生贄の肉の台だったから、神前で魚を捧げる儀式のまな板は脚付なわけですか。

そうなりますね。

 生贄、つまり、犠牲として魚を奉げると言うと…。

 魚は、イエスの象徴ですよね。

 イエスは、しばしば、漁師を引き合いに出しているでしょ。

それを言えば、ギリシャ語で魚を意味するイクトゥス(ichthys ichtus、ΙΧΘΥΣ)は、同時にΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ(ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救世主)の頭文字を並べたものでもあるでしょ。

 さらに、イエスは木に磔になったとあるでしょ。

 魚は磔でこそないけど、木の上で犠牲として奉げられている。

これって、日本の神社には十字架こそないが、形を変えて祀られていると言いたいのですか。

面白いことに、籠神社にあった真名の壺は今、伊勢の神宮にあるはずですよ。

 真名の壺は、仮に当て字だったなら、真魚の壺と書いても良いことになるのでは。

同じ名前の神器であるマナの壺も、真魚の壺と書いても良いと言うのですか。

マナの壺は、御子であるイエスの象徴であると。

それを言ったら、アロンの杖や十戒石も、聖霊や御父の象徴となりませんか。

 御子は、生命の樹では、慈悲の柱に対応するのでしたよね。

 そして、御父は均衡の柱、聖霊は峻厳の柱でしょ。

 なら、これで良いのでは。

 マナの壺→御子→慈悲

 十戒石版→御父→均衡

 アロンの杖→聖霊→峻厳

日本にも、三種の神器はありますよ。

 八尺瓊勾玉(やさかのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)でしょ。

 草薙の剣は、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、あまのむらくものつるぎ)とも呼ばれる。

古代イスラエルの三種の神器と、対応させる議論がありますよ。

 これですね。

 マナの壺→八尺瓊勾玉

 十戒石版→八咫鏡

 アロンの杖→草薙の剣

それを言ったら、大変なことになりますよ、

古代出雲には、玉藻鎮石(たまもしづし)、真種之甘美鏡(またねのうましかがみ)、押羽振(おしはふり)と言う三種の神器があったが、八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙の剣の事ではないかと言う声もあるのですよ。

今までのまとめてみましょうか。

マナの壺→玉藻鎮石→八尺瓊勾玉→御子→慈悲

十戒石版→真種之甘美鏡→八咫鏡→御父→均衡

アロンの杖→押羽振→草薙の剣→聖霊→峻厳

こう言ってるのと、同じですよ。

 日本には、古代イスラエルの三種の神器が来ているということでしょ。

それだけじゃないですよ。

天孫一族である神武が来る以前の、縄文時代に古代イスラエルの三種の神器が来ていることになりませんか。

 神武が来たとしたら弥生時代だから…。

神武以前としたら、徐福か、環太平洋縄文文化圏を通じてアメリカ経由で日本に来たと言ってることになるでしょ。

 アイヌの生活文物は古代イスラエルに類似してるばかりか、古代中東に遡るYAP遺伝子のプラスまであるからといって、そこまで言って良いのかと。

問題は、証拠を見つけられるのかということですよ。

 古代アメリカ史まで、巻き込むから。

当然でしょ。

さらには、古代地中海の歴史まで見直すことになるわけだから…。

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本当に流動性が必要なのは、どっちか?

うちは経済状況は悪くない、将来性があると言えない業種や企業は、転職転業のハードルが下がった社会では淘汰されやすくなるでしょうね。

説得力を持って夢や展望、いかに社会貢献してるかを語れる企業や業種が生き残るでしょうね。

そういう企業や業種が、面白い商品やサービスや技術を生み出せるでしょうね。

 今の日本、そういう企業や業種は、どれだけあるのでしょうね。

説得力を持って夢や展望、いかに社会貢献してるかを語れる企業が少ない、転職転業支援システム未成熟、こんな日本で解雇規制緩和すれば、社会保障費用ばかり膨れ上がって増税圧力になるでしょうね。

社会保障費削れば、医療や治安の費用が膨れ上がり増税圧力になるでしょうね。

 社会保障はそもそも、治安の必要から始まったはずですよね。

雇用を流動化したければ、転職や転業支援のシステムを民間活力も使いながら充実させるでしょうね。

中途採用でも不利にならない賃金体系に移行するでしょうね。

転職転業のハードルが下がれば、先細りになりそうな業種や企業から脱出組はごそごそ出るかも知れないですよ。

 逆にうちは将来展望があるとアッピール出来ない業種や企業が、淘汰されるかもしれませんね。

残業当たり前の日本で、定時帰宅促進すると賃下げになるでしょうね。

 一企業にとっては人件費圧縮だが、みんながやると市場収縮になるでしょうね。

政治主導で最賃引き上げと解雇規制すれば、労働生産性向上に成功した企業から収益率アップが始まるでしょうね。

 個々の企業や業種にあった方法の模索を支援するビジネスも、興るかも。

日本は、このままほうっておいたら人口減少に歯止めがかからない国になるでしょう。

つまり、今要るのは転職転業支援システムの早急な充実で、淘汰されるべき企業や業種を炙りだし易い環境を作り、人材の有効活用を図ることではないですか。

再就職や再就業のあてがない失業者を巷に溢れされ、賃下げ圧力にすることじゃないのでは。

 でも、働き方も、変わる必要あるかも。

真面目が悪いわけじゃないが、やみくもな精神論でははっきり言って人間らしい働き方とは言えないでしょうね。

 少なくとも、現代の働き方ではない。

頑張るだけなら、牛や馬でもできるし、牛や馬だって、少しは要領よくやろうとするのではないでしょうか。

天才とは1%のひらめきと99%の汗というが、報いられる努力は適切な気付きと指針があってこそではないでしょうか。

 くそ真面目にやるだけなら、機械化すればよい。

極端に言えば、そうなるでしょうね。

 ひらめきと創意工夫や柔軟性があってこそ、人がやる価値があるわけでしょうね。

今の日本、思い切った発想の転換が要るのかも知れないですね。

 いつだって、時代に合わせて変わらないといけないのは同じでしょ。

そうでしたね。

問題は、いつ、どういう方向に、どうやって変わるかですね。

 それが出来ないと、未来は見えない。

そうなのでしょうけどねえ。

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行政と民主主義について想ってみた。

助けられたり手伝ってもらったり助言や贈り物を貰えば、お礼をするでしょ。

言葉であったり、物であったり、行為であったりするでしょ。

お礼をお金で返せば、ビジネスとなるのではないでしょうか。

だとすれば金払ったから客だとふんぞり返ったり、売り手も妙に卑屈になる必要は、本来ないはずでなないでしょうか。

今の日本、そこがおかしくなってないでしょうか。

保育や介護は、基本的には手助けではないのでしょうか。

だとすれば、受け手の笑顔のない手助けは余計なお世話、かえって迷惑、むしろ邪魔、違うでしょうか。

やってやるから金払え式のものを行政サービスと勘違いしてなら、はっきり言ってアホ、違うでしょうか。

笑顔が欲しいから助ける。

笑顔になれたら素直に礼を言う。

行政なら税を払うことでないでしょうか、

行政サービスを施しと、勘違いしてる人がいるのではないでしょうか。

サービスは、本来、奉仕ってこと、召使の仕事ではないでしょうか。

だから公務員は公僕と呼ばれるのでは、ないでしょうか。

鋸が大工に使わせてやると、ふんぞり返るでしょうか。

鋸は上手に手入れして使いこなす必要はあっても、大工に指示することはないでしょう。

国民や住民の奉仕者でないと、公僕とは言えないのではないでしょうか。

大きい政府だの小さい政府だの、アホらしいのではないでしょうか。

国民や住民に使い勝手が良く、効率的であるかどうかを、基準にした方が良いのでないでしょうか。

道具箱に、要るもの入ってるか、余計なものや遣い勝手悪いものはないか、点検するでしょ。

行政に何を求め、求めないか、ちゃんと考えた方が良くないでしょうか。

行政はお上じゃない、議員は先生様じゃない、違うでしょうか。

ここがちゃんとわかってない有権者、あなたの周りにいないでしょうか。

ここをちゃんと理解して、有権者、主権者の自覚のある、国民や住民として考えて行動しないと、この国はほんとの民主主義国家にならないではないでしょうか。

どんなもんでしょう。

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改めて女媧と伏羲を考えてみた。

伏羲と女媧が手に持つ物に、注目してみましょう。

 女媧がコンパス、伏羲が曲尺を持っています。

 向かって左がコンパスで女媧。

 向かって右が曲尺で伏羲。

陰の天、陽の地、つまり、円天方地を指しています。。

 前方後円墳は、 神前の儀式に用いた壺を模ったとするなら、丸いほうが下です。

 一般的には、大地は、母で女性です。

陰陽では、陰陽合一で太極となるように、組み合わされます。

そして、陰陽入れ子が無限に続くのです。

陰には陽、陽には陰が配され、太極となるのです。

相生と相克もまた、陰陽の原則です。

合一した陰陽は、常に相生相克の中で、ゆらぎ、移ろい、転化していきます。

天が御父であるからこそ陰が配され、地が母だからこそ陽が配され、合一して大極となるのです。

太極は、大いなる無=玄となり、存在や現象の森羅万象はこの玄から生じます。

無限陰陽入れ子は、科学や哲学では、世界の階層性として認識されています。

数学では、フラクタルが階層性を反映した理論となります。

 カッバーラは陰陽を理解しないと解けないのでしたね。

そして、陰陽合一や相生相克と、矛盾との差異を正しく捉えられないと詭弁に堕落します。

 陰陽では、円天方地でしたよね。

聖書に登場するマナの壺が天の代理の象徴たりえるのは、天の象徴たる円が地の位置にあるからです。

 そして、地の象徴たる方は天の位置にある。

つまり、マナの壺は天と地を繋ぐ階(きざはし)の象徴でもあるのです。

天皇は陛下、すなわち階の下に居られるお方。

天の神が地に降りてこられる代わりを、天皇は果たしておられる。

 これが、マナの壺を擬した前方後円のメッセージ。

陰に陽を、陽に陰を、一対になるように配して太極になるようにするのが陰陽の基本ですよ。

そしてまた、コンパスと曲尺はメーソンの象徴でもあります。

 メーソンの象徴は、こう見えますよ。

 コンパスは、円の外周を描いているだけでなく、中心を突き刺している。

 直角定規は、円の中心を突き刺していない。

 突くほうが男で陽なのでは?

 指金の90度は四角を意味し、天から降りてくるメルカバの象徴かもしれない。

 そしてコンパスは、三角を表す。

 四角と三角の合わせた形である、ピラミッドの形は、メルカバを象徴している。

通常なら、陽に上・前・右、陰に下・後・左ですよね。

にもかかわらず、天地と対応させると、陽に東・南(地)、陰に西・北(天)となります。

よって、円天方地では、円に対応するコンパスは陰の左に配される女媧(女)が、方に対応する曲尺は陽の右に配される伏羲(男)が、手にすることになるのでしょう。

興味深いことに、古代エジプトでは、天空神はヌウトやヌートとも表記される女神ヌト、大地神は男神ゲブ、ゲブとヌトは夫婦とされます。

ヘリオポリス神話では、大気の神シューと湿気の神テフヌトの子とされます。

大気神シューは天空神ヌトと大地神ゲブの間に割って入り、ヌトを支える形で示されます。

陰陽で天を女と同じく陰に地を男と同じく陽に配する事を思えば、生者の地を東に死者の地を西に配したことと合わせれば、古代エジプトは陰陽を知っていたと見た方が良くなります。

 コンパスは、円の中心を針が刺すではないですか。

たしかに、その通りです。

 円の中心を刺す構図は、ヨーニと常に対となって表現されるリンガと似てますね。

 まさに、女媧の正体を示唆しているのが、リンガとみえますね。

リンガは男神シヴァの象徴でありながら、常に女性の象徴であるヨーニと一体で表現されます。

 女媧は女性の姿で陰の位置である左に配されているが、正体は男だと暗示しているように思えますね。

そう見ると、女神天照の正体は男神天照国照彦であることに、似てきますね。

 これは、やがて再臨され陽となるイエスが天にお隠れ、つまり陰であることをも、示唆しているのでしょうか。

ややこしいですか。

陰陽の理屈は極めて単純です。

だが、理屈の基礎を理解していないと、ややこしく感じることでしょう。

 リンガは、あたかも大地から生えているように見えます。

そして、円天方地の天が陰で地が陽なので、陽である地のリンガのようにさえ見えます。

だが、リンガは女性の象徴であるヨーニと常に一体。

これは、地が実は陰の女性であると示唆していることになるでしょう。

だが、地が陰では霊の世界になってしまうので、受肉してはいるが堕落した我々に対応するために陰陽では陽を配して陰を封じているのかも知れません。

神の霊に満たされ包まれる来たるべき世界では、天は陽で地は陰となるのかも知れないです。

そのとき神の国に入れた人たちは霊の高み(陰)にいるので、地が陰であっても一向に差し支えないのかも。

 卍は曲尺をいくつ合わせたモノかな?

卍ですか。

曲尺四つでは?

シヴァは創造のブラフマーや維持のヴィシュヌと共に唯一神界を構成します。

つまり、シヴァは創造・維持・破壊の神と見てもよくなります。

 これは、イエスと似ているでしょ。

そこで、女媧=シヴァ=イエスと見ても面白いでしょうね。

さらに、伏羲にも、包犠や伏儀のような綴りもあるのです。

女媧と伏羲では、二人とも人頭蛇身で描かれることもあれば、伏羲は伏犧とも記されるように牛の頭で描かれることもあるのです。

 伏羲には、人頭蛇身のほかにも牛頭の姿もあるのですね。

 偏に現れる、牛や人に、暗示された意味がある。

神に奉げられる犠牲の代表が牛なので、偏は牛なのです。

儀で人に変わるのは、人が義とされるために儀式があることも、勿論、指します。

だが、人が義とされるための犠牲として自らを捧げた人の存在も、指しているのです。

 贖罪の仔羊と、しばしば言われるイエスの事ですね。

そこで、伏羲=イエスの構図も浮かび上がります。

 女媧=伏羲、そして、コンパスと曲尺となれば、メーソンの象徴。

ピポケパロスに描かれたエニシ・ゴ・オン・ドシは、実は、女媧と伏羲でもあるのです。

 ピポケパロスは、ピポケファロスとも呼ばれますね。

作られていたのはプトレマイオス王朝の頃です。

プトレマイオス王朝は、紀元前305年から紀元前30年まで、ギリシャ人によってほぼ300年の間がエジプトを統治された時代です。

ヒポケパロスはエリートのミイラの頭部の下に、おかれていたのです。

ヒポケパロスは、パピルス、しっくいの塗られた亜麻布、青銅、金、木、または粘土で造られた小さな円盤状の物で、古代エジプト人はこれを死者の頭の下に敷きました。

ヒポケパロスには、古代エジプトの文字であるヒエログリフで文章が書かれていました。

文章の目的は、死者の頭部の下で生気を与える象徴的な炎や輝きを発することでした。

ヒポケパロスの発する象徴的な炎や輝きで、ミイラの頭部や体が魔法のように包まれるようになることを、故人が神聖になると信じられていたのです。

ヒポケパロス自体は、ラーまたはホルス、すなわち太陽神の目を象徴しており、そこに描かれている場面は古代エジプト人の死後の生活と復活の概念を物語っています。

またヒポケパロスは太陽が空を巡る世界の象徴でもあり、上半円は人間世界を照らす真昼の空を、下半円は地下世界、すなわち死後の世界を覆う夜空を表しています。

そこを太陽が昇り沈みする様が、古代エジプト人に死と復活を連想させました。

ヒポケパロスはヨーロッパや中東、アメリカなどの幾つかの博物館で発見されており、100種類以上が存在しています。

 エジプト人は、エニシ・ゴ・オン・ドシに何を描いていたのですか。

左に女神ウジャト、右に女神ハトホルです。

ウジャトとは「ホルスの目」という意味であり、古代エジプトでは月の象徴とされています。

ウジャトが手に持っている蓮は再生の象徴であり、月の満ち欠けを暗示します。

ウジャトは古代エジプトの王や太陽神の額に付けられたコブラの擬人化であり、神の目から吹き出る炎の化身でもあります。

右に描かれるのは、慈愛の女神ハトホルです。

角に挟まれた日輪に2枚の羽を付けた冠をかぶって描かれています。

ハトホルは「ホルスの家」という意味で、天空の神ホルスの住む太陽を指しています。

首飾りはメニトを呼ばれ、誕生や再生の儀式に用いられた祭具です。

輪の先に丸い頭と胴体の付いた重りがあり、女性的な体形が強調されています。

 女神というけれど、雄牛ではないですか。

ここで重要なのは、ハトホルが描かれたヒポケパロスの下半円は夜空であり、この死の世界から太陽が再び昇ると陰から陽へと変わり、本来の男神の姿へと戻るのです。

 ハトホルの正体は、復活の主イエス・キリストなのですか。

雄牛の姿で表されるハトホルの後には、女神ウジャトが配されているでしょ。

 ウジャトを蛇と見ると、確かに人頭蛇身の女媧の変形となりますね。

そして、本来のハトホルは男神であることが、陽に配される右に描かれることでも、実は暗示されているのです。

雄牛は、イスラエル十二支族の象徴でもあります。

 そうなると、伏羲と女媧はイスラエルの滅びと再生を象徴していたとか。

ひょっとしたら、もっと大きな滅びと再生かも知れないですよ。

 脅かさないでくださいな。

可能性だけは、考えた方が良いと思いますがねえ。

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大福とエジプト?

大福餅(だいふくもち)とも呼ばれる大福(だいふく)は、小豆でできた餡を餅で包んだ和菓子の一種です。

餅に豆やヨモギを加えたものや、餡の代わりにイチゴやカスタードクリームを入れたものなどさまざまなバリエーションが存在します。

そのまま食べることが多いが、好みによって焼いたり、汁粉に入れたりします。

大福に使われる餅はきめ細かくつかれているものを使い、餡の量は餅と同量以上であることが多いです。

また、食用の粉をまぶしてあることも多いです。

大福を自宅で作る際は、餅に砂糖を混ぜておくと硬くなりにくいといいます。

工場で生産され、流通経路を介して販売される製品も同様の傾向があるそうです。

大福は、江戸時代初期に生まれた鶉餅(うずらもち)が1771年(明和8年)に江戸・小石川の未亡人により小形化され、餡に砂糖を加えられたものが始まりとされます。

大福は、丸くてふっくらしていたので鶉餅と呼ばれたと、されます。

腹持ちがよいことから腹太餅(はらぶともち)、大腹餅(だいふくもち)と呼ばれていたものが、吉字を使った大福餅に変化したといいます。

寛政の改革時には、行商が焼きながら売り歩く熱い大福が流行したそうです。

もっとも、鶉餅については、もっと起源は古いと言う声もあります。

室町後期にまで遡ると、言うのです。

ただ、これについては、まだ裏が取れていないので断言はできません。

鶉餅は、長野県千曲市八幡にある武水別神社の境内に営まれるうずらやと言う店が、元祖らしいです。

この地で茶屋をはじめて200年になるといいます。

看板には、《八幡宮名物元祖うずらもち》とあります。

この店の鶉餅は、丸くてふっくらというより、そこはかとなく鶉に似せた形です。

しおりにはこうあるそうです。

天保十三年に武水別神社八幡宮が消失し、嘉永三年に再建されました。

当時御社の東側の千曲河原は葦藪で、うずらが群棲しておりました。

その群れ遊ぶ姿を、立川和四郎富昌により、本殿の大黒柱の両側に四羽ずつ彫刻されました。

このように、神社とうずらとの関係が深きことから、初代武井音兵衛が創始したのが「うづら餅」です…。

ただし、鶉餅は歴史が古いだけに形も様々と言うから、この店も起源の一つと見た方が良いのかも知れません。

それというのも、鶉餅は別名を鶉焼きと言うのです。

なぜなら、一般的な鶉餅は、もち米で作った薄皮の中に小豆の塩餡を包み、鶉の斑紋のような焦げ目をつけて焼いたものとされるからです。

うずらやの鶉餅は、もち米で作った薄皮の中に小豆の塩餡を包み込んでいるだけで、焼いてあるようには見えません。

 より、鶉に似せるために、他の店が鶉の斑紋のような焦げ目をつけて焼いた鶉餅を始めた可能性もあるのでは。

それは、ありえますね。

また、日持ちをさせるために、どうせ焼くならと鶉の斑紋のような焦げ目をつけて焼いたのかも知れません。

 鶉で思い出すのは、聖書の記述ですよね。

出エジプト記16章ですね。

11節 主はモーセに仰せになった。

12節 「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」

13節 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。

 神社は、古代イスラエルの幕屋に似てると言われますよね。

周囲と区別された境内の中に、拝殿と本殿を分けた社があり、前に二本の柱が立ち、賽銭箱がある。

二本の棒で担がれることを基本とする、金で覆われ、羽の付いた像が上に載る輿がある。

裾に房の付いた衣装を纏う神職が、塩で浄め、祓いをする。

その神社の境内に、鶉餅の元祖を名乗る店があるって、出来過ぎでしょ。

 しかも、八幡の語源にはユダヤからイエフダ―、ヤハダ、ヤハタと転訛した説があるでしょ。

こうなると、鶉餅は起源がどこまで遡れるかより、ユダヤと聖書の関係を連想できる場所が元祖を名乗ってること自体が、面白いですね。

 それと、何故鶉だったかですよ。

イスラエルの民は、エジプトで鶉になじんでいたからでしょうね。

紀元前3000年頃のメレルカ王の石室墳墓に彫刻されているものに、古代エジプトのファラオ王朝時代の農民が麦畑で野生の鶉を捕獲している情景が、伝わっています。

これには、網を使って捕獲している様子までが鮮やかに刻まれています。

さらに古代エジプト第6代王朝の頃には、プタヒルクの壁に、現代の句読点にあたるものと解釈される象徴文字として鶉が登場するまでになっています。

その古代エジプト文字のヒエログリフでは、鶉の雛を象り『u』を意味して、フェニックス=不死鳥という伝説も残っているそうです。

日本の神話と類似が指摘されるギリシャ神話には、女神アストリアが、鶉に姿を変えウズラ島となり、太陽神アポロンと月の女神アルテミスの郷となったと伝えられています。

古代中国では、鶉が怪鳥化して鳳凰や不死鳥になったという伝説を残しています。

めでたい事があった時にだけ姿を現す『端鳥』であると、中国最古の辞書に載っているそうですよ。

「鳳」と「凰」はつがいで、仲睦まじく「平和」「善政」「愛」の象徴とされてきました。

日本においても、鶉は古くから重宝されていて、鳴き声が『御吉兆(ゴキッチョー)』と聞こえることから、戦国時代には鶉が出陣前の縁起担ぎに用いられたりしていました。

万葉集にも、鶉についての歌があります。

鶉鳴く 古りにし里の 秋萩を 思ふ人どち 相見つるかも 巻8-1558  沙弥尼等

人言(ひとごと)を 繁みと君を 鶉鳴く 人の古家(ふるへ)に 語らひて遣(や)りつ 巻11‐2799 作者未詳

鶉鳴く 古しと人は思へれど 花橘の にほふこのやど 巻17‐3920 大伴家持

その後も、鶉は歌われてきたが、長くなるので省きます。

鶉自体も、日本へはエジプトから渡来したと見られているのです。

鶉は、キジ目キジ科ウズラ属に分類される鳥類です。

キジ科の中でも個体が小さい鶉は、日本(主に本州中部以北)、モンゴル東部、朝鮮半島、シベリア南部、中華人民共和国北東部などで繁殖し、冬季になると日本(本州中部以南)、中華人民共和国南部、東南アジアなどへ南下し越冬する鳥です。

全長20センチメートル、翼長9.1-10.4センチメートル、上面の羽衣は淡褐色です。

繁殖期のオスは顔や喉、体側面の羽衣が赤褐色で、冬季になると羽衣が淡色がかります。

草原、農耕地などに生息する[4]。秋季から冬季にかけて5-50羽の小規模から中規模の群れを形成することもあります。

和名は「蹲る(うずくまる》」「埋る(うずる》」のウズに接尾語「ら」を付け加えたものとする説があります。

食性は雑食で、種子、昆虫などを食べます。

繁殖形態は卵生で、配偶様式は一夫一妻です。

5-10月に植物の根元や地面の窪みに枯れ草を敷いた巣に、7-12個の卵を産み、メスのみが抱卵し、抱卵期間は16-21日です。

雛は孵化してから20日で飛翔できるようになり、1-2か月で独立する[4]。生後1年以内に性成熟します。

 鶉、何時頃どうやって、日本に来たのでしょうね。

まさか、エジプトから飛んできたとも思えないから、シルクロードでしょう。

徐福や神武か、少なくとも、古事記や日本書紀、万葉集よりは前、どうゆうルートか、気になる鳥ですね。

 まさか、大福から、エジプトに話が飛ぶとは…。

 エジプトから鶉が来なかったら、大福はなかったのかしら。

餅と肉の食感の類似から、何か動物が関係するとは思ってましたが。

鶉とは、ちょっと意外でした。

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