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大福とエジプト?

大福餅(だいふくもち)とも呼ばれる大福(だいふく)は、小豆でできた餡を餅で包んだ和菓子の一種です。

餅に豆やヨモギを加えたものや、餡の代わりにイチゴやカスタードクリームを入れたものなどさまざまなバリエーションが存在します。

そのまま食べることが多いが、好みによって焼いたり、汁粉に入れたりします。

大福に使われる餅はきめ細かくつかれているものを使い、餡の量は餅と同量以上であることが多いです。

また、食用の粉をまぶしてあることも多いです。

大福を自宅で作る際は、餅に砂糖を混ぜておくと硬くなりにくいといいます。

工場で生産され、流通経路を介して販売される製品も同様の傾向があるそうです。

大福は、江戸時代初期に生まれた鶉餅(うずらもち)が1771年(明和8年)に江戸・小石川の未亡人により小形化され、餡に砂糖を加えられたものが始まりとされます。

大福は、丸くてふっくらしていたので鶉餅と呼ばれたと、されます。

腹持ちがよいことから腹太餅(はらぶともち)、大腹餅(だいふくもち)と呼ばれていたものが、吉字を使った大福餅に変化したといいます。

寛政の改革時には、行商が焼きながら売り歩く熱い大福が流行したそうです。

もっとも、鶉餅については、もっと起源は古いと言う声もあります。

室町後期にまで遡ると、言うのです。

ただ、これについては、まだ裏が取れていないので断言はできません。

鶉餅は、長野県千曲市八幡にある武水別神社の境内に営まれるうずらやと言う店が、元祖らしいです。

この地で茶屋をはじめて200年になるといいます。

看板には、《八幡宮名物元祖うずらもち》とあります。

この店の鶉餅は、丸くてふっくらというより、そこはかとなく鶉に似せた形です。

しおりにはこうあるそうです。

天保十三年に武水別神社八幡宮が消失し、嘉永三年に再建されました。

当時御社の東側の千曲河原は葦藪で、うずらが群棲しておりました。

その群れ遊ぶ姿を、立川和四郎富昌により、本殿の大黒柱の両側に四羽ずつ彫刻されました。

このように、神社とうずらとの関係が深きことから、初代武井音兵衛が創始したのが「うづら餅」です…。

ただし、鶉餅は歴史が古いだけに形も様々と言うから、この店も起源の一つと見た方が良いのかも知れません。

それというのも、鶉餅は別名を鶉焼きと言うのです。

なぜなら、一般的な鶉餅は、もち米で作った薄皮の中に小豆の塩餡を包み、鶉の斑紋のような焦げ目をつけて焼いたものとされるからです。

うずらやの鶉餅は、もち米で作った薄皮の中に小豆の塩餡を包み込んでいるだけで、焼いてあるようには見えません。

 より、鶉に似せるために、他の店が鶉の斑紋のような焦げ目をつけて焼いた鶉餅を始めた可能性もあるのでは。

それは、ありえますね。

また、日持ちをさせるために、どうせ焼くならと鶉の斑紋のような焦げ目をつけて焼いたのかも知れません。

 鶉で思い出すのは、聖書の記述ですよね。

出エジプト記16章ですね。

11節 主はモーセに仰せになった。

12節 「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」

13節 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。

 神社は、古代イスラエルの幕屋に似てると言われますよね。

周囲と区別された境内の中に、拝殿と本殿を分けた社があり、前に二本の柱が立ち、賽銭箱がある。

二本の棒で担がれることを基本とする、金で覆われ、羽の付いた像が上に載る輿がある。

裾に房の付いた衣装を纏う神職が、塩で浄め、祓いをする。

その神社の境内に、鶉餅の元祖を名乗る店があるって、出来過ぎでしょ。

 しかも、八幡の語源にはユダヤからイエフダ―、ヤハダ、ヤハタと転訛した説があるでしょ。

こうなると、鶉餅は起源がどこまで遡れるかより、ユダヤと聖書の関係を連想できる場所が元祖を名乗ってること自体が、面白いですね。

 それと、何故鶉だったかですよ。

イスラエルの民は、エジプトで鶉になじんでいたからでしょうね。

紀元前3000年頃のメレルカ王の石室墳墓に彫刻されているものに、古代エジプトのファラオ王朝時代の農民が麦畑で野生の鶉を捕獲している情景が、伝わっています。

これには、網を使って捕獲している様子までが鮮やかに刻まれています。

さらに古代エジプト第6代王朝の頃には、プタヒルクの壁に、現代の句読点にあたるものと解釈される象徴文字として鶉が登場するまでになっています。

その古代エジプト文字のヒエログリフでは、鶉の雛を象り『u』を意味して、フェニックス=不死鳥という伝説も残っているそうです。

日本の神話と類似が指摘されるギリシャ神話には、女神アストリアが、鶉に姿を変えウズラ島となり、太陽神アポロンと月の女神アルテミスの郷となったと伝えられています。

古代中国では、鶉が怪鳥化して鳳凰や不死鳥になったという伝説を残しています。

めでたい事があった時にだけ姿を現す『端鳥』であると、中国最古の辞書に載っているそうですよ。

「鳳」と「凰」はつがいで、仲睦まじく「平和」「善政」「愛」の象徴とされてきました。

日本においても、鶉は古くから重宝されていて、鳴き声が『御吉兆(ゴキッチョー)』と聞こえることから、戦国時代には鶉が出陣前の縁起担ぎに用いられたりしていました。

万葉集にも、鶉についての歌があります。

鶉鳴く 古りにし里の 秋萩を 思ふ人どち 相見つるかも 巻8-1558  沙弥尼等

人言(ひとごと)を 繁みと君を 鶉鳴く 人の古家(ふるへ)に 語らひて遣(や)りつ 巻11‐2799 作者未詳

鶉鳴く 古しと人は思へれど 花橘の にほふこのやど 巻17‐3920 大伴家持

その後も、鶉は歌われてきたが、長くなるので省きます。

鶉自体も、日本へはエジプトから渡来したと見られているのです。

鶉は、キジ目キジ科ウズラ属に分類される鳥類です。

キジ科の中でも個体が小さい鶉は、日本(主に本州中部以北)、モンゴル東部、朝鮮半島、シベリア南部、中華人民共和国北東部などで繁殖し、冬季になると日本(本州中部以南)、中華人民共和国南部、東南アジアなどへ南下し越冬する鳥です。

全長20センチメートル、翼長9.1-10.4センチメートル、上面の羽衣は淡褐色です。

繁殖期のオスは顔や喉、体側面の羽衣が赤褐色で、冬季になると羽衣が淡色がかります。

草原、農耕地などに生息する[4]。秋季から冬季にかけて5-50羽の小規模から中規模の群れを形成することもあります。

和名は「蹲る(うずくまる》」「埋る(うずる》」のウズに接尾語「ら」を付け加えたものとする説があります。

食性は雑食で、種子、昆虫などを食べます。

繁殖形態は卵生で、配偶様式は一夫一妻です。

5-10月に植物の根元や地面の窪みに枯れ草を敷いた巣に、7-12個の卵を産み、メスのみが抱卵し、抱卵期間は16-21日です。

雛は孵化してから20日で飛翔できるようになり、1-2か月で独立する[4]。生後1年以内に性成熟します。

 鶉、何時頃どうやって、日本に来たのでしょうね。

まさか、エジプトから飛んできたとも思えないから、シルクロードでしょう。

徐福や神武か、少なくとも、古事記や日本書紀、万葉集よりは前、どうゆうルートか、気になる鳥ですね。

 まさか、大福から、エジプトに話が飛ぶとは…。

 エジプトから鶉が来なかったら、大福はなかったのかしら。

餅と肉の食感の類似から、何か動物が関係するとは思ってましたが。

鶉とは、ちょっと意外でした。

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コメント

AKAIK you've got the aswenr in one!

投稿: Roby | 2013年5月21日 (火) 14時59分

Interesting?.

投稿: cova | 2013年5月22日 (水) 11時14分

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