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自由を貫くには主張するだけで良いか。

『はだしのゲン』が小学校や中学校の図書館で、開架から外されて自由な閲覧が出来なくなったと問題になる事例が、島根県松江市で起きました。

発端は2012年12月のことです。

松江市内の小中学校校長が集まる校長会で、市教育委員会から子どもたちの自由な閲覧をやめるように『お願い』があったのです。

市教委はその理由を「暴力や殺害シーンが過激で、トラウマになったり面白おかしく捉える子どもがいるのではということで制約をかけた」といいます。

市内の49小中学校のうち、39校が『はだしのゲン』全10巻を保有していたが、校長側はこれを要請と受け取り、自由な閲覧を禁止する閉架措置をとったのです。

要請は事務局が決定し、教育委員を交えた会議には報告されていなかったことが分かったのです。

これに対し、こういう批判が出されました。

『はだしのゲン』は1973年に少年雑誌で連載が始まり、映画化もされた。

単行本は650万部を超すベストセラーになり、アメリカ、ロシアなど核保有国も含め世界20か国で翻訳、出版されている。

原発被害の第一級資料だ。

それなのになぜ被爆国の日本で、子どもたちが自由に閲覧することを禁止するのか。

この批判はもっともです。

だが、連載した少年雑誌の購買層は何歳くらいでしょうか。

少なくとも、学齢に達したばかりの児童でないことは、常識的に理解できるでしょう。

一方、小学校の図書館は学齢に達したばかりの児童も閲覧するし、『はだしのゲン』は学校におかれた数少ない漫画です。

つまり、学齢に達したばかりの児童も読む可能性があるのです。

感受性の強い一方、まだ理解力の乏しい年齢であってみてば、強くショックを受ける可能性は否定できないでしょう。

寺などで地獄絵図を幼いころに目にした経験のある世代が身近にいた頃と、魚をさばく光景さえ生活から消えた世代とでは、受ける衝撃の大きさも変わっていると見る声が出てきてしまうのはあり得る事なのです。

一匹まるごと骨を取りながら食べた経験のある世代と、骨を取った切り身や加工品ばかり食べている世代とでは、残酷な場面の基準さえいつの間にか変わっていると見た方が良いでしょう。

欧州でも、昔話から残酷な場面が削られていく過程が、都市化とともにあったと聞きます。

そこで、閲覧に対してなんらかの配慮は必要だと言う指摘が、『はだしのゲン』の価値を評価する人からも出てくることとなります。

これまで、ショックを受けた子が出ていないからと言って、子どもも愚かではないからちゃんと受け止めていると、ばかり言っていると足元をすくわれかねないのです。

これまでもいじめはあったと言うが、いじめの質が変わってきたのは事実なのです。

これまで、ショックを受けた子がいないからと、ショックを受ける子が出る事の懸念を有り得ないと一蹴していいでしょうか。

閲覧の自由を守りつつ、子どもの精神的な発展段階に合わなければ、ショックを受けるだけと懸念する人を説得するには、何歳向けの書かはっきりさせる必要もあるでしょう。

これまでだって、児童向け出版物には対象年齢を明記してきました。

むしろ、『はだしのゲン』は少年雑誌連載から単行本、さらに作品の価値が評価され世界に広がり、学校の図書館にも納められるという経過の中、何歳向けの図書であるかと言う議論は後回しになっていたのです。

児童向け出版物として出版されなかったが、児童にも読まれる環境が生まれ、かつ、刺激や衝撃の大きい、また、理解の難しい内容の書には、何歳以上向けか、どの学齢向けか、客観的に分類する方が好ましいかもしれません。

目安として対象年齢向けに書架を分類したうえで、子どもに選ばせれば良いでしょう。

言論や閲覧の自由を、ただ、声高に言うだけではなく、閲覧しない自由にも配慮しないと、問題によっては不毛な対立の泥沼にはまるか、解決しても何らかのしこりは残るという、心配はないでしょうか。

自由や権利、平和や民主主義、などさまざまな意見や主張や立場の違いや対立、戦いはあると思うが、善意の懸念に対する配慮を忘れずに取り組む姿勢を忘れたくないものです。

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コメント

もし、自分の国が必要であるならば、自分の国は自分自身で守れ。
虎の威を借る狐* になるな。 狐の根性が汚い。
自国のためには、自らの血を流せ。外国人から売血を買って喜ぶな。

力は正義である。(Might is right).
もしも、自分に正義が必要であるならば、自分自身の力を示すこともまた必要なことである。

仏法の守護神は、仁王である。国家の守護神は、自国の軍隊である。
第七艦隊は、’友愛の海’ の守護神となるのか。
主護神を置かずして、法を説く者はむなしい。得意な歌詠みも、ごまめの歯ぎしりとなろう。

>親戚のじいちゃんはガ島で地獄を見てきた。
>「あれは決して国のために尊い命を落とす姿じゃ無かった」という言葉を忘れない。

自分の死に場所を探す兵士ばかりでは、戦に勝てない。戦場に屍をさらせば、敵の戦果の山ができる。
指導者は、犬死を何と言って褒めたたえようとするのか。

我が国では、話の筋があって、人が序列を作るのではない。序列があって、筋がない。
目先の問題に専念する兵卒は優秀、参謀は愚鈍。お上の理不尽に下々は無抵抗である。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、南の島に雪が降る。

序列メンタリィティを日本語脳から除去することは難しい。
階称 (言葉づかい) は、日本人のリーズン (理性・理由・適当) をむしばむアヘンのような存在である。

現在の地球は、英米の世の中である。各国には、リーズナブルな主張が求められている。
理性判断 (rational judgment) のできない国民は、世界の中にあっても、世界に属さない。
だから、日本人は国際社会においても、指導性を発揮することは難しい。

*(他人の権勢をかさに着ていばる小人のたとえ。)

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/

投稿: noga | 2013年8月28日 (水) 15時48分

あの、閲覧の自由などの主張に対しては、どのような意見なのでしょう。

言葉は明瞭でも意図が不明では、どのように返事をして良いか困ります。

現場は有能で頑張っていても、上が無能でどうしょうもないとお嘆きなら、今もそうだ、困ったもんだと、私も嘆きたいです。

何が仰りたいのですか。

それがよく、掴めません。

投稿: cova | 2013年8月29日 (木) 20時57分

もし、自説を述べてみんなの意見を聞きたいのであれば、それなりの掲示板を探すか、自身でサイトやブログを立ち上げられたらいかがですか。

私のブログは、私自身の覚書であるとともに、皆さんとの意見や情報の交流がしたくて、やってます。

無料で使いやすいブログも、いっぱいあります。

自分に合った所を、探されたらいかが。

投稿: cova | 2013年8月29日 (木) 21時08分

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