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秦国と秦氏?

秦では、従来の「王」という称号を採らず、初めてもっと上位の「始皇帝」という肩書きを用いました。

また「朕」という一人称も始皇帝に限る、としました。

秦の始皇帝は、各地域で個別に使われていた文字を統一し、全国どこででも同じ文字が通用するようになりました。

秦の字体は篆(てん)書といいます。

やがてこれから楷書、草書が発展することになります。

秦は、度量衡の統一も行った。

度量衡というものは流通・交易などの価値の交換において、非常に重要な意味を持っている。

また、度量衡を定める・改正するという行為は、暦法を改める事と同様に権力の象徴であり、古代より近世に至るまで、権力者たちによって様々な改訂が行われてきました。

貨幣の統一も、実施しました。

秦の貨幣は穴のあいた環銭で、特にこの時の環銭を半両銭といいます。

馳道(しどう)は始皇帝が首都咸陽から全国に放射状に作られた計画的な軍事道路で幅は約70メートル全長は5000キロ、全長20万キロにも及んだローマ街道に比べると距離は劣りますが道路幅は遥かに広いです。

秦帝国において、道路建設は最も重要な国家事業に位置づけられていた事は明らかです。

交通と言う点では、車軌(しゃき)の統一も遂行しています。

車軌というのは、馬車の車輪と車輪のあいだの長さです。

当時は舗装道路などないから馬車が走れば地面はえぐれ、えぐれた部分がレールみたいになっていくんです。

そこを車軌が違う馬車が走ると車体が傾むいて思うように走れないから、戦国の各国はわざと自国の車軌を他国と違うようにしたのです。

そうすれば敵国の戦車がやって来ても攻めにくいが、天下統一すればこれは不便だから統一しました。

堰地点上流域面積は23,000k㎡という、大規模水利工事を行いました。

その地は、今や都江堰市と称されているといいます。

都江堰は、長江の支川・岷江の主流に紀元前250年頃に建設された大規模な頭首工水利施設です。

これは、秦の強大化を怖れた韓国が、秦の国力疲弊を狙って進言した事業だったが、却って国力の増加を齎すことになりました。

四川省中部にある省都成都市の西北60kmにあり、中国古代三大水利工事のひとつとして中国国内では極めて著名な水利施設です。

洪水防御、灌漑、舟運の効益を兼ね備え、建設以来その効用を失わないばかりか、今日では一層発展し中国国内でも最大級の水利灌漑網を形成しているといいます。

 でも、なんで、国名が秦なのでしょう。

 中国では、ローマ帝国も秦と呼んでいたはず。

支配者が自らを皇帝と呼び、大いに土木をやったといえば、まさにローマ帝国もそうでした。

ただ、ローマが帝国になったのは紀元前27年です。

ローマ自体は伝説によれば、紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスとレムスにより建てられたとされます。

それに、中国でローマが秦の名で登場したのは、後漢書の「和帝の永元九年(97年)に西域都護の班超が甘英を使者として大秦に派遣した」大秦の初出であると見られています。

秦は、ローマにならった国造りを狙ったと言う見方もできるが、そもそも、中国の民族ではなかったという声もあるのです。

史記を記した司馬遷など、始皇帝を漢民族かどうか怪しいとしていると言います。

ローマの影響と言えば、新羅(しんら)もそうです。

 新羅(しらぎ)という呼び方は、何時の頃からか、日本でついた名称なようですね。

日本では習慣的に新羅を「しらぎ」と読むが、奈良時代までは「しらき」と清音だったのです。

万葉集(新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも清音であるといいます。

新羅は紀元356年から935年にかけ、古代の朝鮮半島南東部にあった国家です。

ちなみに新羅という国号は、503年に正式の国号となり、それまでは辰韓と呼ばれていました。

 辰韓は、秦韓とも書かれるでしょ。

 これは偶然でしょうか。

始皇帝は、紀元前259年から紀元前210年の人です。

中国戦国時代の秦で、在位期間は紀元前246年から紀元前221年でした。

姓は嬴(えい)、諱(いみな)は政(せい)と言うから、なるほど、あまり中国的な名前とは言えません。

 中国風に読めば、Yíng zhèngですね。

姓とは、東アジアの漢字文化圏で用いられる血縁集団の名称です。

その範囲は地域や時代によって変動し、氏や名字といった他の血縁集団名と様々な階層関係にありました。

近代以降、ヨーロッパなどの他の文化圏の血縁集団名、家系名の訳語としても用いられています。

忌み名とも書く諱は、中国などの東アジアの漢字圏における人名の一要素で、実名や本名を意味する真名(まな)とも呼ばれます。

秦については、日本に面白いことがあるのです。

『新撰姓氏録』では融通王とも記される弓月君(ゆづきのきみ)は、『日本書紀』に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人です。

 秦の帝室の後裔とされる弓月君が、なんと、ユダヤ人キリスト教徒説まである秦氏の先祖なのですね。

弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔だそうです。

孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年(199年)に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年(283)に来朝したとされます。

佐伯好郎博士の研究によれば、弓月国(Kung-Yueh)は小国であるが、 キリスト教王国であったと言うのです。

そこで、秦をキーワードに見ていくと面白いことになるのです。

 秦=ローマ帝国、秦帝国、弓月国、秦氏の構図ですか。

そして、秦氏にユダヤ人キリスト教徒説があるが、佐伯好郎博士は当初の景教徒説の可能性を最後には諦め、なんと、原始キリスト教徒説に軌道修正したと言います。

 ユダヤ人キリスト教徒であり、原始キリスト教徒となれば、エルサレム教団も当然可能性が出てきますね。

当時、東アジアにまで出てきた可能性があるユダヤ人原始キリスト教徒となれば、エルサレム教団の可能性は高いです。

ローマ帝国への戦いの前に忽然と姿を消し、東方へと向かったのが、エルサレム教団ですから。

 始皇帝と言えば、焚書坑儒でも有名ですが。

紀元前212年、廬生や侯生といった方士や儒者が、始皇帝が独裁者で刑罰を濫発していると非難して逃亡したため、咸陽の方士や儒者460人余りを生き埋めにし虐殺したとされる事件ですね。

その後も秦に仕えた儒者はおり、陳勝・呉広の乱が起きた際に二世皇帝胡亥が儒者の叔孫通に諮問しているというから、どこまで本当なんだかという疑問もあります。

なにしろ、中国で歴史書と言えば、多くは前の国を倒した側が、自らを正当化する目的で記した場合が多いとされます。

そのため、どの程度歴史が歪めて書かれたか検証する学問まであったそうですよ。

 さらに、奇妙なのは、一度渡航に失敗した徐福に、前より多くの援助を与えて再度送り出してますね。

始皇帝は、国の将来が長くないことを覚り、徐福を送り出したと解釈する人もいるようです。

不老不死の妙薬探しは表向きの看板で、実は大切なものを避難させたというのです。

それが、三種の神器だったと見る人もいるようです。

 飛鳥昭雄や三神たけるですね。

 そうなると、始皇帝、あるいは、彼の周辺に預言者がいたのでしょうか。

さあ、どうなのでしょうね。

さらに、始皇帝は、紀元前なので当然、キリスト生誕以前の人物です。

もし、ユダヤ人説を取るとしたら十支族ということになるでしょう。

これについては、秦の伝説に面白い話があります。

陳舜臣著「秦の始皇帝」から引用しましょう。

遠い先祖が周王八代孝王(こうおう)に、おまえは牧畜がうまい、つまり羊を飼うのがうまいからこの辺の土地をやろうといわれてもらった、それが秦のはじまりだというのです。

このことから、秦が牧畜の民であったということがわかります。

 そういえば、イスラエルの民も牧畜の民でしたね。

周は、農業国家で農業信を祀っている活気にあふれた国だったが、だんだんと贅沢になって堕落していきました。

そして、幽王(ゆうおう)の時代に犬戎(けんじゅう)という北方民族に討ち滅ぼされることになります。

秦の祖先については、犬戎に討たれた幽王の子・平王(へいおう)が東の洛陽に都を移したとき、平王の護衛隊長のような役をしていたという話が残っています。

ここから、軍事的な面でも優れていたことがわかります。

 秦(しん)を秦(はた)を見たとして、秦氏はユダヤ人キリスト教徒だったはずでは…。

秦氏については、イエフダーの転訛と言う説もあるが、それは「はた」の読みの語源説です。

秦(しん)には、柵の外、つまり余所者という意味があると言う人もいます。

 秦とは、余所者の国と言う意味があり、彼ら自身も、中国で呼ばれた名前をそのまま受け入れたということでしょうか。

国姓は、始皇帝の姓でもあった嬴(えい)ですよ。

秦(しん)は、通称と見た方が良いでしょうね。

ちなみに、統一時の首都は咸陽でした。

 そうなると、ローマ帝国を大秦と呼んだのも、余所者の大国ってことでしょうか。

東夷西戎南蛮北狄と、周辺国を呼んだ中国ですよ。

古代イスラエルの北王国の首都サマリアは、紀元前721年にはアッシリアによって陥落しました。

アッシリアのサルゴン2世はサマリアのイスラエル人指導層などを奴隷として連れ去りまたは追放して、その土地にメソポタミアなどからの異民族を移住させ、イスラエル王国は滅亡するのです。

このとき故地から引き離されたイスラエル人たちは、後に「失われた十支族」と呼ばれています。

 アッシリアの滅亡は前609年とされるけど、そのとき、故地になぜか、戻らなかったわけですね。

始皇帝は紀元前259年から紀元前210年の人だが、秦と言う国自体は紀元前778年から紀元前206年までありました。

周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡したわけです。

統一から滅亡までの期間である紀元前221年から紀元前206年は秦代と呼ばれます。

アッシリアは、紀元前625年には新バビロニアが独立してその勢いはさらに増し、紀元前612年に新バビロニアやメディアの攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落したので、北朝イスラエルの民は、この時までには離れていたのかもしれないですね。

アッシリアは、新バビロニア独立の頃には、王家の内紛や広大な領土・多様な被征服民族を統治するシステムの構造的な問題が噴出したものとも考えられています。

北方からスキタイ等の外敵に圧迫され、領内では各所で続発する反乱を抑える事が出来なくなっていきましたから。

 じゃあ、スキタイなどと一緒に、ニネヴェ陥落前に国外に出ていた。

可能性はありますね。

 だとしたら、十支族による秦の建国は十分にあり得る。

可能性は、否定できないですね。

さらに、情報を集める必要はありますけど。

 嬴(えい)は、“(ヤハウエ)יְהוָה”は”(へー)ה”一文字で表す場合がある事を思えば、”(へー)ה”の転訛という解釈も出来るのでは。

想像は自由だけど、考えても良いかも知れないですね。

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