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クローン病と竹輪?

日本とヨーロッパを繋ぐ、不思議な要素として遺伝性疾患があります。

 日本とヨーロッパの繋がりを示す遺伝性疾患の多くはアジアが空白に見えるのに、クローン病は中国語で庫隆氏症(クーロンスーヂェン)と言う名前が付くようにアジアにも発症例が見える興味深い例ですね。

クローン病は、炎症性腸疾患のひとつです。

1932年に、ニューヨークのマウントサイナイ病院の内科医クローン先生らによって限局性回腸炎としてはじめて報告されました。

クローン病(Crohn's Disease)は、報告者クローン医師の名にちなんだ名前です。

略称をIBDと呼ぶことの多いD炎症性腸疾患(Inflammatory Bowel Disease)とは、大腸及び小腸の粘膜に慢性の炎症または潰瘍をひきおこす原因不明の疾患の総称です。

世界的にみると地域的には先進国に多く、北米やヨーロッパで高い発症率を示します。

食生活の欧米化によって患者数が増えているといわれ、食物中の物質や微生物が抗原となって異常反応を引き起こすことが、原因のひとつと考えられています。

環境因子、食生活が大きく影響し、動物性タンパク質や脂肪を多く摂取し、生活水準が高いほどクローン病にかかりやすいと考えられています。

喫煙をする人は、喫煙をしない人より発病しやすいと言われています。

とはいえ、クローン病を引き起こす原因と人種や地域によって発症する頻度が異なり、また家系内発症もみとめられることから、遺伝性であることは確かです。

最近の研究では、なんらかの遺伝子の異常を背景にもち、異物を処理する細胞やある種のリンパ球などの免疫を担当する細胞の異常反応が明らかになってきているといいます。

何らかの外来の抗原、つまり食事の成分、異物、病原体などの侵入とそれに対する免疫系の反応異常が想定されています。

 家系内発症も認められる以上、発症しやすい民族は絞れるかもしれないですわけね。

そこで注目したいのは、古代中国のヨーロッパ系の集団です。

臨淄(りんし)区は、中華人民共和国山東省淄博市の市轄区のことです。

工業都市・交通の要所で、国家歴史文化名城に指定されているのです。

臨淄(りんし)区は、中国春秋時代の斉の首府とされた都市です。

周王室により東海地方に封じられた太公望によって築かれ、最初営丘、のちに名をあらため臨淄(りんし)となりました。

ミトコンドリアDNAの比較研究の結果によると、約2500年前の春秋戦国時代の臨淄(りんし)住民の遺伝子は、現代「ヨーロッパ人」の遺伝子に非常に近いです。

 この人達の子孫は今でも中国や韓国などにいて、クローン病で自分達のルーツを表す格好になっている…。

そうかも知れません。

 彼らは、何時頃中国に来たかですね。

近年、今から5000年くらい前にコーカソイドの一部が故郷の地から何らかの理由で離れ、中央アジアに来たことがわかっています。

ブルチン(布廣澤)市とアルタイ市とを結ぶ公道の両側に広がっている、アルタイ市から西南西へ加数キロのクルムチ(克木斉)周辺に. 点在する遺跡群があります。

これがクルムチ遺跡で、アルタイ市から向かって左側には古墳、 右側には石人墓と岩画が分布しています。

石人墓とは、石人を伴う方形石囲いの遺跡です。

 石人は、墓の守りとして立てられるのですよね。

 石人を立てる習慣は、黒海沿岸を中心にヨーロッパ各地にみられるそうですね。

石人墓の存在は、クルムチ遺跡がコーカソイドの遺跡と見られる理由の一つになっています。

古墳は、環状列石が一列から二列で取り囲んでいます。

 二列は、大きな古墳の場合ですね。

 環状列石もまた、どちらかと言うとヨーロッパ的ですね。

 石人と環状列石、そういえば、日本の古墳で頂上の柱状の埴輪は意味不明だが、人物埴輪と合わせると妙に似ているような…。

このあたりは、さらに検証が要りそうですね。

ところが、4000年位前、コーカソイドの大移動が起こり、せっかく安住の地を得たと安心してたクルムチの民は引っ越しを余儀なくされたのです。

そして、現在の小河墓遺跡や小墓溝遺跡、さらには後に楼蘭と呼ばれることになる地に、引っ越してきたようです。

クルムチの民の引っ越し先と見られる理由は、墓に建てられた木人です。

木人は小河墓遺跡に、墓を取り巻く環状の形は小墓溝遺跡に、それぞれ見られます。

 小墓溝遺跡は、小河墓は小河墓の北、おおよそ50キロのあたりですね。

材質が石から木に変わったのは、オアシスなのでポプラの仲間のコヨウ(胡楊)はあっても手頃な大きさな石がなかったからでしょう。

今から4000年前、中国は殷の時代から漢の時代の手前くらいまでこれらの土地で彼らは生活を営んだようです。

イタチもいたようなので、魚なども豊富に居たことでしょう。

 そう言えば、砂漠は水も少ないが、大きな石も少ないですね。

彼らは、小麦を栽培する農耕の民であったが、同時に牛や羊を飼う牧畜の民でもあったので、周囲の農耕民とは折り合いが悪かったのかも知れません。

聖書にも、エジプトに居場所を求める際、農耕地からできるだけ離れた場所で、かつ、エジプトからそう遠くない地に放牧地を求めた記述があります。

埋葬にも、牛の皮や羊の毛の織物で巻かれた棺やミイラ、牛の皮のブーツや羊の毛のフェルト帽、などが見えます。

興味惹かれることは、彼らが七と言う数字にこだわるように思えることです。

墓を取り巻く環状の形は小墓溝遺跡にあるが、小さな木の柱を七重に配置しています。

小河墓遺跡では、中心に七つの柱を立て、男性の墓碑の根元に七つの溝を刻んでいます。

ちなみに、女性器を模る黒い扇型の墓碑は男性、男性器を模る赤い柱状の墓碑は女性と、決まっていたというから、陰陽思想を持っていた民であったと想像できます。

 七は月の満ち欠けと関係ありと見られるので、小墓溝遺跡の環状の配置が太陽の表現と考えられることと合わせると、まさに陰陽ですね。

小河墓遺跡や小墓溝遺跡、さらに楼蘭の民の行動範囲の広さは、まさに彼らが牧畜の民、それも放牧の民であったと見れば、理解できそうです。

青銅や蛇紋岩は遠出しないと入手不能だし、蛇紋岩のような玉は、殷にも届けられていました。

 彼等の広い行動範囲は、放牧が可能にもしたし、必要ともしたので、結果として交易の民にもなった。

当時の権力者にとって、重宝なようで、厄介な存在でもあったでしょうね。

 納税してくれる商人としてはありがたいが、治安の攪乱要因としては頭が痛い。

さらに、交易の利益独占を狙うには、むしろ邪魔でさえあるでしょ。

 現代「ヨーロッパ人」に近い遺伝子を持つ約2500年前の春秋戦国時代の臨淄(りんし)住民は、実は牧畜の民であった…。

そうかも知れません。

約2000年前の前漢末の臨淄(りんし)住民の遺伝子は、現代の「中央アジアの人々」の遺伝子と非常に近いです。

彼等もまた、牧畜の民であったかも知れないですよ。

 だから、痕跡を残さずに、忽然と消えた…。

移動の民であれば、定住民のようなはっきりとした移動の痕跡はむしろ、残さない方が自然でしょ。

 きりたんぽや、竹輪、魚の串焼きや、蒲鉾は、遊牧時代の名残だった…。

竹輪は、魚のソーセージと説明すると欧米人は理解しやすいそうです。

 そういえば、ソーセージは生では食べない…。

蒲鉾は今でこそ板に付けるが、もともとは、串に刺した形だから蒲鉾なんですよ。

 ケバブから、きりたんぽや竹輪、魚の串焼きが生まれたのかしら。

ありえますね。

 じゃあ、蒲鉾は魚のハムってことかな。

一方シシカバブは、角切りの羊肉を漬け汁に漬け込み、金串に刺して焼いたものです。

一緒に野菜を刺して焼くこともあります。

このあたり、焼き鳥や蒲焼のルーツかも、知れないですね。

放牧や牧畜の民であっても農耕も営むので、農耕に軸足を移し漁師や猟師に転じた人々は大勢いたことでしょう。

オアシスや浜辺で彼等は、漁師でもあったはずですからね。

 アジアの大陸部で少ないクローン病の発症例が、放牧できる場所が少ないはずの日本で多いって…。

だから、広い漁場を求めて、諸島部に居場所を求める人々が私たちの想像以上に多かったのかも知れないですね。

 じゃあ、食生活の近代化というより、肉食が増えることで起きる生活習慣病が、クローン病の持つもう一つの側面…。

案外、そうかも知れません。

もちろん、遺伝性疾患でもありますけどね。

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投稿: olympique de marseille boutique | 2013年12月17日 (火) 19時35分

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