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ゲッセマネの祈りの意味について想ってみた。

語り合いは、時として思いがけない気づきに誘ってくれます。

ある時、友とイエスについて思いを語り合いながら、ふと思ったのです。

ゲッセマネの祈りの血の汗は、死にたくないという肉体からの叫びをイエスが必死になって祈りながらなだめたからだけではないと。

マタイによる福音書26章やルカによる福音書22章、マルコによる福音書14章には、こうあります。

弟子たちから石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた。

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。

そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。

イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。

そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。

イエスは、祈りのとき弟子たちに告げた。

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。

「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。

私はこれまで、こう解釈していました。

イエスと言えども人の子として死すべき肉体を持って生まれた以上、死にたくないという肉体の叫びを必死になって祈って抑えたのだ。

今でも、基本的にはこれで間違っていないと、思っています。

 それだけが理由で、イエスは血のしたたるような汗を流して祈ったわけではない。

イエスは、ユダについてこう嘆いています。

「生まれてこない方が良かった」

イエス自身は自らの贖罪の仔羊としての役割を、承諾して受肉しました。

 自分がだれかと間違われることなく捕まるためには、弟子たちのうちの誰かが裏切って手引きをする役回りもなければならないと、いけないことも知っていたのかしら。

イエスの退けて欲しいと願った杯とは、自分の十字架は誰の裏切りにもよらずに実現して欲しいという事だったかも知れないのです。

 現実には誰かの手引きなしに、イエスを間違えなく捕まえる事は難しかったでしょうか。

むしろイエスは、逃げも隠れもせずに自ら名乗って捕まったかも知れないですよ。

止めようとする弟子たちを、威厳のある態度で制して。

 そうなれば、逮捕しようとしたほうが逆にたじろいだかもしれない。

そして、悠然とイエスは去って行ったという展開では、恰好は良いかも知れないが贖罪の十字架は遠のくでしょ。

 ますます、捕まえにくくなる…。

現実にもイエスは、裏切って自分を捕まえる手引きをしたユダにこう語りかけます。

「友よ、なんのためにきたのか」

新共同訳は、思い切って意訳しました。

「友よ、しようとしていることをするがよい」

さらに大祭司の僕に切りかかって、手にした剣でその片耳を切り落した弟子をいさめてこう語りました。

「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。

再現映像の中には、イエスが切られた耳を癒す場面が描かれたりすることもあるが、イエスなら実際にもそうしたでしょうね。

イエスが癒されたことは、ルカによる福音書にありますね。

 イエスは、裏切りが必要であるが、裏切ったものは神の怒りによって死ぬことも知っていたでしょうね。

イエスは、むしろその方が辛かったかも知れないですね。

イエスは悠然と群衆に語りかけました。

「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。

そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去ったのでした。

 そうなると、イエスのゲッセマネの祈りは、弟子たちの行為に対する執り成しの祈りでもあった…。

弟子たちには、生き延びて役目を果たして欲しかったのでしょう。

 見捨てられる辛さより、弟子たちに託された役目のために生きていて欲しい気持ちの方が強かったのですね。

さらに十字架に架けられた時でさえ、イエスは御父に執り成しの祈りをしています。

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」

この執り成しの祈りは、十字架に架けられるまでのユダヤ人たちの行為全てに対しての、祈りだったかも知れません。

 そうなると、ゲッセマネの祈りとは、イエス生誕から十字架までのイエスに敵対したすべて人のための執り成しの祈りでさえあった。

イエスの一生は、まさにゴルゴダの丘のためだったとさえ、言えますからね。

 だから、ゲッセマネであれほどまでに苦しんだ…。

 そうなると、取りのけて欲しかった杯の正体とは、贖罪の十字架の死だけではなかった…。

 実は、執り成しの祈りの血のしたたるような汗の受け皿であり、なんで彼らの許しと執り成しの祈りをしなければならないのかと言う、死すべき肉体を持つ生身の人としてのイエスの愚痴でもあった…。

執り成しの祈りとしてのゲッセマネの祈りもまた、イエスの生誕の目的であったと言えそうですね。

 イエスが天の神である御父の境地に近づくための、地上における最後の試しでもあった…。

 ありとあらゆる罪や過ちの、許しの執り成しの祈りだったから…。

十字架での死の、三日後の復活への最終関門だったのでしょうね。

ゲッセマネとは「油絞り」の意味であり、ここでオリーブ油が絞られたそうです。

 イエスは自らを絞られるオリーブになぞらえた…。

聖書にしばしば出る「油注がれた者」で注がれる油とはオリーブ油であり、絞られた場所はゲッセマネの事なのかも知れないですね。

 執り成しの祈りのためにゲッセマネで流された、血のようにしたたった汗の象徴が、オリーブ油…。

そして、ゴルゴダノ丘で流された贖罪の血の記念でも、あるかも知れないですね。

 それで、油注がれた者はメシア=キリストであるとともに、仲保者であるイエスの臨在の象徴ともなり得る…。

そうなのかも知れないですね。

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