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2013年12月

賀茂氏の小林もいた。

友人がこうつぶやいたのが、ずっと、気になっていました。

 私の親友が、結婚して小林になりました。

 確か、旦那様は北関東だったかしら。

 今は京都の下賀茂神社の近所に住んでます。

 これ偶然かなぁ~? 

賀茂の地名は、案外各地にあります。

 関東にも、ありますね。

 静岡県賀茂郡、結構小林姓多そう…。

そして面白いことに、賀茂と小林の繋がりを示す地名に気が付きました。

『播磨国内神名帳』の印南郡の項で、大塩天満宮氏子地域内にあったとされるものに、伊屋明神と旧小林村(別所町小林)字賀茂の賀茂明神があるのです。

現在、賀茂明神は氏子地域外である別所町北宿(旧北宿村)の氏神・加茂神社として残っていると言います。

旧大塩荘内において氏子別れ、分祀や合祀が行われていたそうです。

旧大塩荘には、大塩・別所・北宿・小林・北脇・西浜・牛谷の各旧村が含まれ、中世は大塩氏が支配、現在の姫路市大塩町、別所町、高砂市北浜町にあたります。

賀茂氏は秦氏の出、小林氏は藤原氏の出だが、藤原氏は秦氏の出です。

そして、小林氏、特に剣片喰の一族は神職の家系です。

 しかも、諏訪大社大祓の諏訪氏の系譜にも小林氏が見えたでしょ。

岐阜県の諏訪神社は今は美濃加茂市でかつては賀茂郡、つまり昔も今も加茂の付く土地にあります。

 諏訪氏も、賀茂にこだわった…。

小林村の氏神として賀茂明神は祀られていたとしたら、小林氏と賀茂氏の繋がりの一端が見えた気がします。

実際、八幡神社の神職に小林はいました。

八幡は秦氏の氏神であり、そこの神職ともなれば当然、一族である必要があります。

秦氏から藤原氏が出、藤原氏から小林氏が出た、つまり、小林氏は秦氏の出であり、神職の一族だとなります。

 そういえば、賀茂氏の系譜に繋がる小林姓も、確認できますね。

賀茂氏の一族は、神職の家系ですよ。

 諏訪氏からは肥田氏も出てたでしょ。

 賀茂氏から、祭司系の藤原氏や諏訪氏や小林氏や肥田氏などが出た…。

古代氏族の子孫としての田中氏も、神職の家系ですよ。

神職を務めた田中氏では、山城国石清水八幡宮の別当から出た紀姓田中氏、伊勢神宮外宮祠官渡会氏系の田中氏、その他、京都の鴨社、上総一ノ宮の神職に田中氏がいます。

古代には蘇我氏の一族や、凡河内氏の一族、百済系の田中氏もありました。

 これらの一族の正体は、秦氏であったと見る人もいるようですね。

もしそうなら、田中氏のこれらの一族も賀茂氏系の祭司の家系と見ても良いかも知れないですね。

 神職の子孫の系譜に出てくる一族は、基本的に神職の子孫と見て良い。

神職の血統に、それ以外の血筋を混ぜるわけにはいかないから、時代を遡れば遡るほど、神職の血統であり、賀茂氏の系譜である可能性は疑った方が良いでしょうね。

 北関東の小林さんが、下賀茂神社の近くに引っ越したのは偶然ではない…。

なんらかの繋がりや、事情はありそうですね。

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大国主とイエス?

稲荷とキリスト、えびすとキリスト、を疑ったことがありました。

稲荷と大国主についても、関係を探っている人がいる事に気が付きました。

そう言えば、以前、こういう疑問が寄せられていました。

稲荷は、復活の初穂としてのキリストを暗示しているのではないでしょうか。

油揚げは、油注がれた者としてのメシアであるキリストを暗示しているのではないでしょうか。
       
「西宮」とは、大国主西神社の事を指すとの説もあるそうです。

稲荷神の旧社家の大西家と大国主西神社は、無関係とは思えません。

これらの根が同じなら稲荷とえびすも同じになります。

十日戎はキリストを暗示しているとしか思えないのですが。

この疑問は、稲荷とえびすはともにイエスを暗示しているのではと言うことです。

けれど、「西宮」とは、大国主西神社の事を指すとの説もあると触れているということは、大国主もまた、イエスを暗示しているのではないかと言う問いかけでもありました。

 稲荷は、復活の初穂としてのキリストを暗示ということは、コリント人への第一の手紙第十五章十二節から二十節ですね。

さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。

もし死人の復活がないならは、キリストもよみがえらなかったであろう。

もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。

すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人が蘇らないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。

もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。

もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。

そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。

もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在である。

しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

ここで、イエスは初穂に例えられていますね。

 天の神である御父はすべての死人をよみがえらせられるが、イエスの復活はそのあかしとしての初穂であるということですね。

それでINRIに漢字をあてる際に意味と音の両方から稲の字を用いたとみれば、説得力は出ますね。

 油揚げを、肉の代用として調理に使うこともありますね。

そう見れば、油揚げが油注がれた者としてのメシアであるキリストを暗示しているとみても、面白いですね。

 いずれも、秦氏がキリスト教徒であれば、の話ですけど。

ただ、こういう解釈ができる事柄が多いこと自体、稲荷を氏神としたとされる秦氏にキリスト教徒説が出る原因になっているわけですがね。

 油と言えば、イエスはオリーブ山のゲッセマネで祈ってますね。

 ゲッセマネは油絞りの意味とすれば、イエスはオリーブに準えられ、油注ぎとは実は贖罪の祈りのイエスの象徴でもあるのでしょうね。

灯りをともしてそれを台の下に置くものがあろうか、台の上に置くではないかという意味の聖句もありますね。

ここで燃やされる油とは、イエスへの信仰と言うことでしょうね。

 照らすものという意味では、イエスは太陽にも擬せられますね。

イエスはモーセの十戒を成就させたとみる向きもある、日すなわち太陽の神とされる存在ですからね。

十日戎と十戒、戎と戒が字が似ていて、何かの意図を読み取れと言わんばかりな、思わせぶりなのは、確かですね。

 古代から現在のえびす神は、大国主であったという説もあったようですね。

「大国」はダイコクとも読めることから、同じ音である大黒様とも呼ばれる大黒天と習合して民間信仰に浸透していますね。

大国主の子の事代主(ことしろぬし)がえびすに習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになりました。

事代主は託宣神のほか、国譲り神話において釣りをしていたことから釣り好きとされ、海と関係の深いえびすと同一視され、海の神、商業の神としても信仰されています。

福神の中のえびすが大鯛を小脇に抱え釣竿を持っているのは、国譲り神話におけるこのエピソードによるものです。

美保神社(島根県松江市)、三輪惠比須神社(奈良県桜井市)長田神社(神戸市長田区)生夷神社(徳島県勝浦郡)のほか、恵美須神社(京都市東山区)、今宮戎神社(大阪市浪速区) などのえびすを祀る神社でも祀られています。

神にあっては、親子の順は必ずしも伝承によって一致しないこともあり、大国主とえびす神の混淆は十分あり得ますね。

西宮神社境内末社の大国主西神社は、延喜式神名帳では菟原郡で、西宮神社がある武庫郡とは一致しないです。

ところが、武庫郡と菟原郡の境界とされる西宮神社の約200m西側を流れる夙川(しゅくがわ)については、河道の変遷で古代は大国主西神社は菟原郡に所属したとの説もあるのです。

いずれにしても、えびす神を祀る神社の末社に大国主の社があるのは面白いことです。

 そうそう、稲荷神は古い時代出雲の神の大国魂神と繋がりがあるそうです。

現在の島根県安来市にあたる飯成(いいなし)郷の出雲国風土記の説話では大国魂命の降臨譚が述べられていて、倉稲魂命と共に意多伎神社(おたきじんじゃ)に祀られているのでしたね。

 意多伎神社の祭神は本殿に大国魂命と大田命、若宮に倉稲魂命が祀られていますね。

意多伎神社の由緒には、こうありますね。

当社は西暦724年(奈良時代初期)に勘造された出雲風土記(713年)や延喜式(927年)等に記載されている社であり、創立は遠く神代にさかのぼり、飯生大明神として今日まで顕然として栄え、崇敬者は出雲、伯耆にまでいたり、数千を数え、無上の崇敬と信仰をよせてきた社である。

意多伎神社の祭神・大国魂命

神代の昔、大国主命は、国土を開かんと、この地においでになって、人々を導き、朝夕自ら鍬、鋤をとられて、農耕をすすめられたと伝えられている。

この里はよほど地味が豊かで、大神のみ心に叶った美しい土地であったであろう。

出雲風土記の飯梨郷(イイナシノサト)のくだりに「郡家の南東32里なり。大国魂命、天降りましし時、ここに於て御膳食し給いき。故飯成(イイナシ)と云う」神亀3年(西暦726年)に字を飯梨と改む。と見えている。

大神は久しくこの地で農耕を教え医薬を授け、産業福祉の開発に力を尽し、人々の生活を安定して、平和な秩序ある社会を建設されたので、その功績の広大無辺であったところから、大国魂命と尊称して、この意多伎山に斉き祀ったのである。

飯梨郷(飯梨及び利弘(トシヒロ)、実松(サネマツ)、矢田、古川、新宮、富田、田原などの村のこと)ともいう、飯生(イイナリ)(東かがみの文治六年四月十八日の条には、飯生(イイナシ)と見えている。

(飯成、飯梨の語源は、飯生(イナリ)と考えられ、又、郡家とは、今の松江市大草町六所神社附近の国庁を云い、32里は17.105Kmで、丁度当地にあたる。)

飯成、飯梨の語源は、飯生(イナリ)と考えられる、つまり、稲荷と呼ばれる地に大国主は来たと言ってることになります。

 そして、若宮に倉稲魂命、要するに稲荷神が祀られている…。

 稲荷神と大国主は、同一神とも取れる話ですね。

実際、由緒にはこうあります。

若宮稲荷にます倉稲魂命

元は本社に合殿として祀ってあったが明治四年の遷宮の際、別宮を建立して若宮と称し之に奉遷したもので、当社を食師(ミケシ)というのは、この地で大国魂命に食膳を調達せられた神故に、当社に限り、食師神社と称え奉っている。

即ち衣食住の守護神であり、五穀の神として敬い奉っている。

倉稲魂命は大国主とともに、意多伎神社の祭神だったというのですからね。

 そうなると、気になるのは大田命ですね。

この神について、由緒はこう述べています。

御譯神社の祭神・大田命(相殿)

大田命とは猿田彦命の別命で、天孫降臨の際の誘導の神である。

大田神と称え奉るは、福縁を授け、衣食を守り給う時の尊称である、御譯とは教譯の意、又伎神として往来の人を守り、塩筒の翁として製塩の方法を教え、海上を守り、或はさいの神として夫婦の縁を結び、又置玉の神として寿命も守り給うなど人生の必要な事柄の守護神である。

大国魂命に従って当山に長く滞在され、大神の開拓事業の先立となってすべての教譯(オシエ)、接渉にあたり、円満に事を運んで大国魂命の大事業を翼賛せられた国津神である。

最後には五十鈴川の川上に鎮座し給う。

神幸式などで鼻高面をかむり、祓いするのは、この神をなぞらえたものである。

この五十鈴川の川上にあるのは、猿田彦神社です。

倭姫命世記によれば、猿田彦の子孫の太田命は 天照大神を祀る地として倭姫命に 五十鈴川川上の地を献上したとあるそうです。

太田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、神宮に玉串大内人として代々奉職し、伊勢神宮の式年遷宮に関する重要な祭典には必ずこの宇治土公家が奉仕していたと言います。

ちなみに、日本神話つまり古事記と日本書紀によれば、猿田彦大神は天孫「瓊々杵尊(ににぎのみこと)」の天降りの際天の八衢に出迎え、先導を終えた後、伊勢の五十鈴川の川上に鎮まったとあります。

ところが、意多伎神社は大田命とは猿田彦命の別命で、天孫降臨の際の誘導の神と言います。

 別命、すなわち、別名ととれば、大田命と猿田彦命は同一神となる…。

 これって、えびす神と稲荷神と大国主と太田命と猿田彦は、同一神ともとれる展開ですね。

 そして、えびす神と稲荷神にはイエスが連想できたから…。

 えびす神と稲荷神と大国主と太田命と猿田彦は、イエスと同一神と言う展開になりませんか…。

すでに、天照についても、大日をイエスと置けば、天照もイエスとなってしまうとみましたよ。

 じゃあ!

 天照=えびす神=稲荷神=大国主=太田命=猿田彦=イエスの構図になりますよ!

大日も、お忘れなく。

 大日=天照=えびす神=稲荷神=大国主=太田命=猿田彦=イエスの構図…。

これだから、日本の民俗探求は面白いわけですね。
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不確定性の裏に確定性も隠れていた?

「測定誤差と擾乱に関する不確定性関係」に関する「ハイゼンベルクの不等式」が破れていることがわかったという記事です。

注目したいのはここ。

2つの物理量がハイゼンベルクの不等式によって制限されると思われていたものよりも高い精度で同時に測定可能であることを示しているほか、実験結果は小澤の不等式を満たしているものの、小澤の不等式における下限値よりもかなり大きい領域にある一方で、ブランシアードの不等式の下限に近接しており、 理想的な実験を行った場合にはブランシアードの不等式が誤差と擾乱の関係の下限値を与えることが示された。

これが一体何を意味するのかです。

これまでの測定で、波動性の裏に隠れていた粒子性が示す性質が観測されたのかも知れません。

今後の研究成果の注目です。

"測定誤差と擾乱に関する不確定性関係"の新たな不等式の検証に成功 -東北大
  [2013/12/25]

東北大学は12月25日、量子力学の基本原理の1つである「測定誤差と擾乱に関する不確定性関係」に関して、「ハイゼンベルクの不等式」が破れており、「小澤の不等式」ならびに、2013年に新たに提案された「ブランシアードの不等式」が成立していることを、量子状態の弱値を得ることが可能な「弱測定」を用いた実験で検証することに成功したと発表した。

同成果は、同大電気通信研究所の枝松圭一 教授、名古屋大学大学院情報科学研究科の小澤正直教授らによるもの。詳細は2013年12月26日付の米国物理学会論文誌「Physical Review Letters」オンライン版に掲載される予定だ。

これまで研究グループは、量子力学の基本原理の1つである「測定誤差と擾乱に関する不確定性関係」として知られる「ハイゼンベルクの関係式」が破れており、名大の小澤教授が発見した新しい関係式(小澤の不等式)が成立していることなどを明らかにしてきたが、小澤の不等式のがε(A)=0またはη(B)=0ではない場合、両辺の等号が成立する場合があるのか、より厳しくかつ常に成立する不等式は存在するのかなどの疑問が残されていた。

こうした謎の解明に向け、2013年にはオーストラリア・クイーンズランド大学のCyril Branciard博士が小澤の不等式を改良し、ε(A)=0またはη(B)=0以外の場合にも等号が成立する場合がある、より厳しい関係式(ブランシアードの不等式)を導き出していた。

015

ブランシアードの不等式

また、同博士は、電子スピンの向きの測定や光子の偏光の測定の場合などにおいて成立するさらに厳しい不等式も導きだしており、この不等式が理想的な場合には両辺の間に等号が成り立つことが判明していたが、これらの不等式(ブランシアードの不等式)の実験的検証が求められていた。

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電子スピンの向きの測定や光子の偏光の測定の場合などにおいて成立するブランシアードの不等式

そこで研究グループは今回、光の偏光に関する計測法「弱測定」を用いて、小澤の不等式とブランシアードの不等式が成立すること、ならびに測定された誤差と擾乱の関係が、ブランシアードの不等式が予言する限界に近いものとなっていることを実験的に確認することに成功した。

具体的には、光の量子である「光子」の偏光を用い、縦横方向の偏光測定の強度を変化させたときの、「縦横方向の偏光測定における誤差」および「その測定によって斜め45度方向の偏光が受ける擾乱」を計測。

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図2 MAにおける縦横方向の偏光測定の強度(横軸)を変化させたときの、「縦横方向の偏光測定における誤差(青線)」および「その測定によって斜め45度方向の偏光が受ける擾乱(赤線)」の計測結果。○と□が計測結果で、破線は理想的測定装置の理論値、実践は実際の測定装置の性能を加味した理論値。測定強度が大きくなるに伴い、誤差は減少する一方、擾乱は増大し、両者の間にトレードオフの関係があることがわかる

測定誤差と擾乱の計測に用いられた弱測定法は、誤差や擾乱の計測を行いたい実験装置(MA)の前段に弱測定の実験装置(WP)を配置し、WPの測定結果とMAの測定結果を比較することで、MAの誤差や擾乱を計測することができるもので、今回の実験では、測定の強さが弱いWPを採用し、測定対象となる系(=光子の偏光状態)をほとんど変えることなく、精密に誤差や擾乱を評価する手法を開発した(この測定系はブランシアードの不等式が成立するための必要な条件を満たしている)。

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光子の偏光における弱測定法を用いた測定誤差と擾乱の計測装置。半導体レーザー(LD)から出た光は単一光子レベルまで減光された後、円偏光として装置に入射する。中央の黄色の部分が弱測定(WP)の実験装置で、縦横偏光(誤差の計測の場合)あるいは斜め45度方向(擾乱の計測の場合)のいずれかの偏光測定を弱い測定強度で行う。その後の水色の部分が主測定装置(MA)であり、縦横方向の偏光測定を種々の測定強度で行う。その後の紫色の部分(PM)は斜め45度方向の偏光測定を行う。各々の測定装置によって2光路のどちらかに出力された光子は、最後に8台の検出器のいずれかで検出される。光子がどの検出器で検出されたかによって、WP、MAおよびPMの測定結果がわかる。WPの測定結果とMA(PM)の偏光測定の結果を比較することで誤差(擾乱)を計測する

MAにおける測定の強度(横軸)を変化させたときの、誤差および擾乱に関する不等式の成立状況を見ると、図から、ハイゼンベルクの不等式の左辺は右辺を下回り、不等式が破れているのに対し、小澤の不等式ならびにブランシアードの不等式が保たれていることが分かった。特に、ハイゼンベルクの不等式の左辺は、不等式が予言する下限C=0.995に近い値となっており、同不等式において等号が成立する条件に近い状態が実現されていることが分かったほか、光学素子(偏光プリズム)の不完全性を考慮した場合の理論値と比べても実験値をよく再現していることが判明した。

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MAにおける測定の強度(横軸)を変化させたときの、誤差および擾乱に関する不等式の成立状況。○や□などのマークは実験結果。破線は理想的測定装置の理論値で実線は実際の測定装置の性能を加味した理論値。青線がハイゼンベルクの不等式の左辺、赤のデータが小澤の不等式の左辺、紫および緑のデータがブランシアードの不等式の左辺。不等式の右辺はいずれもC=0.995で、中央のグレーの実線で表されている。ハイゼンベルクの不等式の左辺は右辺を下回り、不等式が破れているのに対し、その他の不等式は保たれていることが分かる。中でもブランシアードの不等式(緑側)の左辺の実験値は下限値C=0.995に近いことが分かる

さらに誤差と擾乱に関する測定結果と不等式の下限値を、誤差を横軸、擾乱を縦軸にプロットしてみると、実験び結果はハイゼンベルクの不等式を破り、他の不等式は満たす領域にあることが判明。このことは、2つの物理量(この場合は縦横方向偏光と斜め45度方向の偏光)に関する誤差と擾乱がハイゼンベルクの不等式から予言される下限値よりも小さいこと、つまり、2つの物理量がハイゼンベルクの不等式によって制限されると思われていたものよりも高い精度で同時に測定可能であることを示しているほか、実験結果は小澤の不等式を満たしているものの、小澤の不等式における下限値よりもかなり大きい領域にある一方で、ブランシアードの不等式の下限に近接しており、 理想的な実験を行った場合にはブランシアードの不等式が誤差と擾乱の関係の下限値を与えることが示された。

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誤差と擾乱に関する測定結果と不等式の下限値を、誤差を横軸、擾乱を縦軸にプロットしたもの。黒丸は実験結果。黒点線は実際の測定装置の性能を加味した理論値。青の実線がハイゼンベルクの不等式、赤の点線が小澤の不等式、紫の破線および緑の一点鎖線がブランシアードの不等式における下限値。各々の下限値より左下方は不等式を破る領域で、実験値はハイゼンベルクの不等式を破り、他の不等式は満たす領域にある。特に、ブランシアードの不等式(緑線)の下限に近接していることがわかる

今回の研究について研究グループでは、新たに提案されたブランシアードの不等式に対する初の検証実験であり、小澤の不等式よりも厳しいブランシアードの不等式が検証されるとともに、誤差と擾乱が達し得る下限に関して新たな知見に達することができたとする。また、弱測定法は、誤差と擾乱を計測する以外にも、被測定系の状態を変化させずに物理量を計測する一般的な計測法として期待されてきており、今回の研究で用いた被測定系の状態をほとんど変化させないほぼ理想的な弱測定系の実現により、誤差と擾乱に関する明瞭な検証実験が可能になったで、物理のみならず科学技術一般に広く行われる「測定」という行為に対し根本的な制限を課す「不確定性関係」への見直しとなることはもちろん、従来の不確定性関係の枠を超えた超精密測定技術や新たな量子情報通信技術の開発などの多くの応用を拓くことが期待できるとコメントしている。

また、光子の偏光は、各々の測定結果は2通り(例えば縦偏光と横偏光のどちらか)となる点で、電子や中性子における「スピン」と同じ2次元系とみなせることから、今後は、さらに次元の高い物理状態や、ハイゼンベルクのガンマ線顕微鏡の思考実験で出てくる位置と運動量などのように、連続的な値を取り得る物理状態に対する不確定性を検証する実験にも取り組んでいき、不確定性に関するさらなる理解と応用を広げていければとしている。

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電子のさざ波の正体は何?

興味深い記事が出ました。

電子のさざ波観測に成功したというのです。

この波が果たして、数学的な、あるいは、確率論的な波でしょうか。

当然、物理的な波と解釈するのが自然と思います。

量子力学は、当初、光の研究から始まったのであり、光の波動性は物理的だったからこそ、媒質の有無が問題になったはずです。

北大と筑波大、10fs以下の時間のみに存在する電子のさざ波の観測に成功

日野雄太  [2013/12/25]

北海道大学(北大)と筑波大学は12月20日、10-14秒以下の(10fs以下)の短い時間内しか発生しない、電子のさざ波の動きを観測したと発表した。

同成果は、北大 電子科学研究所の三澤弘明教授、筑波大学 数理物質系の久保敦講師らによるもの。

詳細は、Nature Publishing Groupの「Light:Science & Applications」に掲載された。

近年、地球規模で環境・エネルギー問題が顕在化しつつあり、光触媒や色素増感太陽電池などといった光をエネルギー源・駆動源とする光化学の研究は一段と重要性が増している。

真の低炭素社会を実現するためには、光エネルギーを余すところなく利用できる光反応場の構築が強く求められている。研究グループでは、この光子の有効利用の概念を世界にさきがけて提唱し、金属ナノ構造が示す光アンテナ効果により光エネルギーを高効率に利用する光-分子強結合反応場の創成を目指して、研究開発を推進してきた。

また、金属ナノ構造が示すプラズモン共鳴に基づく光アンテナ効果を太陽電池や人工光合成など種々の光エネルギー変換系に適用する、高効率な光エネルギー変換デバイスの開発も進めている。

今回、透明な半導体として知られる酸化チタン単結晶基板上に、光アンテナ構造として髪の毛の太さの1/1000程度の金ナノ構造を高密度に配置した基板を作製し、フェムト秒レーザ(パルス幅:7fs)を励起光源とした光電子顕微鏡(空間分解能:7nm)により、金ナノ構造に誘起される局在表面プラズモン共鳴の光電場強度分布や位相緩和過程をポンプアンドプローブ法により追跡した。

この結果、光アンテナ機能を有する金属ナノ構造体が光電場と強くカップリングすることにより光を微小空間に束縛し、閉じ込める物理現象を高い空間分解能で計測することに成功した。

そして、図1のように、ナノギャップを有する金構造体を光電子顕微鏡で確認した。

図の輝点は、金属ナノ構造がアンテナとなって光エネルギーを捕獲し、それを超微細な領域であるナノギャップに凝集できていることを示している。

これには、光子の有効利用を促進する効果がある。また、光の速度が高速のために、このようなナノ構造体に光は10-15秒以下の時間帯しか相互作用できないが、プラズモンの波は光が通り過ぎた後もしばらく継続し、10-14秒以下ほどで減衰する様子が観測された。

さらに、計測された光電子顕微鏡像を2つ目のレーザ光パルスの遅延時間を変化させて測定し、コマ写真の要領で並べると、プラズモンの波と光の波の位相の重なり程度により明滅を繰り返し、減衰する過程が観測された。

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図1 ナノギャップを有する金構造体の光電子顕微鏡像(水銀ランプ+フェムト秒レーザ励起)。挿入図は、典型的なナノギャップ金構造体の電子顕微鏡写真

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図2 光電子顕微鏡像および光電子強度のレーザ光パルス(プローブ光)の遅延時間依存性

近年、金ナノ微粒子は半導体基板と組み合わせることにより、可視光や赤外光を高効率にエネルギーに変換する太陽電池や人工光合成系の光アンテナとして注目されている。

今回の成果は、金ナノ構造が示すプラズモン増強による光電場強度分布やそのダイナミクスを明らかにしたものであり、この測定法は金属から半導体への電子移動反応サイトの解明や素過程の追跡において有用な方法になると考えられる。

今後、プラズモン光アンテナを用いた光エネルギー変換デバイスの高効率化に向け、この方法論が活用されていくものと期待されるとコメントしている。

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ネコの骨は何を語る?

ネコが人と暮らし始めたのは約4000年前のエジプトであったと言う定説が、8000年前のキプロスの遺跡で疑問視され、さらにそれに追い打ちをかける報告が出ました。

ネコの家畜化、餌で裏付け=5500年前の骨分析―穀類多く食べる・中国の遺跡

時事通信 12月17日(火)5時9分配信

中国陝西省の遺跡で発掘された5500~5300年前のネコの骨を分析したところ、アワやキビなどの穀類を多く食べ、人間に飼われていた可能性が高いことが分かった。中国科学院と米ワシントン大の研究チームがネコの家畜化の過程を裏付ける最古の証拠として発表した。論文は17日以降、米科学アカデミー紀要電子版に掲載される。 

2013年12月17日 13時10分13秒

イエネコの起源が5300年前の古代中国であるという証拠が中国の農村から発見される

By Kenny (zoompict) Teo

犬と並んで世界中でペットとして暮らしているイエネコの発祥はいつ・どこからなのか?という説には、「約4000年前の古代エジプト起源説」や、さらに古くは「約8000年前の古代キプロス起源説」といったものもあります。そんな中、ワシントン大学が、5300年前の古代中国の農村があった場所から、人間と猫が共生関係にあったことを示すイエネコの骨が発見されたことを発表しました。

Cat domestication traced to Chinese farmers 5,300 years ago | Newsroom | Washington University in St. Louis
https://news.wustl.edu/news/Pages/26273.aspx

これまで、「いつからどこでヤマネコが家畜化されてイエネコになったのか」ということは定かではありませんでしたが、ワシントン大学で考古学を研究するフィオナ・マーシャル教授によると、ASUの中国調査チームのSongmei Hu氏たちによって、5300年前の古代中国の農村があった場所から世界で初めてイエネコ発祥の直接的な証拠となりうる、2匹以上の猫の骨格が発見されたとのこと。

発見された猫の骨格に対して放射性炭素年代測定法および炭素・窒素を用いたアイソトープ分析を行ったところ、耕作物を食べるげっ歯類を食べていたことが判明。また、2匹の猫のうち一方は高齢だったこともわかっており、穀物を狙うげっ歯類に引き寄せられて、少なくとも人間の村の近くで食物をとっていたことを示唆しています。

さらに、同時代の穀物の貯蔵穴が穴を掘るげっ歯類を防ぐ設計であったため、古代の農民がげっ歯類に対して問題を抱えていたことを表しており、猫をネズミなどげっ歯類の対策として飼っていた可能性も考えられます。

近年のDNA研究から、世界に6億匹存在するイエネコのほとんどは「近東由来のリビアヤマネコ」の子孫であることがわかっており、今回猫の骨格が発見された中国の農村エリアにはリビアヤマネコの亜種は生息していなかったため、イエネコ起源の証拠としては確定的とまでは言えませんが、今後この猫が近東由来のリビアヤマネコに近い子孫であることが判明すれば、イエネコ起源中国説はより確実となると考えられます。

今回の記事はイエネコに関するものです。

日本でも縄文の遺跡からネコの骨は出ているが、ヤマネコと見なされているために、たとえ人里に出没していても、一緒に暮らしていたとか、飼われていたとは見做されていないわけです。

 家畜化されたネコの起源としてはそうでしょうね。

 でも、日本のヤマネコがどれくらい人になついていたか、人を警戒していなかったか、気になりますね。

死体が人の手で処理された以上、ネズミを狙って頻繁に人里に出没し、大いに感謝されていた可能性は高かったと思いますよ。

 縄文は現代の我々が考える以上に、経済的に発展していましたからね。

ネコは体が弱ると人目を避けて隠れ、そのまま死んでしまう場合が多い事を思えば、どこでどのように死んだネコの骨か、と言うことはもっと気にされて良いはずです。

もしも、人に見とられて死んだネコの骨であったなら、たとえ飼われていなかったとしても、限りなく現代の地域ネコに近かったかもしれないからです。

少なくとも、人に見つかる可能性が高いところで死んでいた可能性が高い以上、このヤマネコたちは人をあまり警戒してなかったことになりませんか。

 地域ネコであってさえ、死に際を見とれる可能性が低い事を思えば、人の手で処理されたネコの骨があることの意味は、もっと注目されて良い。

そう思いますね。

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これだから、猫と科学は止められない。

ちょっと古いネタだけど、猫と科学の好きな私としては、壺にはまった記事がありました。

なお、この記事で紹介されている「最新デジタル宇宙大百科」は、アストロアーツ オンラインショップでは完売したが、全国の書店、ネット書店、望遠鏡ショップなどで買えるそうです。

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めったにない偶然の産物、猫型天体

【2005年11月29日 Chandra Photo Album

大マゼラン雲にある超新星残骸DEM L316の可視光写真に、NASAのX線観測衛星チャンドラによるX線画像を重ねると、猫のような姿が浮かび上がった。左上の顔の部分には耳があるように見えるし、右下の胴体の部分には、長いしっぽがついている。もっとも天文学者がこの画像に着目するのは、猫が好きだからではなくて、DEM L316が異なる2つの超新星残骸が重なって見えている、非常に珍しいものだからだ。

超新星残骸DEM L316の画像

超新星残骸DEM L316の画像(提供:X線画像: NASA/CXC/U.Illinois / R.Williams & Y.-H.Chu; 可視光画像: NOAO/CTIO/U.Illinois/R.Williams & MCELS coll.)クリックで拡大

超新星残骸 DEM L316が左上の「猫の頭」と、右下の「猫の胴体」の2つに分かれているのは明らかだ。それぞれ異なる超新星爆発によってつくられた残骸である。これほど近くに残骸が並んでいるとは珍しい、爆発で吹き飛んだガスが衝突を起こしているのでは……と思いたくなるが、どうやらそうではなさそうだ。

チャンドラのX線による観測では、猫の頭にあたる残骸からは胴体の部分に比べてかなりの量の鉄が存在することがわかった。これはIa型超新星と呼ばれるタイプの爆発の結果と考えられる。白色矮星と普通の恒星が非常に接近した連星では、白色矮星へガスが流れ込み、臨界に達して暴走的な核融合反応が起きることがある。これがIa型超新星だ。

一方、猫の胴体にあたる残骸は鉄が少ないなどの特徴からII型超新星と見られている。太陽質量の8倍以上の恒星は最後に重力崩壊を起こして大きなエネルギーを解放するが、II型超新星もこうした超新星爆発の一種である。

同じ超新星といってもまったく異なる起源を持つ2つの残骸だが、何よりも異なるのは、元の天体が爆発を起こすまでの時間だ。白色矮星になるのは太陽と同じ程度の質量の恒星で、核融合反応はゆっくりと進むため、反応を終えて白色矮星になるまで数10から100億年以上かかる。それに対して重力崩壊による爆発を起こすほどの大質量星は、核融合も急速に進むので寿命はわずか数100万年だ。

2つの超新星の由来やタイムスケールが全く異なることを考えると、両者がお互いに影響を及ぼすことなく近くで爆発したとは考えにくい。従って、1匹の猫の頭と胴体に見える2つの天体は、実はたまたま重なって見えているだけで、本当は遠く離れているのだ。とはいえ、まったく関係のない2つの超新星残骸が重なって1つの天体に見えること自体、十分珍しいことには違いない。


超新星残骸:超新星の爆発で吹き飛んだガスがつくる残骸。球殻状に広がりながら周囲の星間ガスと衝突し、その衝撃波でガスが加熱されるなどしてX線や電波を発している。かに星雲をはじめとして、はくちょう座の網状星雲、ケプラーの超新星残骸、ティコの超新星残骸などが有名である。(「最新デジタル宇宙大百科」より(一部抜粋))

<参照>

<関連リンク>

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田中氏

田中氏は、日本の氏族のうちのひとつです。

同音異姓に田仲、多中、他中があります。

明治新姓として多くの平民が名乗ったことから、非常に多くの氏族に亘って存在します。

田中というから、百姓の出と思いきや、むしろ地名にちなんでついた場合の方が多いと指摘されます。

 「たんぼの中に住んでいたから、田中になった」などと言う、俗説では説明がつかない…。

地名の由来としては、「西田」「東田」など屋敷地の位置関係を示す意味での「田中」や、土地の中心的な所有者であることを示す意味での「田中」などが考えられます。

全国には「田中」を冠する地名は60ヶ所以上あるというが、小字名を含めれば相当数になるはずです。

 田中氏は、むしろ、地域の中心的存在でさえあった…。

庄屋であった例がありますよ。

庄屋や名主は、江戸時代の村役人である村方三役とも言う地方三役のひとつ、あるいは町役人のひとつです。

 田中と言う場合は、村方三役でしょ。

村方三役としての庄屋の身分は百姓であったが、地元の有力な豪農が多く、戦国大名の家臣だった者も少なくないのです。

伊達、宇和島藩系田中家は、宇和島藩領高山浦の庄屋でした。

宇和島藩は、慶長19年(1614年)12月28日、伊達秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ、慶長20年(1615年)3月18日に板島丸串城(宇和島城)に入城した事から、正式に成立しました。

秀宗は戦国の世に『独眼龍』と称された仙台藩主伊達政宗の庶長子です。

秀宗入府のときの家臣団は米沢時代の「伊達57騎」の中から選ばれたものだったため、仙台藩とは直接関係がないです。

高山浦の庄屋・田中家の出自は、どこに遡れるかは、調べる必要はありそうです。

田中氏の中には、『古事記』や『新撰姓氏録』にも記される由緒ある古代氏族があります。

その出自もいろいろで、古代には蘇我氏の一族や、凡河内氏の一族、百済系の田中氏もありました。

百済系では、田中連公麿が大仏鋳造に活躍し、朝廷より四位を授けられています。

また古代からの田中氏には、神官や神職が多いのもこの姓の特色です。

神職を務めた田中氏では、山城国石清水八幡宮の別当から出た紀姓田中氏、伊勢神宮外宮祠官渡会氏系の田中氏、その他、京都の鴨社、上総一ノ宮の神職に田中氏がいます。

このように田中氏は出自が多彩なだけに、家紋も実に多様です。

家紋は「酢漿草(片喰)」紋のほか、蔓木瓜・三つ巴・丸に四つ目結・細輪に蔦・丸に違い矢などがあります。

大和国から出た田中氏としては、天津日子根命の後裔で高市郡田中から起こった田中直、武内宿禰の後裔という蘇我氏の一族である田中臣が知られます。

田中臣は、のちに朝臣姓を賜り、子孫は南北朝時代に大和武士として活躍しています。

吉政系田中氏の出自は、近江国人で近江源氏とも橘氏ともいわれます。

とはいえ、吉政の父の名も系図により食い違うなど判然とせず、実際は近江国高島郡田中村(滋賀県高島市安曇川町田中)の農民の子にすぎなかったともいわれます。

 でも、田中姓は、たんなる農民ではつかない名前だったでしょ。

吉政系田中氏は、家紋に釘抜き紋ともいう「一つ目結」紋をもちいたことから、なんらかの形で先祖は佐々木氏と血縁関係があったと推測されます。

佐々木氏は、近江国を発祥の地とする宇多源氏の一流です。

宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木庄に下向し、その地に土着した孫の経方が佐々木を名乗ったことから始まるとされます。

だが、これには異説もあり現在も議論されています。

武家の田中氏は地名によったものが多く、その出自も多彩です。

近江国高島郡から起こった田中氏は、近江源氏佐々木氏の一流高島氏の別れで高島七頭の一として勢力がありました。

また、佐々木京極氏から出た田中氏、愛智氏から分かれた田中氏など近江には佐々木氏系の田中氏が多いです。

豊臣秀吉に仕えて大名に出世した田中吉政も近江の出身だが、高階氏の後裔とも橘氏の流れともいいます。

高階氏は、天武天皇の長子、高市皇子を祖とします。

橘氏は、県犬養三千代(橘三千代)・葛城王(橘諸兄)を祖とする皇別氏族で、飛鳥時代末から橘宿禰(のち朝臣)姓を称しました。

近江の隣美濃国池田郡から出た田中氏は清和源氏土岐氏の後裔、甲斐源氏からは安田義定の子義輔が山梨郡田中によって田中を称し、上野国では新田郡田中から起こった清和源氏新田一族の田中氏がいます。

新田系田中氏は新田義貞に従って各地を転戦、北九州・四国・越後などに広まりました。

里見系田中氏は、新田系里見氏一族です。

新田氏は、上野国(群馬県)を発祥とした豪族です。

本姓は源氏で、家系は清和源氏の一流河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖とする上野源氏の総称で、義国流足利氏と同族です。

里見義俊(大新田竹林太郎)の次男・田中義清を開祖とします。

『千家系譜』、『千利休由緒書』によると、安土桃山時代の茶人・千利休(田中与四郎)はその末裔と称したが、確証はないそうです。

ちなみに、岩松系田中氏は、足利系岩松氏一族です。

畠山義純の次男・田中時朝を開祖とします。

明治時代の田中正造はその末裔といいます。

播磨国の田中氏は播磨の大族赤松氏の分かれで、赤松氏範の子氏勝が田中を称したことに始まるといいます。

赤松氏は、鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した武家です。

赤松氏は村上源氏・堀川大納言定房の孫の源師季に始まり、師季の子の源季房(季方とも)が播磨佐用荘に配流され、後裔の宇野則景が建久年間に北条義時の婿になった縁で赤松村地頭職に補任されたことから、嗣子家範が赤松氏を称したと言われています。

しかし、季房から則景まで7代もあることから、信憑性に関する賛否があるそうです。

また、三河国作手の豪族である奥平氏は赤松氏の末裔と称しました。

その他、阿波国海部郡から出た田中氏、陸奥行方郡から起こった相馬氏系田中氏、肥前国彼杵郡からは河野氏系と藤原氏系の二つ田中氏が出ました。

 相馬氏は、下総国北西部(現在の千葉県北西部)や陸奥国南東部(現在の浜通り夜ノ森以北)を領した大名で、桓武平氏良文流千葉氏の支流でしたね。

 河野氏は、伊予国(愛媛県)の有力豪族で、越智氏の流れを汲むとされるのですよね。

 そして、越智氏は古代日本の伊予国(愛媛県)の豪族の一つで、大和国にも清和源氏頼親流の越智氏がある。

 さらに、あの有名な藤原氏…。

 すごいですね…。

 そうなると、阿波国海部郡から出た田中氏も気になりますね…。

さらに、伊豆国田方郡田中から北条氏系、豊後国大野郡田中からは大友氏系と、全国各地から田中氏は発生しています。

 北条氏は桓武平氏高望流の平直方の子孫を称し、伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族だけど…。

 現在伝わる北条氏系図は、いずれも時政以前の系譜は系図により全て異なるので、出自について疑問があるそうですねえ…。

 とはいえ、大友氏は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現大分県)を本拠とした一族。

 初代当主の大友能直は、相模国愛甲郡古庄の郷司の近藤能成(古庄能成とも)の息子として生まれた。

 父の能成は、藤原秀郷の子の千常の6代後の近藤景頼の子とするのが通説であるが、藤原利仁の9代後の近藤貞成の子であるという説もある。

 そうそうたる血筋が、多いですね、田中氏…。

植松系田中家は、村上源氏流の岩倉家庶家である植松家出身の子爵・植松雅徳の子・植松雅行が田中家と称しました。

 高山浦の庄屋・田中家は、伊予の国だけどまさか…。

どうなんでしょうねえ…。

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日本ではなぜ蓮の台座で差し支えなかった?

十一面観音は、国宝、重要文化財等の指定名称で、大光普照(だいこうふしょう)観音とも、十一面観音菩薩、十一面観世音菩薩など様々な呼び方があります。

「救わで止まんじ」の誓願を持つがゆえに、大悲闡提とも呼ばれます。

頭上の11面のうち、前後左右の10面は、菩薩修行の階位である十地を表し、最上部の仏面は仏果を表すとされます。

通例、頭頂に仏面、頭上の正面側に菩薩面(3面)、左側(向かって右)に瞋怒面(3面)、右側(向かって左)に狗牙上出面(3面)、拝観者からは見えない背面に大笑面(1面)を表します。

頭上の11面は全体では、衆生の十一品類の無明煩悩を断ち、仏果を開かしめる功徳を表すわけです。

六道それぞれの衆生を救う6体の観音を、六観音といいます。

密教では、修羅道に十一面観音を配します。

残りは、地獄道に聖(しょう)観音、餓鬼道に千手観音、畜生道に馬頭観音、人間道に准胝(じゅんでい)または不空羂索(ふくうけんじゃく)観音、天道に如意輪観音となります。

十一面観音は密教の尊格であり、密教経典(金剛乗経典)の十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経(不空訳)、仏説十一面観世音神咒経、十一面神咒心経(玄奘訳)に説かれています。

十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経によれば、10種類の現世での利益(十種勝利)と4種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすと言われます。

十種勝利

離諸疾病(病気にかからない)

一切如來攝受(一切の如来に受け入れられる)

任運獲得金銀財寶諸穀麥等(金銀財宝や食物などに不自由しない)

一切怨敵不能沮壞(一切の怨敵から害を受けない)

國王王子在於王宮先言慰問(国王や王子が王宮で慰労してくれる)

不被毒藥蠱毒。寒熱等病皆不著身(毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない。)

一切刀杖所不能害(一切の凶器によって害を受けない)

水不能溺(溺死しない)

火不能燒(焼死しない)

不非命中夭(不慮の事故で死なない)

四種功德

臨命終時得見如來(臨終の際に如来とまみえる)

不生於惡趣(悪趣、すなわち地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない)

不非命終(早死にしない)

從此世界得生極樂國土(今生のあとに極楽浄土に生まれ変わる)

また、この十一面はあまねく方位を見るためともされます。

 あまねく方位と言いながら、十一では数が合わないでしょ。

全方位に守りを固めるため、十二神将が配されるくらいですからね。

金毘羅童子、宮比羅とも呼ばれる宮毘羅(くびら、こんぴら)大将の本地仏は弥勒菩薩で、亥神に配されます。

金剛力士とも呼ばれる伐折羅(ばさら)大将の本地仏は勢至菩薩で、戌神に配されます。

迷企羅(めきら)大将の本地仏は阿弥陀如来で、酉神に配されます。

安底羅(あんちら、あんていら)大将本地仏は観音菩薩で、申神に配されます。

頞儞羅(あにら)大将の本地仏は如意輪観音で、未神に配されます。

珊底羅(さんちら、さんていら)大将の本地仏は虚空蔵菩薩で、午神に配されます。

帝釈天とも呼ばれる因達羅(いんだら)大将の本地仏は地蔵菩薩で、巳神に配されます。

波夷羅(はいら)大将の本地仏は文殊菩薩で、辰神に配されます。

摩睺羅伽(マホーラガ)とも呼ばれる摩虎羅(まこら)大将の本地仏は大威徳明王で、卯神に配されます。

緊那羅(キンナラ)とも呼ばれる真達羅(しんだら)大将の本地仏は普賢菩薩で、寅神に配されます。

招杜羅(しょうとら)大将の本地仏は大日如来で、丑神に配されます。

毘伽羅とも記される毘羯羅(びから)大将の本地仏は釈迦如来で、子神に配されます。

間際らしいのが、十二天です。

十二天とは、仏教を守護する12の天尊のことです。

四方・四維の八天、上・下の二天、日・月の二天からなります。

帝釈天(たいしゃくてん)(東)・火天(南東)・閻魔天(えんまてん)(南)・羅刹天(らせつてん)(南西)・水天(西)・風天(北西)・毘沙門天(びしゃもんてん)(北)・伊舎那天(いしゃなてん)(北東)、梵天(ぼんてん)(上)・地天(下)、日天(日)・月天(月)。

十一面観音は、十一の数が生命の樹のダートを含めたセフィロトの数と同じなので、生命の樹を表すという解釈も出来ます。

だが、それでは、あまねく方位という説明の裏付けにはなりません。

陰陽では北は天に配されるので、十二方位の残りの十一方位とすれば、あまねく方位の説明となるのではないでしょうか。

 十一面観音の、方位のことだけ言いたかったのですか。

日本の仏教では、仏は蓮に乗った姿が定番でしょ。

 初期のころは、椅子のような四角の台座があったと思いますが。

なぜ、四角の台座が日本では廃れたと思いますか。

半跏思惟のような姿は、蓮の台座よりは椅子のような台座の方が、表現しやすいはずでしょ。

さらに言えば、交脚姿勢の仏像は日本では半跏思惟像以外ないでしょ。

 交脚姿勢の表現を諦めてまで、蓮の台座にこだわった…。

神仏混交本地垂迹では、大日を本地とすれば天照が垂迹でしょう。

 天照は、皇祖神ですね。

天皇には、三五の桐紋もあるが、有名なのは菊花紋でしょ。

そして、天照は太陽神だから、菊花紋は太陽神の象徴でもあるわけですよね。

 一方、仏の象徴は蓮ですね。

神道では全ての神は天照の化身、仏教では全ての仏は大日の化身ですね。

 主仏は皆、大日に帰することを一目で見てわかるようにする必要があった。

さらにいえば、幕末から明治にかけて日本に来た欧米人は、皇族の顔を見て中東起源と感じたそうですよ。

日本には、古代中東のYAP遺伝子が濃く残るが、これは最も古いD系統に属するとされています。

 皇族の率いた天孫一族は大陸から来たが、皇族の顔は彫の深い中東系…。

今は亡き、イラクのフセイン大統領はヨーロッパの記者からの腕輪の紋章は皇室と関係あるかとの問いに、中東古来の王家の紋章だと一笑しましたね。

 日本では菊花紋と呼ばれるが、中東では太陽の象徴ですよね。

大陸渡来の皇族は、当然、菊花紋が太陽の象徴であることを承知で、太陽神天照の末裔と称する自らの紋章にしたと見る方が、自然でしょ。

 本地垂迹は、象徴の花にまで、徹底した…。

だが、なぜ、交脚の仏像は作られたのでしょう。

 逆に言えば、交わる、つまり、クロスを表現できさえすれば、足の位置にこだわることはない…。

さらにいえば、立像では交脚は不可能ではないが、不自然でしょ。

 交差さえ表現できれば、足にさえこだわらなくて良い…。

仏の坐像、良く見てください。

 両足の裏が見えている場合が、多い…。

足を交差させないと、そうはならないでしょう。

さらに、衣に注目してください。

背面も、含めて…。

 さりげない交差が、表現される様式ですね。

交差、つまり、クロスですよね。

もろもろの仏は、大日の化身です。

 ザビエルたちは、大日をイエスの訳としようとしたが、断念してますよね。

太陽神信仰をイエス信仰に摩り替えて、現地の宗教を乗っ取ろうとしてきた布教作戦は、日本では採用できなかったのは、神仏混交本地垂迹だったからですよ。

 そうでなければ、大日をイエスの訳として日本仏教を乗っ取る作戦は、成功したかもしれない。

大乗仏教成立の背後には、キリスト教がありました。

 大日をイエスの本地として割り込んでしまえば、乗っ取りは容易だった…。

それが断念されたのは、日本では天皇が地上における大日の代理であり、天照の末裔だったからです。

 天皇がイエスの末裔であることは否定できても、イエス直系のキリスト教団の末裔である可能性までは否定できない…。

バチカンと言えども、エルサレム教団の全てが帰ってきているとは言ってないでしょ。

 大陸のどこを探してもない以上、そして、神が作りたもうたエルサレム教団が滅びるわけがない以上、どこかにないといけない…。

さらに、東にプレスタージョン率いる強大なキリスト教国あると言い伝えられているのに、大陸のどこにもないでしょ。

大日をイエスと置けば、天皇はエルサレム教団のトップとしてキリスト教国日本を率いる構図になるとは、言えませんか。

 日本が、プレスタージョン率いる強大なキリスト教国と認めざるを得ない展開さえ、予想されますね。

それはさておき、クロスを象徴とする太陽神となると、思い出しませんか。

 古代アメリカの太陽神も、クロスを象徴としていましたね。

そして、アメリカ先住民は日本先住民の親戚であることは、遺伝子、土器、寄生虫によっても裏付けられました。

 日本には、古来からクロスを太陽神の象徴とする文化があった。

だから、クロスさえ表現できさえすれば、交脚にこだわらなかったと言えないでしょうか。

 ザビエルは、日本の精神文化のキリスト教徒の類似に驚いて先客を探したが、見つからなかった…。

先住民の末裔であるアイヌや琉球の民には、古代イスラエルの生活文物や、聖書に似た伝承や風習が残っているのは、偶然でしょうか。

アメリカ先住民は、愛と悔い改めを説いた白い神が再臨を約して去って行った伝承もありますよ。

 アメリカでの先住民への布教は、十字を象徴とする太陽神をイエスと置くと再臨を約した白い神の扱いに困り、逆では太陽神の扱いに困る…。

だから結局、イエスはイエスのまま、布教したはずです。

 クロスを象徴とする神は、イエスと見て良いか…。

クロスを象徴とする太陽とされる神、どう見てもイエスでしょ。

 モルモン書は、アメリカ先住民はイスラエル人の一派であると記していますね。

アメリカ先住民は、古代中東の遺伝子を持つアイヌや琉球の民と親戚である以上、古代中東の民の末裔でないとおかしいでしょ。

 日本の仏像の造形には、古代中東から連綿と伝わるクロスを象徴とする太陽とされる神の思想が反映していた…。

そう見ては、おかしいでしょうか。

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