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田中氏

田中氏は、日本の氏族のうちのひとつです。

同音異姓に田仲、多中、他中があります。

明治新姓として多くの平民が名乗ったことから、非常に多くの氏族に亘って存在します。

田中というから、百姓の出と思いきや、むしろ地名にちなんでついた場合の方が多いと指摘されます。

 「たんぼの中に住んでいたから、田中になった」などと言う、俗説では説明がつかない…。

地名の由来としては、「西田」「東田」など屋敷地の位置関係を示す意味での「田中」や、土地の中心的な所有者であることを示す意味での「田中」などが考えられます。

全国には「田中」を冠する地名は60ヶ所以上あるというが、小字名を含めれば相当数になるはずです。

 田中氏は、むしろ、地域の中心的存在でさえあった…。

庄屋であった例がありますよ。

庄屋や名主は、江戸時代の村役人である村方三役とも言う地方三役のひとつ、あるいは町役人のひとつです。

 田中と言う場合は、村方三役でしょ。

村方三役としての庄屋の身分は百姓であったが、地元の有力な豪農が多く、戦国大名の家臣だった者も少なくないのです。

伊達、宇和島藩系田中家は、宇和島藩領高山浦の庄屋でした。

宇和島藩は、慶長19年(1614年)12月28日、伊達秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ、慶長20年(1615年)3月18日に板島丸串城(宇和島城)に入城した事から、正式に成立しました。

秀宗は戦国の世に『独眼龍』と称された仙台藩主伊達政宗の庶長子です。

秀宗入府のときの家臣団は米沢時代の「伊達57騎」の中から選ばれたものだったため、仙台藩とは直接関係がないです。

高山浦の庄屋・田中家の出自は、どこに遡れるかは、調べる必要はありそうです。

田中氏の中には、『古事記』や『新撰姓氏録』にも記される由緒ある古代氏族があります。

その出自もいろいろで、古代には蘇我氏の一族や、凡河内氏の一族、百済系の田中氏もありました。

百済系では、田中連公麿が大仏鋳造に活躍し、朝廷より四位を授けられています。

また古代からの田中氏には、神官や神職が多いのもこの姓の特色です。

神職を務めた田中氏では、山城国石清水八幡宮の別当から出た紀姓田中氏、伊勢神宮外宮祠官渡会氏系の田中氏、その他、京都の鴨社、上総一ノ宮の神職に田中氏がいます。

このように田中氏は出自が多彩なだけに、家紋も実に多様です。

家紋は「酢漿草(片喰)」紋のほか、蔓木瓜・三つ巴・丸に四つ目結・細輪に蔦・丸に違い矢などがあります。

大和国から出た田中氏としては、天津日子根命の後裔で高市郡田中から起こった田中直、武内宿禰の後裔という蘇我氏の一族である田中臣が知られます。

田中臣は、のちに朝臣姓を賜り、子孫は南北朝時代に大和武士として活躍しています。

吉政系田中氏の出自は、近江国人で近江源氏とも橘氏ともいわれます。

とはいえ、吉政の父の名も系図により食い違うなど判然とせず、実際は近江国高島郡田中村(滋賀県高島市安曇川町田中)の農民の子にすぎなかったともいわれます。

 でも、田中姓は、たんなる農民ではつかない名前だったでしょ。

吉政系田中氏は、家紋に釘抜き紋ともいう「一つ目結」紋をもちいたことから、なんらかの形で先祖は佐々木氏と血縁関係があったと推測されます。

佐々木氏は、近江国を発祥の地とする宇多源氏の一流です。

宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木庄に下向し、その地に土着した孫の経方が佐々木を名乗ったことから始まるとされます。

だが、これには異説もあり現在も議論されています。

武家の田中氏は地名によったものが多く、その出自も多彩です。

近江国高島郡から起こった田中氏は、近江源氏佐々木氏の一流高島氏の別れで高島七頭の一として勢力がありました。

また、佐々木京極氏から出た田中氏、愛智氏から分かれた田中氏など近江には佐々木氏系の田中氏が多いです。

豊臣秀吉に仕えて大名に出世した田中吉政も近江の出身だが、高階氏の後裔とも橘氏の流れともいいます。

高階氏は、天武天皇の長子、高市皇子を祖とします。

橘氏は、県犬養三千代(橘三千代)・葛城王(橘諸兄)を祖とする皇別氏族で、飛鳥時代末から橘宿禰(のち朝臣)姓を称しました。

近江の隣美濃国池田郡から出た田中氏は清和源氏土岐氏の後裔、甲斐源氏からは安田義定の子義輔が山梨郡田中によって田中を称し、上野国では新田郡田中から起こった清和源氏新田一族の田中氏がいます。

新田系田中氏は新田義貞に従って各地を転戦、北九州・四国・越後などに広まりました。

里見系田中氏は、新田系里見氏一族です。

新田氏は、上野国(群馬県)を発祥とした豪族です。

本姓は源氏で、家系は清和源氏の一流河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖とする上野源氏の総称で、義国流足利氏と同族です。

里見義俊(大新田竹林太郎)の次男・田中義清を開祖とします。

『千家系譜』、『千利休由緒書』によると、安土桃山時代の茶人・千利休(田中与四郎)はその末裔と称したが、確証はないそうです。

ちなみに、岩松系田中氏は、足利系岩松氏一族です。

畠山義純の次男・田中時朝を開祖とします。

明治時代の田中正造はその末裔といいます。

播磨国の田中氏は播磨の大族赤松氏の分かれで、赤松氏範の子氏勝が田中を称したことに始まるといいます。

赤松氏は、鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した武家です。

赤松氏は村上源氏・堀川大納言定房の孫の源師季に始まり、師季の子の源季房(季方とも)が播磨佐用荘に配流され、後裔の宇野則景が建久年間に北条義時の婿になった縁で赤松村地頭職に補任されたことから、嗣子家範が赤松氏を称したと言われています。

しかし、季房から則景まで7代もあることから、信憑性に関する賛否があるそうです。

また、三河国作手の豪族である奥平氏は赤松氏の末裔と称しました。

その他、阿波国海部郡から出た田中氏、陸奥行方郡から起こった相馬氏系田中氏、肥前国彼杵郡からは河野氏系と藤原氏系の二つ田中氏が出ました。

 相馬氏は、下総国北西部(現在の千葉県北西部)や陸奥国南東部(現在の浜通り夜ノ森以北)を領した大名で、桓武平氏良文流千葉氏の支流でしたね。

 河野氏は、伊予国(愛媛県)の有力豪族で、越智氏の流れを汲むとされるのですよね。

 そして、越智氏は古代日本の伊予国(愛媛県)の豪族の一つで、大和国にも清和源氏頼親流の越智氏がある。

 さらに、あの有名な藤原氏…。

 すごいですね…。

 そうなると、阿波国海部郡から出た田中氏も気になりますね…。

さらに、伊豆国田方郡田中から北条氏系、豊後国大野郡田中からは大友氏系と、全国各地から田中氏は発生しています。

 北条氏は桓武平氏高望流の平直方の子孫を称し、伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族だけど…。

 現在伝わる北条氏系図は、いずれも時政以前の系譜は系図により全て異なるので、出自について疑問があるそうですねえ…。

 とはいえ、大友氏は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現大分県)を本拠とした一族。

 初代当主の大友能直は、相模国愛甲郡古庄の郷司の近藤能成(古庄能成とも)の息子として生まれた。

 父の能成は、藤原秀郷の子の千常の6代後の近藤景頼の子とするのが通説であるが、藤原利仁の9代後の近藤貞成の子であるという説もある。

 そうそうたる血筋が、多いですね、田中氏…。

植松系田中家は、村上源氏流の岩倉家庶家である植松家出身の子爵・植松雅徳の子・植松雅行が田中家と称しました。

 高山浦の庄屋・田中家は、伊予の国だけどまさか…。

どうなんでしょうねえ…。

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コメント

田中の名前で、迷い込んで来ました。
よく調べていますね。
私は、福岡県に住んでいます。
面白いことを教えますね。
筑後国主田中吉政の子供、忠政のお墓には、橘の家紋があります。
そして、こう書いてあります。
筑後守田中橘朝臣忠政。
吉政のお墓などは、左巴ですけど。
どうも、やはり、橘家からのつながりみたいですね。

投稿: 絵咲木 | 2016年5月 7日 (土) 17時59分

やはり橘家に関係ありそうとのお話、ありがとうございます。

投稿: cova | 2016年5月 7日 (土) 22時08分

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