« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2014年10月

むすことろばと牛?聖書の謎。

新約聖書ルカ14章5節、なぜか訳によって一か所違うのです。

ある訳はこう。

それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。

別の訳はこう。

それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、自分のろばか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。

むすこと訳す版とろばと訳す版があるわけですね。

安息日でも、家畜の世話は休むわけにはいきません。

ルカ13章15節から16節には、こうあります。

  十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女をイエスが癒されたことを会堂司からとがめられたときの、イエスの言葉ですね。

主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。

つまり、安息日に牛やろばを落ちた穴から引き上げることは、消して珍しくなかったし、穴から家族を引き上げることもしばしばあったと思われるのです。

   でも、ここで疑問が起こりますね。

この混乱は、ギリシャ語聖書の段階で既にあるから、どちらの版から訳すかで、訳語が決まってしまうわけです。

となると、ルカ14章5節は元は違う文章だったのかとなります。

たとえばこう。

それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、ろばに乗った自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。

あるいはこう。

それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、自分のむすこがろばに乗って牛を引いてた時井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。

でもこれは推測に過ぎないし、ならどうして写し損なったかとなるのです。

  「自分のろばか牛」の方がオリジナルの文章だったが、ろばにむすこが乗ってると考えた人が写し損なったのでしょうか。

ここで興味惹かれるのは、ギリシャ語聖書でむすこの綴りが"υἱὸς"と言うことです。

画像検索をかけると、イエスの姿が多く見つかるのです。

そう言えば、イエスはイスラエルにろばに乗って入城したことが聖書に記され、牛もまた神に捧げる犠牲になることが多いです。

さらにイエスは横穴式墳墓から、天の神である御父に救い出されるのです。

そう考えると、天父はむすこであるイエスを墓穴から救い出すことを、ルカ14章5節は暗示したのでしょうか。

そう言えばイザヤ書にもイエスの受難の予言があるし、穴は詩篇などで予言されたイエスに敵対する者たちの罠と言うことだろうかと、想像してみたくなります。

この混乱は、何かを伝えるための神が仕掛けたトリックなのか、気になるところです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今こそ発想の大転換を。

スマートフォンでもタブレットでも、日本に技術がなかったわけじゃないです。
日本に無かったのは発想です。
問題になった追い出し部屋も、本当に親身になって転職や転業や独立やスキルアップをサポートするシステムだったなら、追い出し部屋とあだ名され後ろ指さされることはなかったでしょう。
差別虐待問題も、少子化問題も、本気に親身になって相手の声に耳を傾け、聞き上手になるためにはどうしたらいいかと言う発想の転換なしに、根本的な解決なんかない、そうでしょう。
おもてなしだって、一歩間違えれば、自分の趣味嗜好や価値観ややり方の押し付けに転訛しかねない、そうでしょう。
違いを受け入れ合い違いを認め合ったうえで、どう仲良くやっていくかを真剣に考えない限り、現代に合った「和」の形も、「おもてなし」の形も、作り出していくことはできないです。
異分子排除と全員同質を前提とした旧態依然の「和」と「おもてなし」にしがみつくなら、事態はむしろさらに悪化します、違いますか。
若い世代だって、日本や日本の文化は好きだ、自分の祖国なんだからです。
でも、自分らしく生きようとすればするほど、異分子排除と全員同質を前提とした社会システムにどっぷりつかって無自覚な旧世代の分厚い壁にぶつかり阻まれて多くの人は挫折して諦めて同化を選んでしまうのです。
その方が楽だから、そうでしょう。
でも、同化してしまうと、時代には合わなくなりますよね。
少子化や子どもを持たない選択や非婚や晩婚の選択は、その方が快感が大きい社会になってしまったから、なるべくしてなったのではないですか。
早く結婚して子だくさんになって欲しいなら、その方が快感の大きい社会にならないと無理ではありませんか。
早く結婚して子だくさんになって欲しいなら、そうなった方が快感が大きい社会に変わるにはどうしたら良いか、親身になってかんがえるべし、そう思いませんか。
大人がその努力を放棄して、若者に甘えるなと言う方がよっぽど甘えではないですか。
社会の先住民である大人は若者にとっては環境なのだから、そうじゃありませんか。
民主主義とは、自らが自らにとっての環境であると自覚した人々が、自分たちに取って生きやすい、快感が大きい社会を作っていく主役として、自発的にかかわっていく社会と、理解したほうがいいでしょう。
個々人の快感の実現にとって何が優先順位が高いかを考えられてこそ、近代市民ではないですか。
誰が与えてくれるかを待ったり選んだりしているうちは家来ではないでしょうか。
民主社会では、市民一人一人が社会の主人、違いますか。
誰が与えてくれるか待つのではなく、自分が作り出す側に回ってこそ、民主主義でしょう。
差別主義的虐待や少子化の壁も、自分の手で壊すしかないのではないですか。
待ってちゃダメではないですか。
日本人だって、どうしたら良いかという気持ちや、どうしたら良いかと言う方法は、持っているはずです。
問題は、それを正直に表に出して形にするにはどうしたら良いかと言う、発想がなかったのではないでしょうか。
日本の潜在的な能力や可能性は高いはすでしょう。
あとは、発想を大胆に変える事だけではないでしょうか。
ノーベル賞国別順位で、非欧州文化圏からトップ10に唯一入る国が日本です。
それなのに、日本は原理や部分品ではリードできてもシステムでリードできないのはなぜでしょう。
それは、異分子排除と同質当たり前社会の発想から抜けられないからでしょう。
違いを認め合い違いを楽しみ合うことを、快感とする社会へ舵を切った方がいいのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

少子化の原因と逃げずに向き合うべきではないでしょうか。

直面している人口減少対策には、移民受け入れと少子化対策の二面政策が必要ではないでしょうか。

どちらも課題は、対応が抜本的に遅れている事ではないでしょうか。

どちらの策でも人口減少は止められず、緩和するに過ぎないという現実を受け入れた方が良いのではないでしょうか。

人口減少社会への軟着陸へのシナリオを、すみやかに検討すべきではないでしょうか。

今のままでは、70年後には人口半減との試算もあるそうです。

つまり、今、20代以下の世代は、人口のピークとその半分にまで減った時期の二つを体験する可能性が大きいと言うことです。

これをせめて140年先に伸ばすにはどうしたらいいのか、そのくらいのつもりで人口半減への対策を考えた方が良いのではないでしょうか。

人口減少を受け入れるか阻止するかの議論はもはや、ナンセンスと知ったほうが良いのではないでしょうか。

出生率を上げるにしても、移民を受け入れるにしても、気の遠くなるような人数が必要だそうです。

少なくとも、少子化への抜本対策なしに移民を受け入れるなら、彼等もまた日本の貧困な少子化対策の犠牲者になる事は明らかではないでしょうか。

くわえて、労働慣習もまた大元から見直さないと、移民のつもりで受け入れても他国に移住してしまう可能性があるのではありませんか。

覚悟しておいた方が良いのでです。

移民の受け入れがどうのこうの言っているが、かつて若い世代は価値観が大きく異なることから新人類と呼ばれた時期があるのです。

今、かつて新人類と呼ばれた世代は結局、旧世代に飼いならされることを余儀なくされてこなかったでしょうか。

多彩な価値観の共存が共存できていたら、今移民の受け入れ問題でジタバタせずに済んだのではないでしょうか。

今だって、多様な価値観と言う人は、認識が甘いです。

移民を本格的に受けれることは、彼らが自らの価値観や文化を持ち込んで定着できるだけのコミュニティが我々のすぐ隣にできると言うことです。

そして、先住民は彼らと平和的で友好的に共存する必要があると言うことです。

はっきり言いましょう。

かつて新人類と呼ばれた世代は結局、旧世代との折り合いに絶望的なレベルでストレスを感じ滅びに至る行動パターンを選んだのではないでしょうか。

本書はその告発の書と思った方が良いでしょう。

ルポ 産ませない社会:小林 美希|河出書房新社http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309246222/

改めて指摘したいです。

性差別的虐待発言や行為に象徴される、旧態依然の思考と行動パターンを旧世代が抜本的に誤りを認め改めない限り、少子化対策も、移民の導入も、人口減少への緩和策にならないのではないでしょうか。

生物の環境への適応へのパターンは、大きく分けると二つだそうです。

適応が可能な範囲であればなんとか受け入れて上手に折り合いをつける、適応が可能な範囲を超えたら適応を放棄し滅びに至る行動パターンを選ぶ、この二つだと言うのです。

これは、苦痛を最小に快感を最大になるように、行動のパターンを選ぶからだそうです。

適応を放棄し滅びに至る行動パターンを選ぶなかには、もちろん、新天地を求めて旅立つことも含まれるかもしれません。

今居る所に見切りをつけるわけですからね。

その新天地の中に、現世に行き場がなければ来世も選択肢に入ると言うことです。

今の日本の若い世代の行動パターンは、滅びに至る行動パターンに近くないと言えるだろうでしょうか。

今の若い世代は、次の世代のことを考える余裕はないのでないでしょうか。

今の自分の世代で手いっぱいであり、次を考えることを諦めているのでないでしょうか。

旧世代の重しに押しつぶされ、選択を放棄しているから、投票率も低いし、出生率も低いのでないでしょうか。

今、新しい時代の産みの苦しみを先延ばしすれば、さらに日本は深刻な事態に直面するのではないでしょうか。

その時は、遠くないかもしれません。

想像したくないですが…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

勝利への道とは?

私はムスリムではないが、コーラン(クルアーン)や聖書を学んだものとして、聖書やコーランへの誤解は解きたいと願うものです。

「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」あるいは 「敵を知り己を知れば百戦殆うからず」とも、言われる諺を知っているでしょ。

『孫子・謀攻』に「彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し」とあるのに基づく言葉です。

原典では「殆うからず」だが、「危うからず」と書いても誤りではありません。

意味は、「敵と味方の実情を熟知していれば、百回戦っても負けることはない。敵情を知らないで味方のことだけを知っているのでは、勝ったり負けたりして勝負がつかず、敵のことも味方のことも知らなければ必ず負ける」と言うことです。

コーランや聖書を信じて欲しいと言うつもりはありません。

それぞれの人の選択の問題ですから。

でも、相手を知らずに勝てると思いますか。

デートでも商売でも、相手を知った方が良い手を選びやすいでしょ。

もちろん、自分の持ち手がないとしょうがないですけど。

今、「イスラム国」が大きく問題になっています。

でも、コーランについてどれだけ知ってますか。

さらに、そのもとになった聖書をどれだけ知ってますか。

コーランには戦争の命令も殺害の命令もあると言う人もいます。

その命令は神は自らの戒めに背かない限り死を宣告しないという原則に則ったものです。

ムハンマドの戦いはよく見れば神の戒めを守れば勝つが、守らないと負けています。

これは、聖書とも共通であり、比べればわかることです。

確かにコーランには戦争の命令も殺害の命令もあります。

でもそれは神を妨げ神の怒りをかった相手に対する行為であり、ムハンマドの私憤によるものではなかったはずです。

しかし「イスラム国」の戦争と殺害は、アッラーの御心に適っているかという問題が出てきます。

「イスラム国」の戦争と殺害は、堕落した世界へのイスラムの戦いの延長線上にはあるでしょう。

だからといって、「イスラム国」のやり方がアッラーの御心に適っているかどうかは、まったく別問題と思います。

イスラムとこの世の堕落との戦いと、ムスリムに求められる道からの「イスラム国」自体の逸脱。

この混同と混乱が事態をややこしくしているのです。

世界の多くはイスラムを知らないが、それ以前にほとんどの日本人は聖書自体を知らないのです。

だから、すぐにわからなくても当然とも言えますが、誤解を解くためには、言い続けるしかありません。

みなさんも、ちゃんと読めばコーランに記されている命令は人であるムハンマドからではなくアッラーから発せられていることがお分かりになるでしょう。

コーランはアッラーの声としてのムハンマドの発言が集められた書です。ムハンマドもまた聖書の神の預言者でした。

聖書もコーランも、基本的な教えは愛と寛容と不殺生です。

繰り返しますが、神は自らの戒めを破るものや妨げるもの以外には、死を宣告しません。

イエスは、ひたすら、愛と寛容と許しを説きました。

ムハンマドもまた、愛と寛容と許しを基本としました。

「イスラム国」はどうでしょう。

「イスラム国」の中では、彼等への服従が神への服従に摩り替えられ、彼らの命令に従う事が強制されていると聞きます。

彼等に勝利するには、道は一つ。

神の道の真理を深く知り、彼らを退けるしかないでしょう。

ムハンマドの求めた原点回帰の道に戻る以外ないでしょう。

誤解を恐れずに言うなら、それは、全ての人がイスラムに帰依し、ムスリムになると言うのではありません。

「唯一の神に絶対帰依すること」が、イスラムと言う言葉の本来の意味なのです。

しかし、 「唯一の神に絶対帰依すること」すなわち宗派としての「イスラム」に帰依することではありません。

現在の宗派としての「イスラム」になる必要は必ずしもないと言うことです。

聖書の原点回帰こそ、旧約の預言者たちも、イエスも、ムハンマドも説いたことなのです。

神の道への回帰こそ、聖書に連なるすべての預言者が説き、そして、求めたものでした。

「イスラム国」に勝つための方便でも良いから、最低でも聖書を紐解き、神はこのように求めると、彼らの矛盾をつくことです。

余裕があるなら、コーランも紐解いた方が良いでしょうけど。

神の名を叫びながら神に背く者に勝つには、真の神の道を示して退散を迫るしか手はないのです。

このままのやり方のままでは、泥沼にはまるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »