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2014年11月

イエスに近づけと言われても…。

難しいけど、少しでもイエスに近づきたいなら、せめてその気持ちだけでも忘れないようにないとまずいようですね。

ドジりまくるけど、ドジることが問題じゃないようです。

それがきっかけで神を離れ神を見失うことの方がよっぽど問題なようです。

 いくらイエスは探してくださると言ってもねえ…。

謙遜してるつもりでも、つまずいたから離れる、じゃなくて、つまづいたこんな私を神は許してくれますかと、問うことが求められるへりくだりなようですね。

 神はその時を、気を長く持って待って下さるわけですから。

 そして帰ってくれば神は大歓迎。

神は、離れたまま許すと仰るのではなく、こんな私でも弟子として認めてもらえるかと、神に率直に訊ねることが必要なようですね。

ヤコブの手紙1:5にはこうあります。

あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

ここはかなり重要なポイントみたいですね。

知恵が不足してると感じたら神に願い求める。

わたしゃ、不足しっぱなしです…。

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居場所のない人にどう寄り添う?

居場所がないと言う場合、心に正直に言うと聞いてくれる人がいなくなると感じていることが多いのではないでしょうか。

聞いてやってるなんて言ってるようじゃダメなんじゃないでしょうか。

怒りだしても暴れ出しても泣き出しても、気が済むまで待ってくれる人がいるところに、苦しんでる人は居場所を感じるのではないでしょうか。

忍耐こそ最高で最大の愛ではないのでしょうか。

善意で近づく人の大半は、自分の価値観の押し売りが多いのではないでしょうか。

逆に悪意で近づく人は、自分の手中に落として意のままに操りたいから、洗いざらい訊きだして手なずける道具に使うのではないでしょうか。

居場所がないと言う人の多くが道を誤るのは、善意の人のミスが引き金になる場合が多いのではないでしょうか。

違うでしょうか。

居場所がないと言う人に対して善意の人が自分の価値観を押し付けたがるのは、焦るからではないですか。

上手に聞きだし、一緒に出口を根気よく探せる人じゃないと、彼らの居場所は作れないのではないですか。

押し付ける人は、思い通りにならないと大抵パニックになり苛立って喚き散らし分からず屋と叫ぶのではないですか。

分からず屋はあなただと、言われるのではないでしょうか。

言いながら、自分でも多少耳が痛いです。

でも、自戒の気持ちを込めて言ってるから、耳にいたくても当たり前です。

イエスのようになるとは、一にも二にも、心から愛して忍耐することだそうです。

安易な道に走るのは神を見失うことかも知れないですね。

いくら気を付けても、気を付け過ぎることはないようです。

居場所がないと言う人に本当に寄り添うには、一緒に悩み苦しめる人じゃないと無理だけど、聞き手は無理に相手に合わせない方が良いかも知れませんね。

そうじゃないと、かえってあなたは偽善者と思われて、逆に信頼をなくすかも知れませんね。

大切なのは、心からあなたを理解したいと思っている気持ちが伝わるかどうかかも知れませんね。

ゲーテは「涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の本当の味はわからない」と言ったらしいです。

イエスはまさに、これを徹底して実践しようとしたそうです。

全ての人の罪も苦しみも受け入れて、十字架に架かるわけだからかも…。

あなたの十字架を背負ってきなさいとイエスは言ってます。

ゲーテもイエスも言うこと似てます…。

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