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2015年7月

キリスト教と唯物論?

唯物論か観念論かの区別の指標として、しばしば次の3つが挙げられます。

「あなたは、人間が生まれる前に、地球があったことを認めますか」 。

「あなたは、人間がものを考えるとき、脳の助けをかりているとおもいますか」 。

「あなたは、他人の存在を認めますか」 。

この3つの問いに「はい」と答えれば、その人はどう言い訳しようが、唯物論の立場に立ってると認知されてしまうと言うのです。

わたしは、これを見て突っ込みたくなったのです。

聖書では人は創造の最後に生まれているから、 「あなたは、人間が生まれる前に、地球があったことを認めますか」の問いには、「はい」と聖書を信じてるなら応えるのは当然すぎるでしょうね。

聖書では神は「我々に似せて人をつくろう」と言っているが神が脳の助けを借りて考えているから人もそうなってると見ても良いので、 「あなたは、人間がものを考えるとき、脳の助けをかりているとおもいますか」の問いに、「はい」と答えても聖書とは矛盾しないはずです。

聖書では十戒には殺すなとか盗むなとか姦淫するなとかあるし新約でも汝の隣人を愛せよと説いてるから、 「あなたは、他人の存在を認めますか」の問いにも、聖書を信じるなら「はい」と答えないとおかしいわけです。

つまり、聖書を信じている人がこの3つの問いに「はい」と答えても何も信仰とは、矛盾しなくなってしまうのです。

 では、聖書を信じてると唯物論の立場に認知されても文句を言えないのでしょうか。

聖書を信じていれば神の存在を受け入れているから観念論ではないのかと、異論を唱える人もいるでしょう。

だが、神は物質的な肉体を持っていないという前提に立つ人達が、神を信じていれば観念論だと主張するわけです。

ユダヤ教はともかく、キリスト教は一般的には三位一体教説をとっています。

父と子と聖霊は、三者にして一人、一人にして三者、と言うわけですが、少なくとも御子であるイエスは今現在、受肉して触れることのできる肉体を持っています。

復活したイエスは、弟子たちに体の傷に触れさせて自分はちゃんと生きていると確認させています。

 イエスも神の一員なので、少なくとも今現在、神は物質的な体を持っていることになるでしょう。

キリスト教の中にも、父と子と聖霊は独立した存在で父と子は物質的な肉体を持っているとする宗派があり物質的な肉体を持っている神が物質的な世界を創造したと主張しています。

では、聖霊はどうなるかと言えば、近年科学者の中にプラズマ生命体の存在を考えている人たちもいるので、聖霊はプラズマ生命体かも知れないと言っても良いかも知れません。

そうなると、 父と子と聖霊はみな、現実の世界に確かな存在の基盤を持ってしまうことになり、キリスト教と唯物論は矛盾すると見るとかえっておかしなことになってしまいそうです。

さらに最新技術では、身体障碍者でも困らないように、思っただけで様々な機器を自在に扱えるシステムも研究開発され、しばしばメディアでも紹介されています。

最先端の物質科学でも、究極の存在に迫る研究が進んでいます。

 人の認知や認識の能力は、どこまで進むことが出来るかと言う問いがあります。

人の認知や認識の能力は可能性としては限界はないので、世界を限りなく極めていくこともできるし極めた知識を使いこなせる知恵も身につけることは不可能ではないそうです。

過去から現在そして未来へと知識と知恵を伝え蓄え続けられるなら、究極的には限りなく神の境地へと辿り着ける可能性は、全ての人にあるわけです。

神は言われた「光あれ」すると光があった、という聖書の言葉は、単なる空想でも夢物語でもないかも知れないのです。

キリスト教徒に、安易に観念論のレッテルは貼らない方が良いのかも知れません。

追記

聖書については、創世記についてはかつてこんな記事を書きました。

創世記と進化論は矛盾しないか。創世記と科学 その1。

創世記と最新宇宙論は矛盾しないか。創世記と科学 その2。

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日本の食卓を覗くと地中海が見える?

この前、野菜炒めの残り半分を、ちょっと気分を変えたくてたまたま買ってあったルバーブのジャムであえて見たのですよ。

 同じ食卓の上で、甘い惣菜が他の惣菜と一緒に並ぶってことは、ヨーロッパ、とくに北欧じゃまずないよ。

 まして、せっかく塩コショウで味付けしたのにジャムなんかであえたら、びっくりするからね。

ルバーブは野菜なので、ジャムとは言っても日本の食卓にありがちな甘めに味付けした惣菜に近いと思ったから、やってみたんでして。

野菜同士だから、あんまり、違和感なかったですよ。

それに、甘いものを食べる食文化は、世界中にあるでしょ。

 甘いものを他の惣菜と一緒に出すと、外国人、特に欧米はデザートと食事が同時に食卓に並んだと言って、戸惑うことが多いんだから。

 野菜炒めをジャムであえたりしようもんなら、ものすごくびっくりするからね。

甘いものがほかの惣菜と一緒に食卓にのぼる食文化って言ったら、日本のほかにどこがあるかと言うと…。

 地中海ですよね。

地中海沿岸っていうと、日本人そっくりな顔の人がいっぱいいますよね。

 そうそう、いっぱいなんてもんじゃないよ。

 それは、日本には地中海沿岸の人達そっくりな顔をたくさん見かけるって事にもなるわけね。

 外国の友人から、日本ってアジアの国なのになんでヨーロッパ顔が多いのだ、あなたの顔はアジア的だからアジア人とあってるんだって納得できてほっとする、って言われたよ。

そう言えば、日本はアジアでも珍しい家族性地中海熱の発症例が見つかる国なんですよね。

遺伝性疾患だっていうのに。

 ケネウィックで、フランスとスペインの様式の矢じりが刺さったアイヌや琉球にそっくりな古代人骨が見つかっているんでしたよね。

南米エクアドルのバルディビアからは、縄文土器が見つかったと驚いてる人もいますね。

 エジプトの方が似てるって、言う人もいるけどね。

それを言ったら、日本の縄文土器は古代エジプトの土器に似てることになっちゃうでしょ。

日本人の足で一番多いのは、エジプトタイプだし。

 エジプト考古学の吉村作治は、日本とエジプトは食の好みが似てるから長期滞在でも食べ物で困らないのは助かるって、言ってますよね。

秋田美人の美白の理由の一つに、白人の血が混ざってないとそうはならないって話もありますね。

 秋田犬の血液型のパターンまで、ヨーロッパ犬に似てると聞いた時は驚きましたよ。

秋田って、けっこう、体つきがしっかりした白人的体形、多いですよね。

世界三大美女はクレオパトラ・楊貴妃・ヘレネなんですよね、世界的には。

クレオパトラとヘレネは、ギリシャ美女なんです。

楊貴妃も白人的な体つきと容貌なことは間違えないので、ギリシャ美女の可能性はありそうです。

そうなると、日本でだけヘレナの代わりに秋田小町をいれてるけど、彼女は秋田美人なんですよね。

 秋田小町は秋田美人で、秋田美人は白人的っていうことは、秋田小町も白人的美人ということかしら。

日本にはギリシャ的な顔の人は結構いるけど、日本人の足でエジプトタイプに次いで多いのはギリシャタイプですからね。

 となると、秋田小町もギリシャ風美女だった可能性ありって事でいいのかしら。

 世界的美女はみんな、ギリシャ風ってこと…。

野菜炒めをルバーブのジャムであえた話から、脱線しまくり…。

 あ、ほんと…。

じゃ、この辺で、この話はいったん切り上げってことで…。

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こってり油を絞られ苦汁を嘗め苦渋の決断をした人としてのイエス?

「油を絞る」とは、過ちや失敗を厳しく責める、とか、ひどい苦労をする、という意味です。

「手ひどく油を絞られる」と言うと、悪い行いをしてきつく叱られること、の意味になります。

「手ひどく油を絞られる」に似た言い回しとして、「みっちり油を絞られる」「こってり油を絞られる」「手ひどく怒られる」「大目玉をくらう」があります。

「油を絞る」の語源や由来としては、菜種や椿の実などから油を採取するするとき、古くはしめ木にかけて押しつぶしたことから、と解釈されています。

江戸時代には、無理やりにあるいは苦労を重ねて財産や利益を手に入れる、また、他の者さんざん苦労させて、その利益を自分のものにする意味で用いられていたそうです。

面白いことに、手ひどく油を絞られた有名人が実は聖書に登場するのです。

パレスチナ地方の古都エルサレム東部のオリーブ山西麓の園はゲツセマネの名で知られますが、ゲツセマネとはアラム語で「オリーブの油搾り」、または「オリーブの酒舟」を意味するとされます。

このゲッセマネでのイエスの祈りは、「ゲツセマネの祈り」として知られています。

救世主イエス・キリストが、オリーブ山のふもとにあるゲツセマネの園で、十字架刑に処せられる前夜祈った祈りです。

ゲツセマネの祈りは、「オリーブ山の祈り」とも呼ばれ、4福音書すべてに記されています。

ゲツセマネの祈りの時のイエスは、ルカによる福音書22章42節から44節には、このようであったと記されています。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕

イエスが「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」と思わず口にしてしまった杯は、苦い汁、つまり苦汁の杯と考えられています。

「苦汁を嘗める」とは、つらくて嫌な思いをする、とか、にがい経験をする、ということですが、イエスが取りのけてくださいと口走ってしまった杯には、古今東西のありとあらゆる人々の苦しみや悲しみが凝縮されていたことでしょうから、その苦さや渋さは、並大抵ではなかったはずです。

贖罪の仔羊としての役目を果たすべく現世に生を受けたイエスと言えども、「苦汁を嘗める」のは、文字通り「苦渋の決断」だったことでしょう。

一説には、汗が血の滴るようにどころか、実際に血が混ざっていたとされます。

もし血が毛穴と言う毛穴からにじみ出たと言うなら、毛穴に通う毛細血管から血がにじみ毛穴から出てきたことになるわけで、想像を超えた力がイエスの全身にかかっていたことになるでしょう。

まさに、「オリーブの油搾り」「オリーブの酒舟」を意味するゲツセマネの名にふさわしい状態に、イエスはあったことになります。

「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」とすぐに言い直したとはいえ、神の御子であるイエスが「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」と天の神である御父に背く発言をした以上、イエスは相当な決意を込めた懺悔をしなければ示しがつかなかったことでしょう。

ゲツセマネでのイエスの祈りは、古今東西全ての人のための許しの執り成しの祈りであったとともに、たとえ一瞬であっても神の思いから逃げ出そうという心の迷いにとらわれてしまったイエスの心の底からの懺悔でもあったのかも知れません。

イエスのこの懺悔の祈りと、十字架での贖罪の死によって、全ての人にあらゆる罪の許しへの扉が開かれたのです。

天の神である御父は、イエスの祈りを見て良しとされたからです。

そうでなければ、どうして天使をイエスの励ましのために送られるでしょう。

イエスの一瞬の気の迷いさえ心からの悔い改めによって天の神である御父に許されたわけだから、人々の過ちや罪の類などは悔い改めによって何度でも許されるわけです。

よほどの大罪でないかぎり神から退けられることはないという保証が取り付けられたことによって、人々は安心して、神の道の導き手であるイエスについていかれるわけです。

イエスは一人の脱落者も出ることを望まず迷える人々を探し出して神の道へと導きたいと心から願うので、良き羊飼いに準えられるのです。

そして、三日後のイエスの復活によって、全ての人に、復活への希望がもたらされたのです。

この、ゲツセマネの祈りは、ゴルゴダの十字架と同じか、あるいは、それ以上の重要さを持って語られます。

聖書の救いの教えの、中核をなす部分だからです。

神の子とされるイエスの、人間臭い面と神の子の役割に徹しようとする意志の強さの両面がみられる点でも、ゲツセマネの祈りは興味深いと言えるでしょう。

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高御座をどうみる?

京都御所には、天皇が即位に使う玉座である高御座があります。

金で飾られた造形で、八角形が特色です。

八は四方八方の八で、世界を表現すると思われがちだが、それだけではないのです。

八は一桁では最大の偶数だが、偶数は陰陽では陰に配されて霊の世界の象徴でもあります。

つまり、八は霊の最高位としての神の象徴でもあるわけです。

高御座は移動可能であり、言ってみれば移動可能な神殿である神輿なのです。

高御座の移動は、神の移動に他ならないといえましょう。

天皇の座す場所は赤く縁どられるが、赤は陰陽では地に配されます。

柱は貝の象嵌で飾られ内側の真珠質の輝きで彩られるが、貝は海に通じ水は陰陽では天に配されます。

高御座の屋根には、徳の高い支配が行われると現れるとされる鳳凰が飾られています。

高御座は、地上における神の声として、天皇が即位することを内外に宣明する場所であるとその形で示しているといえましょう。

地上における神の声とは、天皇が預言者であることを示しているということでしょう。

だが、日ユ同祖論だの、カッバーラだの、振りかざす人たちの手にかかれば、高御座の解釈はこうなってしまうのです。

のっけから、八はヤーを表し、ヤーとはヤハウエのことだとなるわけです。

さらに、鳳凰はケルビムに準えられ、移動可能な高御座は移動神殿であるがケルビムの載るアークもまた移動可能な神殿であります。

高御座の周囲は、アークほどではないにしても、金で覆われているのです。

ケルビムに準えられる鳳凰の載る高御座は、まさしく、アークなのでしょうか。

アークは神の声である十戒石を収めるが、石は神の国の礎の象徴でもあります。

高御座に座す天皇は、地上における神の国の礎の象徴でもあるとなるでしょう。

聖書には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」(ヨハネによる福音書1章1節2節)とあります。

言(ことば)はイエスを表し、天皇は地上における最高位の預言者、すなわち、イエスに準ずる位置付けの預言者となるわけです。

かつてザビエルは、大日をイエスの訳として用いようとして慌てて撤回しました。

それは、大日は皇祖神アマテラスと同位の神であり、地上におけるイエスの代理の最高位としての天皇を認めることになってバチカンにいる教皇の立場がなくなってしまうからです。

だが皮肉にも、高御座は、まさしく、地上におけるイエスの代理の最高位としての天皇の象徴でもあると言ってるように解釈できてしまいます。

これをどう受け止めるかは、あなた次第ですけどね。

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宇宙の果てについて考えてみる。

宇宙の果てについて、諸説出ながら、絞り込めないと言うのはどうしたことでしょう。

GPSで位置を特定するには、少なくとも3つの衛星が必要とされます。

宇宙の果てについて有力な説が絞り込めないのは、絞り込む決め手になる視点が欠けているのではないでしょうか。

宇宙の膨張と収縮は、同時に起きていると考えなければおかしいと言う、問いかけが出てるようですね。

だとしたら、その条件をどうやったら満たせるか、文字通りに考える必要はないでしょうか。

アインシュタインは、自らの宇宙モデルが一瞬にして潰れてしまうことに気づき、宇宙定数を導入しました。

宇宙定数とは、引力と大きさが同じで方向が反対な力として、想定されたのです。

引力が宇宙を収縮させるなら、宇宙定数は宇宙を膨張させます。

引力と宇宙定数が釣り合って宇宙は安定すると言うのが、アインシュタインの出した答えです。

膨張宇宙と言いながら宇宙は同時に収縮していると、 宇宙の膨張と収縮は同時に起きていると言う命題を言い換えたらどうでしょう。

宇宙を膨張させているのは宇宙が誕生以来膨張しているのだから当たり前と見れば、宇宙を収縮させる力を探せばいいでしょう。

宇宙を収縮させている力は、アインシュタインが指摘したように、引力なはずです。

つまり、膨張と収縮が同時に起きているということを承認せよと言う理論上の要請は、複数の解釈を入れる余地はないと見ていいのではないでしょうか。

宇宙は光の中から生まれ、光の中で終わり、再び光の中から生まれていくと見るのが、自然ではないかと思われます。

もっとも私は、宇宙が膨張せて見えているのは、宇宙定数の悪戯だとみていますけどね。

光には質量がないと言うのは、真っ赤な嘘ではないでしょうか。

光は常に等速直線運動をしています。

重力で進路は曲がって見えても、空間が曲がっているのでそう見えているだけです。

重力と加速度は区別できないと言うことは、無重力と等速直線運動もまた区別できないのではないでしょうか。

無重力は重力をキャンセルする方向に加速度を加えても得られるが、実は、 等速直線運動でも得られるというわけです。

重量は、重力加速度でその物体がどの程度加速されているか、あるいは、その物体を動かすためにどの程度の加速度が必要か、または、その物体の運動を止めた場合どのくらいの大きさの加速度を受け取ることになるか、調べれば測定できるはずです。

物体を載せて量る場合は、 重力加速度でその物体がどの程度加速されているかを測定してることになります。

物体を押し出すために必要な力を量る場合は、 その物体を動かすためにどの程度の加速度が必要かを測定していることになります。

物体を受け止めるために必要な力を量る場合は、 その物体の運動を止めた場合どのくらいの大きさの加速度を受け取ることになるかを測定していることになります。

光の圧力で、水車や風車のように回転を起こしたり、帆船のように推進力を得ることが出来ます。

光電効果は、光の運動エネルギーが電子に移転して起こる現象です。

波長の長い光は圧力が弱く、波長の短い光は圧力が強いのです。

波長はあたかも、光の質量として振る舞っているのです。

波長は運動量、つまりエネルギー量の大きさを表し、エネルギーと質量の同等式によって、光の質量は光を止めることで測定可能なはずなのです。

光の高密度な状態の場合、光の重ね合わせによる見かけ上の増幅や見かけ上の消滅が大規模に起こるはずです。

そして、巨大な増幅は巨大なエネルギーを産み、巨大なエネルギーは巨大な質量として振る舞い、巨大な重力を発生させることでしょう。

エネルギーと質量の同等式によって、エネルギから物質への転換もエネルギーの集積が言って段階に達した時、起こる事でしょう。

物質に重さという意味で質量を与える特別な粒子は必要ないが、質量を表面化させる力としての重力は必要であり、ヒッグス場の正体はあるいは重力場なのかもしれないのです。

光の密度が下がれば、宇宙は晴れ上がる事でしょう。

宇宙のインフレーションの正体は、光の物質化=物体化の過程なのかも知れません。

そして、その後に続く宇宙膨張の正体は、宇宙定数の悪戯であったのかも知れません。

宇宙には、果てなどなく、どこまでも続いているのかも知れません。

ただし、認識できる範囲は限られているので、認識の限界という意味でなら、宇宙の果てはあるのかも知れません。

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香川県からササン朝ペルシャ産モザイク玉

日本とペルシャの繋がりの深さを示す記事を見つけました。

四国新聞の2015年7月1日付です。

まんのう出土のモザイク玉はササン朝ペルシャ産

2015/07/01 09:38

ササン朝ペルシャで制作された可能性が高いことが分かったまんのう町出土のモザイク玉

 まんのう町教委は30日、同町羽間の安造田東(あそだひがし)三号墳で1990年に出土した装飾品のガラス玉「モザイク玉」(2007年に町有形文化財指定)が、奈良文化財研究所(奈良市)の調査で、西アジアのササン朝ペルシャ(226~651年)で制作された可能性が高いことが分かったと発表した。分析した同研究所の田村朋美研究員は「ユーラシア大陸の東西を結ぶ壮大なスケールで繰り広げられていた古代の交易活動の一端を実証的に示すことができた」と話している。

 モザイク玉は最大径1・45センチ、赤、白、紺の3色の模様があり、ひもを通す穴が開いている。3色のガラス棒を複数本合わせて一つのモザイク単位とし、これを7本束ね、高熱で溶かしながら球形にする高度な技法が用いられている。町教委などによると、古墳時代のガラス玉でも国内では他に例のない技法で、西アジア産のモザイク玉は国内唯一の出土例という。

 化学組成を調べる蛍光エックス線分析の結果、ササン朝のガラスに特徴的な植物灰に由来する成分を含むことが判明した。白い部分には、より色を白くするためにマンガンなどを入れる技法も西アジアなどで見られる特徴だった。

 三号墳は墳丘の直径約12メートル、高さ3・5メートル、1990年に旧満濃町が発掘調査を実施した。モザイク玉は横穴式石室で見つかり、当初から「2~4世紀に黒海周辺で作られたものではないか」とされていた。

 町教委は2日から12日まで、モザイク玉など三号墳の出土品を町立図書館(同町吉野下)で展示する。

7世紀初頭、壮大な交易/「モザイク玉」はペルシャ産

2015/07/01 09:38

ササン朝ペルシャ領域の西アジア産と分かったモザイク玉


モザイク玉が出土した安造田東三号墳の石室内=香川県まんのう町羽間



 香川県まんのう町羽間の安造田東(あそだひがし)三号墳から出土した装飾品のガラス玉「モザイク玉」が30日、西アジアのササン朝ペルシャ(226~651年)で制作された可能性が高いことが明らかになった。1990年の発見当初から、2~4世紀に黒海周辺で作られたとみられていたが、制作地域がほぼ特定できたことで、三号墳が築造された7世紀初頭の壮大な交易の実態が実証され、当時の対外交易の広がりを知る貴重な資料として期待が集まっている。

 特に、モザイク玉の素材分析に当たった奈良文化財研究所(奈良市)や徳島文理大の大久保徹也教授らによると、三号墳は中堅クラスの豪族の古墳であり、その豪族が高級品の外国産のモザイク玉を所持していたことは重要という。三号墳は南北と東西方向の2本の交流ルートが交差する位置にあり、「交通の要衝を治めていた豪族が、自らも交流に関わることで高級品を所持できたと考えられ、大変興味深い」としている。

 モザイク玉は発見当初から、黒海周辺で作られたとみられていたが、「当時の分析方法では変色する危険性があった」(町教委)などの理由で、調査を一時断念していた経緯がある。その後の分析技術の発達により、同研究所が昨年、自然科学的調査を実施。エックス線による内部構造調査や化学組成を分析し、制作技法やガラスの種類、着色剤などを推定した。

 町教委は「制作した地域がはっきりした点は大きい一歩」、大久保教授は「この時代の活発な対外交易の実態をあらためて示す貴重な資料」と話している。



安造田東三号墳 墳丘の直径約12メートル、高さ3・5メートル。1990年に旧満濃町などが発掘調査を実施。羨道(せんどう)を合わせて約8メートルの横穴式石室があり、室内からモザイク玉、勾(まが)玉などの装飾品のほか、子持ち高坏(たかつき)、鉄製の馬具など県内でも珍しい副葬品が出土。これらは「安造田東三号墳遺物」として2007年に町有形文化財に指定された。

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