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2016年4月

日本人は原アジア人に意外と近い?

2014年、縄文人の核DNAの解析に成功しました。

 

縄文人の細胞からは、これまでミトコンドリアのDNAしか解析されてこなかったために、母方の遺伝情報が手に入っていただけだったが、これで両親の遺伝情報が手に入ることになります。

 

現代日本人の遺伝子分布は、東アジアや東南アジアの分布から大きく離れていることがわかっています。

 

弥生人の核DNAに関する情報はまだないが、おそらく、東アジアや東南アジアの分布からはそう遠くないと見られてるので、現代日本人の遺伝子分布がアジアの離れ小島になった原因は縄文人にあると見られていました。

 

縄文人の遺伝子分布は、現代日本人よりもさらに東アジアや東南アジアの分布から遠くにあることがわかり、これまでの推測が裏付けられました。

 

縄文人の核DNAを比較検討して決着がついたのは、縄文人の系統樹上での位置付けだったのです。

 

縄文人は東アジアと東南アジアのどちらの特徴も見つかるので分類は困難を極めていたが、核DNAは何と原アジア人の生き残りが縄文人であったことを明らかにしました。

縄文人は東アジアと東南アジアが分かれる以前に、原アジア人から分かれていたことが分かったからです。

 

DNAはまた、縄文人がウェービーヘアの二重瞼で耳垢が湿っていたことも、示していました。

これはどちらかと言えば、ヨーロピアンやアフリカンに近い特徴と言えます。

 

そしてこれは、遺伝子間の距離からも裏付けられました。

 

現代日本人の遺伝子はアジアの中でもヨーロピアンに近いが、縄文人はさらにヨーロピアンに近いのです。

 

ヨーロピアンやアフリカンの祖先よりも東に向かったグループが原アジア人となったと見られていたが、縄文人が原アジア人の生き残りの可能性が見えてきたことで、それが確からしいことがさらにはっきりしてきました。

 

縄文人と一口に言っても多様性も一方で見つかるので、複数の場所から来たか、複数の回数来たか、という二通りの解釈が可能となります。

 

けれど、縄文人はあまりにも現代の東アジアや東南アジアとは違い過ぎるので、アジアルートを想定するとしたら原アジア人から東アジア人や東南アジア人が分かれるはるか以前に日本に渡っている必要があり、可能性はかなり低いと見た方が自然でしょう。

 

むしろアメリカ先住民と日本先住民はともに古モンゴロイドと見られてきたが、近年のDNA調査でも裏が取れつつあり、さらにアメリカのケネウィックやメキシコから古代日本人の骨が見つかり、縄文土器も南米から見つかります。

ケネウィック人はフランスとスペインの様式のやじりを用いていたこともわかっているし、南米の縄文土器にエジプトの影響が強いと指摘する声もあります。

 

縄文人の多様性は環太平洋縄文文化圏がもたらしたと見る方が無理がないし、縄文人の祖先は仲間の原アジア人が東に向かったのに対して西に向かい、地中海世界を横断、大西洋を渡ってアメリカ大陸経由でさらに太平洋を航海して日本に来たと見るのがこれまでの情報から照らしても一番無理が無いように思えます。

 

何しろ日本は、アジアにおけるヨーロッパの遺伝子に由来する病気のほとんど唯一ともいえる飛び地なのですから。

 

おまけに日本は、古代中東の遺伝子が大量に残っている土地だが、原アジア人の生き残りである縄文人の遺伝子を少なくとも2割は受け継いでいるのが日本人とすれば、全ての辻褄があってきます。             

 

日ユ同祖論やスメル渡来説は、ノアの洪水を史実と認めて、はじめてタイムスケールがあってくる説と言えます。

 

日ユ同祖論の言い出しっぺがキリスト教圏の人物であったことを思えば、面白い事ではあります。

もっとも、はじめは失われた十支族が日本に来ていると言う説から始まっているので、ユダヤ人が日本人のルーツとまでは、言ってなかったですが。

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軸を持ててこそ自分の道の主人公となれる。

思う様な寄付が集まらないってぼやく政党や政治家がいます。

お金が簡単に集まるくらいなら、みんな政治家になりたがるし政党作りたがるでしょう。

 

多くの人に良いねを言ってもらえ、お金払ってでも続けて欲しいと思ってもらえるには、それだけ努力と忍耐がいるでしょう。

そして、なによりも自信と確信がいるでしょう。

 

寄附が集まらないとぼやいてる政党や政治家って、すぐ党を作ったり離れたり、腰が座ってないのではないですか。

 

政治家や政党は、あなたの声を私に託してくださいってのが、お仕事なわけです。

 

そして託された声を政治に届けるのです。

政策という形にして。

 

ある意味、政策を売るのが政治家や政党のお仕事です。

 

政策はみんなの声が材料だから、とにかく数を集め政策に仕上げていくのです。

 

声を寄せてくれた人の気持ちを裏切ってないと認められて、はじめて政策に寄附が集まるのです。

 

あなたの政策は、独り善がりじゃないですか。

 

自分の思いよりみんなの思いを形にしてこそ、寄附が集まる政策にできる、違いますか。

 

政治家や政党のために政策はあるんじゃないのです。

 

期待を寄付とともに寄せてくれた人たちのために、政策はあるのです。

 

出来上がった瞬間から政策は、あなたの手を離れてみんなのものになるのです。

 

党を移るたびに、政策を棄ててませんか。

 

政策を棄てることは支援者を棄てる事と同じじゃないですか。

 

ころころと政策や政党を変える政治家や政党は、自分に期待し、自分を育ててくれた人たちをその度に棄てているのと同じじゃないですか。

 

政治家や政党に対する不信の元を自らばら撒いて、寄附が集まる事を期待するなんて世の中舐めてるにも、程がありませんか。

 

支えたい、支持したい、応援したい、そう思えば自然と財布の紐はそれなりにゆるむものです。

 

だから、支援や義援のお金や物はたくさん集まるでしょ。

 

信頼されているからですよ。

 

信頼されている、人や団体や組織が、呼び掛けているからですよ。

 

でも、そうなるまでが大変ですけどね。

 

ルカによる福音書 6 37

人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。

 

ヤコブの手紙 4 11

兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。

 

自分と人とを実質的に繋いでいたものを自覚も反省もなしに平気で棄てることは、自分もまた彼等から棄てられていると言うことかも知れません。

 

さばくなさばかれないためだと言うのは、棄てるな棄てられないためである、という意味も含んでるのかも知れないです。

 

自分に返ってくるわけですから。

 

棄てずに保ち続けるには、何が一番大切か、こだわるものがあるかどうかですね。

 

とらわれとこだわりの差は、枠か軸かの差です。

 

ブレない軸を持てるなら、一番大事なものを棄てずに済むでしょう。

 

寄附が集まらないと嘆く政治家や政党は、たいてい、ブレまくってませんか。

 

ブレまくっている政治家や政党は、とらわれとこだわりを取り違え、迎合と応用を取り違えています。

 

枠は形はあるが中心がないから、ブレて迎合になるのです。

 

軸は中心はあるが形がないのでブレないで応用になるのです。

 

軸には遠心力も求心力もあるから、纏まるのです。

 

軸のあるところには、安定と纏まりがあります。

 

安定と纏まりが信頼を産み、やがて、多くを託されることになるのです。

 

政治家や政党は、本気で政権を狙うなら、軸を定めた方が良いでしょう。

 

ブレずに安定し纏まれ、信頼を得やすいからです。

 

保つものは保たれるのです。

 

何を保つべきか、それが問題ですけどね。

 

ここで注目したいのは、さばくな、悪口を言うな、とは言うが批判するなとは言ってないのです。

 

批判まで禁じたら、この議論そのものが成り立ちません。

 

人は、さばいたり悪口を言う場合、たいてい、枠から出させないようにしているのです。

 

自分がとらわれているから、人もとらわれて欲しいと願う時、さばきとなり、悪口となるのです。

 

人によるさばきは、しばしば、枠にはめる行為となります。

 

枠を決めてここから出たらだめとすれば、さばきは楽ですから。

 

だが、法の精神こそが守られるべきであって法のために人がいるわけではない。

 

人を守るために法を使える人は、自在に応用が出来なければなりません。

 

法の精神を正しく理解できてるかどうかが、問われるのです。

 

何が法の精神か、明らかになり貫かれるなら、一貫性は保たれてブレることはありません。

 

何が自分にとって憲法でありその他の法に当たるのか、はっきりさせるならブレないのです。

 

憲法に当たるものまで、現実主義の名のもとにブレてしまえばどうなるでしょう。

 

周囲に振り回されて、永遠に、自らの運命の主人公にはなれないでしょう。

 

自らの運命の主人公になってこそ、信頼をされる存在となれ、道を切り開けるものとなるのです。

 

さて、あなたの軸は、なにですか。

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花と節句と陰陽と?

春、梅に始まり、桃、桜と続いた赤い花のリレーは、つつじに引き継がれます。

比較的高いところで咲いてきた赤い花は一気に、下界へと舞い降ります。
そのさまはまるで、死の世界であった冬を、まず空で浄め、継いで、地を浄めると言いたげにさえ思えてきます。
この季節はまた、落葉樹たちが芽吹く季節でもあります。
緑は、青とも呼ばれ、一方では黒に準えられる色でもあります。
こう見てくると、五行の青(緑)・紅(赤)・黄・白・玄(黒)のうち、青(緑)・紅(赤)・玄(黒)までが揃うことが見て取れます。
春に咲くのは、赤い花ばかりではないです。
菜の花や山吹、地味ではあるがタンポポもまた、黄色の花を咲かせます。
春に咲く白い花も、こぶし、やまなしのほか、意外と多いです。
春は、植物だけで五行の色が出そろう季節でもあります。
秋もまた、植物だけで五行の色が出そろう季節です。
常緑の青(緑)に混ざって、紅葉や黄葉が彩を添え、さまざまなバリエーションがあるとはいえ緑が目立った山里は、鮮やかな色彩の競演の舞台となります。
葉の色だけで、五行の青(緑)・紅(赤)・黄・白・玄(黒)のうち、青(緑)・紅(赤)・黄・玄(黒)までが揃うことが見て取れます。
唯一揃わない白は、花が提供してくれています。
9月9日の重陽は、菊の節句として知られていたが、新暦のこの頃は菊の季節から外れてしまったので廃れてしまったようです。
実はこの菊こそ、葉の色で唯一揃えられない白だったからこそ、9月9日の重陽は菊の節句だったのではないでしょうか。
こうやって見ると、面白い事に気が付くのです。
1月1日は元旦なので7日にずらされて人日(じんじつ)となって、「七草粥」を食べる日として覚えられているが、花の節句ではないので、今回の考察からは省きます。
3月3日は上巳(じょうし)で、3月の最初の「巳の日」という意味です。
「禊ぎをして穢れを祓い、身代りの人形に汚れをうつして河川・海などへ流す」風習などがあったが、おそらく巳つまり蛇の脱皮にあやかって、汚れを払う縁起が担がれたものと思われます。
冬は、木々も葉を落とし、いくら咲いて彩を添えようと花が頑張ってみても死と眠りの季節の印象は拭えないです。
そして死は穢れともされた事を思えば、汚れの季節から生命の季節である春への脱皮の呪術の流し雛がこの日に行われるのもうなづけます。
流し雛の風習は、江戸時代以降「雛祭り」に姿を変え庶民の間に定着しました。
この日が「桃の節句」でもあるのは、この季節が桃の季節だからでしょう。
桃は赤い花であり、陽の色である赤は炎の色として上巳で脱ぎ捨てた汚れを焼き払う呪術であったのかも知れないです。
5月5日は端午(たんご)で、5月最初の「午の日」という意味です。
古くは「薬草摘みの日」であり薬草としての菖蒲(しょうぶ)が「尚武」の音に通じるとして、男子の立身出世を願う行事へ転化したと見られ、別名「菖蒲の節句」として知られます。
7月7日の(しちせき)の、「笹の節句」とともに、花の節句ではないです
なぜ笹なのかは定かではないです。
中国の「織り姫(織女星)と彦星(牽牛星)」の伝説と、日本の「棚機つ女(たなばたつめ)」の伝説があわさって七夕伝承が生まれたのはよく知られている話です。
9月9日は重陽(ちょうよう)で、「九」という数字は、易によれば「陽数の極」にあたり、これが重なるので非常にめでたいとされました。
中国の風習である、この日に菊の花を飾り、邪気を祓って長寿を祈るというものが元になっており、宮中では重要な節句として位置付けられ、菊を用いることから別名「菊の節句」とも呼ばれます。
白は、陰陽五行では、方位としては西、陰陽としては陰に配されます。
一年と四季の終わりの陰の季節である冬に、同じく陰に配される白の花である菊を対置することでように転化させて、重陽と合わせて幾重にも陽を重ねて邪気を祓って長寿を祈る呪術にしたものでしょう。
もしかすると、菊花紋は古代中東の太陽紋によく似てるから、数ある冬になく花の中から陽の花として菊が選ばれた可能性を考えても面白いです。
こうしてみると、花の節句はたんに美しい花を愛でる日である以上に、汚れや邪気を払いたいという切なる願いの呪術であることがはっきりします。
1月から3月にかけて咲く梅の紅白はかつては、花見の主流であったし、今も多くの人が梅園で花を愛でます。
梅の紅白は、呪術で言えば陽の赤と陰の白で陰陽太極となり、ここから万物が生成するとされる事を思えば、この花が咲く時期が一年の初めの1月に定められたのはただの偶然ではないかもしれないです。
陰陽はカッバーラだとする人たちは、自然界にまでカッバーラが仕掛けられていると言い出すのかも知れないです。

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「イーチー(Yi qi)」発見で今後の恐竜研究はどうなる?どこへ向かうか、恐竜研究。その11

20154月、中国で奇妙な恐竜が見つかりました。

中国語で「奇妙な翼」を意味する「イーチー(Yi qi)」と命名されたこの恐竜は、何を物語るのでしょう。

 

恐竜は鳥との共通点はしきりに指摘されてきたが、今度は哺乳類が絡んできて、更なる論争を引き起こしそうです。

 

もっとも、鳥は哺乳類との間で卵生であるカモノハシの帰属をめぐって論争が起き、授乳能力があるということでカモノハシは哺乳類に分類されました。

ちなみに現在確認されている卵生哺乳類は、単孔類に属するカモノハシの1種とハリモグラの4種のみです。

 

カモノハシなど単孔類には乳首はなく、メスのお腹の下の方には、一般哺乳類の乳腺に匹敵する内分泌腺が集中している場所があります。

子供が孵化するとメスはそこを自分のくちでつついて刺激し、その乳腺らしきところからにじみ出るようにお乳が出てきて、メスのお腹の毛にお乳のしずくが溜まります。

これを子供は「すする」ようになめ取ります。

 

とはいえ鳥にも素嚢乳のように授乳能力が見つかっているので、授乳能力があるかないかで哺乳類を特徴付けることは困難になりつつあります。

さらに恐竜にも素嚢がある以上、素嚢乳の可能性は否定できないので授乳能力をめぐる論争に恐竜が巻き込まれるのは避けられない展開ですが、今度の「イーチー」の発見はそこに一石を投じることになるかも知れません。

 

新種恐竜の化石発見 コウモリのように飛膜広げて飛ぶ? 中国・河北省

産経ニュース2015.4.30 06:00

膜を広げて飛ぶ恐竜「イー・チー」の想像図(DINOSTAR社提供)

 コウモリやムササビのように飛ぶときに広げる「飛膜」を持つとみられる新種の小型恐竜の化石を発見したと、中国科学院のチームが29日付の英科学誌ネイチャー電子版に発表した。

 

 恐竜には羽毛の翼で飛ぶものもおり、鳥の起源と考えられている。化石は中国河北省にある約1億6千万年前のジュラ紀の地層で農民が見つけ、チームが分析した。ハトほどの大きさで頭は約4センチ、体重約380グラムと推定した。

 

 長い前脚の先端に長い指や突き出た骨があり、周りに皮膚でできた膜があった。チームは骨の構造などから飛膜の可能性があると判断。この恐竜を中国語で「変な翼」を意味する「イー・チー」と名付けた。

 

 コウモリのように羽ばたくか、ムササビのように滑空したかは不明。頭から前後の脚にかけて短い羽毛で覆われていたが、羽毛は飛ぶのに適さないという。(共同)

 

皮膜の「翼」持つ新種恐竜、中国で化石 結論に疑問の声も

AFPBB News20150430 12:17 発信地:パリ/フランス

皮膜の「翼」持つ新種恐竜、中国で化石 結論に疑問の声も

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新たに発見された皮膜の「翼」を持つとされる新種恐竜の化石(2015429日公開)。(c)AFP/NATURE/ZANG HAILONG IVPP

430 AFP】ハト程の大きさで、コウモリに似た翼を持つ新種の恐竜の化石を発見したとの研究報告を、中国の科学者チームが29日に発表した。鳥類の初期進化に予想外の展開をもたらす発見とチームは主張しているが、この結論に異議を唱える声もすでに上がっている。

inRead invented by Teads

 中国語で「奇妙な翼」を意味する「イーチー(Yi qi)」と命名されたこの恐竜は、羽根ではなく皮膜のある翼を特徴としているが、進化の中で飛行の「実験」を試み失敗した数多くの例に、奇妙な予想外の一例として名を連ねるものだと研究チームは述べている。

 

 英科学誌ネイチャー(Nature)に掲載された論文の共同執筆者で、中国科学院(Chinese Academy of Sciences)の徐星(Xu Xing)氏は「どれほどの『実験』が行われていたかを示す明確な一例だ」と語り、「(恐竜から進化した)鳥類の起源に近い。多くの系統がさまざまな方法で空に飛び立とうとしたが、最終的にはただ1つの種でしか成功しなかった」と続けた。

 

 イーチーは鳥類の直接の祖先ではなく、絶滅した系統の近縁種とされた。

 

 恐竜に命名されたものとしてはこれまでで最も短い名前を持つイーチーは「スカンソリオプテリクス(Scansoriopterygids)」科と呼ばれる、羽根と非常に長い「指」を持つ小型恐竜の種族に分類された。長い指は、木登りや昆虫を捕らえるのに使われた可能性がある。

 

 中国で発見された化石でしかその存在を知られていないスカンソリオプテリクスは、始祖鳥(Archaeopteryx)などの原始的な鳥類と近縁関係にあり、飛行しない恐竜と鳥類との間の過渡的な種とみなされている。スカンソリオプテリクスについては空を飛ぶ生物ではないとこれまでは考えられてきた。

 

 新たにスカンソリオプテリクス科に追加されたイーチーは、成体の体重が約380グラムで、約4センチの頭骨には極小の歯が並んでいる。また羽根は貧弱すぎるため、飛行には役立たないとみられている。

 

 だが、イーチーを本当に際立たせている特徴は、両手首から突き出た全長約13センチの突起物だ。

 

 恐竜でこのような特徴が見つかるのは今回が初めてとなる。そして研究チームは、コウモリや飛行するムササビなど、現代の空飛ぶ哺乳類にみられるものに似ていることに着目した。「これは飛行にとって、最終的に極めて重要になる構造であることに気が付いた」と徐氏は話す。研究チームは予想通り、骨とともに保存されていた「膜性組織」の残留物も発見している。

 

 これまでのところ、イーチーの存在を知る手掛かりについては、北京(Beijing)近郊で農夫が発見した16000万年前のジュラ紀の岩石の中にあった1個の化石だけとなっている。しかも、胸郭から下の部分は失われていたため、骨盤、後肢、尾などは、他のスカンソリオプテリクスのものであることが知られている化石から推測しなければならなかった。

 

■真相は謎に包まれたまま

 

 だが、両端が湾曲している骨質突起が担うとされた役割については、誰もが納得しているわけではない。

 

 米カリフォルニア大学(University of California)の生物学者、ケビン・パディアン(Kevin Padian)氏は、ネイチャー誌に掲載された今回の論文の解説記事の中で「しっかりと飛行するには、前進に必要な渦気流を発生させることのできる、羽ばたき運動をする能力がなければならない」と指摘する。

 

 同氏は「イーチーがこの能力を持っていたことを示唆する証拠はこれまでのところ、何一つ提示されていない」として「この恐竜が羽ばたきをしていた可能性は保留にすることができる」と示唆した。

 

 滑空していたかどうかについても、イーチーの体の後部に関してほぼ何も分かっておらず、重心を知ることができない状況を考えると、まだ結論は下せないとしながら、「あたかも飛行に使われていたかのようにみえる奇妙な体構造を持っているが、これ以外はそうした傾向を何も示していない。真相は謎に包まれたままだ」と記している。(c)AFP/Mariette LE ROUX

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神はわれれれに選択の自由をちゃんと使うよう求めておられるようです。

意外と知られていないが、聖書は人の自由意思による神との誓約を基本としています。

 

実際に聖書で例を見てみましょう。

 

:マタイによる福音書 9 22

イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。

 

マルコによる福音書 5 34

イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。

 

マルコによる福音書 10 52

そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。

 

ルカによる福音書 7 50

しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

 

ルカによる福音書 8 48

そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

 

ルカによる福音書 17 19

それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。

 

ルカによる福音書 18 42

そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。

聖書が人の自由意思による神との誓約を基本としていると、わかっていただけたでしょうか。

それは、神は自分に従うものに自分のようになってほしいからなのです。

 

マタイによる福音書 5 48

それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

 

コリント人への第一の手紙 11 1

わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。

 

コリント人への第二の手紙 13 11

最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。

 

エペソ人への手紙 5 1

こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。

 

エペソ人への手紙 6 10

最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。

 

テモテへの第二の手紙 2 1

そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。

 

ヤコブの手紙 1 22

そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。

 

ペテロの第一の手紙 1 15

むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。

 

神に随う人々に、目指す方向はこう記されます。

 

ペテロの第二の手紙 3 18

そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。

 

そして神は、付き随う人々にいたわりを示されます。


マタイによる福音書 11 28節から30

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 

難しいと、ため息をつく人にはこの言葉があります。

 

ヤコブの手紙 1 5

あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

 

神は本当に求めに応えてくださるかと不安を持つ人には、この言葉があります。

 

マタイによる福音書 7 7節から11

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。

魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。

 

話が長いと仰るかもしれないけど、聖書はもっと読みでがあります。

 

内容はもっと多く、もっと深く、盛りだくさんです。

 

でも、最低限、これくらい知っておけば、もしあなたが聖書を読むときがあれば、解釈の目安くらいにはなるでしょう。

 

この中のほんの一部で良いから、記憶の片隅に置いてもらえば幸いです。

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