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弱さを強さに変えるには自己責任論はかえって邪魔になる。

自己責任論者って、実はまるっきり他人に責任転化しまくりの責任逃げまくりの無責任論者って思ってはいけないのかしら。 

自己責任で頑張って出来なくって助けを求められても何にもできない無能ぶりをさらけ出すのが怖い、弱虫って思ってはいけないのかしら。

自己責任論って聞いていると、聖書のこの言葉連想します。

マタイによる福音書 7 3節~5 

 

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら自分の目にある梁を認めないのか。 

 

自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。

偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。

そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

マタイによる福音書 23 15

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。

あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。

そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

自己責任論者が本当に強いなら、こう言えるのではないですか。 

ーマの信徒への手紙151

わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。

けれど、私たちはこう言えるほど、強いでしょうか。

むしろ自分の無能と無力をさらけ出して、それでも助けを必要とする誰かを助けたいから誰か手を貸してって、走りだしてしまう人の方が滅茶苦茶カッコいいって思ったら変ですか。

そうやってみんなを巻き込んで一人じゃ出せない力をみんなに助けられて発揮できる人って羨ましすぎます。

こういう人は、聖書のこの聖句を思い起こさせてくれます。

コリント人への第二の手紙 11 30 

もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。

コリント人への第二の手紙 12 5

わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。

コリント人への第二の手紙 12 9

ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

コリント人への第二の手紙 12 10

だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

コリント人への第二の手紙 13 4

すなわち、キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。このように、わたしたちもキリストにあって弱い者であるが、あなたがたに対しては、神の力によって、キリストと共に生きるのである。

自己責任論者って、結局みんなを自分は何もできない無力で無能なダメな人何だって委縮させて、無力な自分を免罪したいだけなのではないのでしょうか。

そんな生き方つまらないでしょ。

人って、助け合って力を貸しあって、はじめて成長できるのではないかしら。

自己責任論が日本をダメにしてると思うのです。

自分は何もできないから、足ひっぱるだけなんて、委縮していまったらつまんないでしょ。

だったら、余計に大勢集まって、微力を強力な力に変えてしまえば良いじゃないの。

どんな大河も小さな一滴から始まって大勢集まって、あの姿になっているって知っているでしょ。

人の力だって同じじゃないのかしら。

 

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