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2016年9月

日本にとって天皇制はどういう意味を持つか。

天皇制については、古代から続く前世紀の遺物と見る人も多いです。

 

確かに古代から続くシステムには違いないが、アジアの多くの国が古代のリフレインから抜け出せなかったのに、なぜ日本は違ったのかと言うことです。

 

多くのアジア諸国の王との決定的な差は、天皇はいわば日本版教皇ともいうべき立場であったことなのです。

 

祭政一致的な国家の最高権力と言うなら、アジア諸国の王の多くはそうでした。

 

だが日本の天皇との決定的な差は、天皇が教皇的な最高祭司に祀り上げられてしまったことなのです。

 

教皇的な最高祭司に祀り上げられた結果、天皇は執権の任命権者として君臨、時代の変化に応じた執権を自在に任命できたのでした。

 

執権のおおもとの意味は、政務を執行する者と言うことです。

 

執権は歴史的な用語として知られているが、ここでは一番基本的な意味で用います。

 

余談ですが、キリスト教世界の教皇は近代国家成立以降国家の執権に当たる人々を認証する役目から外れてしまったが、日本の天皇は今でも総理大臣や内閣の認証を形式的な儀式だけになってしまったとはいえ続けています。

 

これは、天皇が日本国成立の時から日本の中心として君臨し続けてきたのに対して、教皇はヨーロッパ諸国がキリスト教化したことによって精神世界の頂点に位置付けられたことやキリスト教世界が東方正教会やカソリックやプロテスタントに分裂したことと、おそらく無関係ではないでしょう。

 

本題に戻ります。

 

多くの国々の場合、権力の交代は国全体のリセットとなってしまい国家建設の成果の蓄積は事実上できませんでした。

 

日本は天皇制が維持できたおかげで、国家の一貫性が保たれ、国家建設の成果の蓄積が可能となったのです。

 

これは、天皇制の好き嫌いに無関係に認めざるを得ない事実なのです。

 

天皇制が日本史の展開の上で果たしてきた役割の大きさを思うとき、天皇制の廃止はすなわち、事実上の日本史の断絶となるでしょう。

 

果たしてそれが、日本にとって吉と出るか凶と出るかは誰にもわかりません。

 

ただ、天皇制の廃止をすることになれば日本史を貫いてきた大黒柱を失うことは紛れもない事実と言えるでしょう。

 

日本がもしも天皇制の廃止に踏み切った場合、代わりとなる国家の大黒柱を確固として打ち立てていく事ができるのかが、問われる事態となるかもしれません。

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生粋の日本人にこだわる意味ってあるのでしょうか。

生粋の日本人って言う人がいるけど、島国日本は太古に大陸からわたってきた祖先の子孫の国なんですよね。

先住民の縄文人、最新研究によるとヨーロッパとアジアの人種や民族が分かれる以前の人たちの子孫だと判明したらしいです。

勿論、縄文人の祖先たちが旅立った場所はその場所は中東のどこかってことになるわけです。

当然、弥生人も大陸出身です。

日本には、百済や新羅や高句麗からの亡命者や秀吉が朝鮮出兵で連れてきた朝鮮半島出身者もいるけど、日本人の遺伝子の主流に中国や韓国・朝鮮と同じものはないのです。

面白いことに、ほとんど中国や韓国を迂回したルートかシルクロードが日本人のアジア横断ルートとして浮かび上がってくるのは興味深いことです。

シルクロードと言えば面白い伝承が中央アジアのキルギスにあり、肉好きはキルギスに残り魚好きが東に向かって日本人になったと言うが、それくらい彼らは日本人に似ているのです。

キルギス人はテュルク系民族だが、トルコ人もその一派です。

キルギスもトルコも、日本人が驚くくらい親日らしいから、面白いんですよね。

それと、日本はアジアにおけるヨーロッパの遺伝子病の飛び地でもあり、しかも、その広がりは、結構ヨーロッパの広範囲に及ぶのです。

これも、ヨーロッパとアジアの人種が分かれる以前の人たちの子孫が縄文人と知れば納得できるわけですね。

何しろ日本人の遺伝子分布をヨーロッパ寄りにした原因は縄文人と判明しているのですから。

それに、アメリカ大陸の先住民も縄文人とご親戚であることが、遺伝子研究でも裏付けられたし、縄文土器や古代日本人の骨もアメリカ大陸で見つかっているのですよ。

古来日本人は、ワールドワイドな移住をしてきたことがどんどんわかってきたのです。

生粋の日本人とかこだわる方が、馬鹿馬鹿しいってことなのですね。

太古、日本人は世界を股にかけて壮大な旅をしてきた民族であることが、これからもどんどんわかってくることでしょう。

そのことを世界に積極的に発信して、世界に平和を呼びかけ各地に古代の日本人の足跡探ししようじゃないですか。

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたい」と言う憲法前文と、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言している憲法9条はその時、最大のパスポートになるはずです。

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やはり宇宙は膨張していない?!

膨張宇宙論でどうしても納得できないことがあるのです。

それは、空間が膨張しているという主張です。
内部構造が今のところ想定されてない電子などのレプトンやクオークには、内部空間を考えなくても良いでしょう。
だが、陽子などのハドロンはクオークが組み合わさって出来ていると見られている以上、内部空間を想定しない方がおかしいはずではないでしょうか。
さらに原子は陽子や中性子と電子から出来ていると見られている以上、これらの粒子の存在の場としての空間がないと考える方が馬鹿馬鹿しいはずではないでしょうか。
もしも空間が膨張しているというなら、ハドロンや原子はどうして膨張していないのでしょう。
ご都合主義にもほどがあります。
ご都合主義と言えば、遠くを見ることは過去を見ることと宇宙論では当たり前のように言われています。
ところが、遠くの方ほど赤方偏移が大きいことがわかると、将来はもっと膨張が加速すると真顔で議論が展開され、遠くを見ることは過去を見ることだからそれ違いますよと、誰も突っ込んでいないように見えるのです。
遠くの方ほど赤方偏移が大きいことは遠くの方ほど膨張が早いことを意味しているなら、遠くを見ることは過去を見ることなはずだから、宇宙の膨張は減速して、今は検出不能なほど遅くなっているという議論が展開されないとおかしくないですか。
さらに言えば、加速度と重力は区別できないとアインシュタインは指摘しています。
ハッブルが観測した赤方偏移の正体が、アインシュタインが放棄してしまった宇宙定数の存在の証拠だったらどうでしょう。
ちなみに、宇宙定数は宇宙項とも呼ばれています。
アインシュタインがあっさり宇宙定数を手放したのは、引力だけでは宇宙は一瞬で縮んでしまうので、引力と大きさが同じで向きが反対の力として苦し紛れに導入したのが宇宙定数だったからです。
それはプランク定数を見出したプランクが、プランク定数を暫定的に導入したに過ぎないと考えていていたことと似ています。
プランク定数は実在すると考えるアインシュタインのおかげで物理学に定着したが、宇宙定数には重力に斥力なんか見つかっていないし見つかるはずもないと誰も救いの手を差し伸べなかったと言う点が違いますけども。
歴史にもしはないが、仮にアインシュタインが、宇宙定数は引力と向きが反対なだけだから加速度と区別がつかないはずでハッブルの発見は宇宙定数の存在を裏付けた、と主張したならその後の宇宙論の展開は大きく変わっていたかもしれません。
今、皮肉なことに膨張宇宙論は再び宇宙定数に注目しだしています。
だが宇宙定数はもともと、定常宇宙論とペアで提起されたのであって、宇宙膨張を論じるためではありません。
膨張宇宙論に合わせて宇宙定数を定義しなおすなら、宇宙定数はかえって宇宙論に新たな混乱をもたらすことになるでしょう。
どこまでもご都合主義な膨張宇宙論に未来があるとは、とても思えません。
裏口から宇宙定数に変装させて招き入れるなんて、姑息過ぎます。
正直にアインシュタインが提起した通りの姿で、宇宙定数をレッドカーペットを敷いて玉座に迎え入れるべきでしょう。
その時は、膨張宇宙論がアインシュタインの定常宇宙論に降伏の白旗を掲げる時ではないでしょうか。

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危機の時こそ冷静さを。

このままでは、二、三十年後(と言わず数年後)には今と全く違うファシズム国家になってしまうと思うからと焦る人たちの気持ちは痛いほどわかるのです。

だがそれだけに、失敗による後退や停滞の余地はないのではないかしら。

「急がば回れ急いては事を仕損じる」

こういうときこそ落ち着いて着実に進むべしなのではないのかしら。

急ぐと焦るは違うはずでしょ。

急ぐ時こそ落ち着いて失敗を避けながら、着実に進む必要があるのではないかしら。

焦って浮き足立てば簡単に騙されたり、足並みが乱れたりするのではないかしら。

嘘で固めている相手の嘘に慌てて乗らないためにも、焦りと怒りの気持ちは痛いほどわかるが落ち着いて判断と行動をして欲しいのです。

これが最後のチャンスとか言って焦って中途半端な手を打てば、勝てる勝負も負けてしまう、違うかしら。

むしろそうやって中途半端な手で負けてばかり来たから、今ここまで追いつめられて来たんじゃないかしら。

焦る暇があったら、冷静に現状を分析して勝てる手を考えた方が良いと思うのです。

今闘っているのは、99%VS1%の闘い、違うかしら。

数で勝ってる我々が負けてるのは、焦って中途半端な手ばかり打っているからじゃないかしら。

こういう時こそ冷静に相手の動きを見て、どうすればいいのかじっくりと考える方がいいんじゃないかしら。
時間がない時こそ、目的にたどり着くための確かな道を落ち着いて探さなければ、時間内に目的にたどり着くことはできないのではないかしら。
焦る人は中途半端な道に進み道に迷ってかえって余計焦ることになって、時間をいたずらに無駄にするのではないかしら。
勝利への道を求めるときも、落ち着いて探す方が良い、違うかしら。
落ち着く暇などないという人がいます。

暇はなくとも小さな隙間時間ならあるのではないかしら。

そこで集中的に考えて、また仕事に没頭するのです。

本気で答えを求めたいことって、案外無意識のうちに考えていて突然アイデアが浮かぶもんですよ。

急ぐと焦るは違うのです。

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