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2016年12月

欧米のキリスト教に思うこと若干。

ネットでイスラムになびいちゃう欧米の若者が結構いると聞いて、へえって思ったことがある。

モルモンへ改宗する欧米の若者も、ネットでモルモンの会員とやり取りする中で改宗を決意する人が結構いると言う。

ネットの力、意外と馬鹿にできないって思う。

 

欧米の若者でイスラムに惹かれる人が出る背景には、欧米のキリスト教に対してコレジャナイ感が大きいことが挙げられるかも。

既存のキリスト教会からモルモンへの改宗も結構あると聞いたことある。

 

カトリックもプロテスタントも、魂の救済にとどまらず、生き方を求めて祈る信仰へと軌道修正しない限り、欧米の若者たちの教会離れも止まらないし、ISに足元を掬われてしまう若者たちも引き留めることなんて絶望的なまでに出来ないと思い知った方が良いのではないか。

 

カトリックの堕落を批判したプロテスタントもまた堕落したが、生き方を求める信仰に軌道修正することは魂の救済に胡坐をかいてきた生き方の全否定であり当然苦痛を伴う。

すでに得ている魂の救済の既得権益を脅かす輩が、気に入らないと言うわけであると言うことなのか。

そこに気付こうとしないのだとしかみえないのは、気のせいだろうか。

 

だが欧米の既存のキリスト教徒の多くは、若者たちをISにとられたこととイスラムにとられたことを短絡的に混同する傾向さえあるように思う。

彼らはイスラムを知らないばかりか知ろうともしないように思えるのは、とても悲しい。

キリスト教にいちゃもんをつけて喧嘩を売った、けしからん異教徒としか見ようとしないようだからだ。

違うだろうか。

 

旧態依然の欧米のキリスト教は魂の救済は説いたが、どう生きるべきかは説かなかった。

イスラムもモルモンも仏教も、どう生き、どう考えるべきかを彼らに示した。

ISに若者を取られたくないなら、既存のキリスト教も生き方を生き方を模索している若者に応えようとするべきだ。

 

現在、米国の仏教徒は約3百万人を数え、全米人口の1%に当たる。

ヨーロッパでも約100万人いる。

キリスト教徒と比べれば、仏教徒の数はまだマイナーだ。

しかし、伸び率だけに注目するなら、キリスト教徒をはるかに上回る。

なぜそうなるのか。

彼らは生き方を求めているのだ。

 

モルモンへの改宗者もまた生き方を求めて、既存のキリスト教会に別れを告げた人たちである。

既存のキリスト教は信ずれば救われると説くが、どう生きるべきか指し示す力がない。

ただ救いを求めてすがる人たちばかりと、言って良いかもしれない。

受け身ばかりと言えるだろう。

 

トリックへの反発からプロテスタントが生まれたが、今欧米では既存のキリスト教への幻滅から宗教離れが深刻と言う。

維持がままならなくなり、手放される礼拝堂もかなりあると聞く。

だが、心の支えや拠り所を求める人は実は多い。

Isの誘いに乗ってくる若者は、心の隙間で足元が掬われてしまった人が結構いると言う。

さもありなんと言うべしだろう。

 

欧米では既存のキリスト教への幻滅から宗教離れも多いと聞くが、どう生きるべきかの悩みは多くの若者が普遍的に抱えている課題。

ISの誘いに乗ってしまう欧米の若者が多いのは、旧態依然の教会の体質に問題があると私は見る。

だがどっぷり浸かり込んだ人にはそれが見えてないのではないか。

 

FW・ニーチェの「アンチクリスト」も、欧米のキリスト教の現実への幻滅からキリスト教そのものの否定に走った典型だが、欧米の若者も既存のキリスト教への幻滅から改宗希望者が多いのかも知れない。

だから、イスラムやモルモン、仏教などに惹かれる人が結構出るのかも。

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ダークマターもダークエネルギーもない?

マイナビニュースに面白い記事が掲載されました。

 

ダークマター存在せず? - 「エントロピック重力理論」と観測データが一致

荒井聡 [2016/12/22

ライデン天文台(オランダ)の天文学者マーゴット・ブラウワー氏らの研究チームは、宇宙における重力分布の測定データを分析し、「エントロピック重力理論(ヴァーリンデ理論)」と一致する結果を得たと報告した。エントロピック重力理論は、2010年にアムステルダム大学の理論物理学者エリック・ヴァーリンデ教授が発表した重力についての新理論。重力とは「電磁気力」「強い力」「弱い力」と並ぶ自然の基本的な力ではなく、実は「見かけの現象」に過ぎないとする理論であり、発表当時、物議を醸した。この理論に立つと、宇宙の全質量・エネルギーの約27%を占めるとされる目に見えない未確認の重力源「暗黒物質(ダークマター)」を想定しなくても良くなる点も注目されている。ブラウワー氏らの研究論文は「英国王立天文学会月報」に掲載された。

 

研究チームは今回、33000個超の銀河の周囲での重力分布を測定し、それらのデータがヴァーリンデ理論による予測値と一致するかどうかを調べた。その結果、観測された重力分布はヴァーリンデ理論とよく一致していることが確かめられたという。

 

重力分布の測定には「重力レンズ効果」を用いる。銀河の重力によって銀河の周囲の空間が歪むため、歪んだ空間がレンズの役割を果たし、その空間内を通る光の進路が曲がる。これによって手前の銀河のまわりでは背後の銀河の像がわずかに歪む。この歪みを測定することで重力分布を調べることができる。

    

重力レンズ効果による銀河の像の歪み(出所: Netherlands Research School for Astronomy)

重力レンズを使って調べると、銀河の周囲では、アインシュタインの一般相対性理論から予想されるより強い重力が、銀河の半径の数百倍に及ぶ範囲に広がっていることがわかる。一般相対性理論に矛盾しないようにこの重力分布を説明するには、見えない重力源であるダークマターの存在を仮定する必要がある。一方、ヴァーリンデ理論では、ダークマターを想定せず、目に見えている天体だけを重力源として計算しても観測結果を上手く説明することができる。

 

ブラウワー氏は「ダークマターを仮定しても銀河のまわりの重力分布は説明可能である」と指摘する。つまり、今回の研究によってダークマターの存在が直接否定されたわけではない。ただし、ダークマターによる説明では、実際の観測で得られたデータと合致するようにダークマターの質量を決める必要がある。つまり、理論と現実を一致させるための自由変数として、ダークマターの質量が使われている。一方、ヴァーリンデ理論はこうした自由変数を利用しておらず、理論から直接導出した予測値が実際の観測結果と一致するという強みがある。

 

今年11月には、理論提唱者であるヴァーリンデ教授本人も、エントロピック重力によって「銀河の回転速度問題」を説明できるとする論文を発表した。渦状銀河の外縁部は、非常に速い速度で回転していることがわかっているが、目に見える通常の天体の質量にもとづく計算ではこの速度の説明がつかない。この問題を既存の重力理論の枠内で説明するには、目に見えない大量のダークマターを重力源として想定する必要があった。

 

エントロピック重力理論では、重力とは「物体の位置に関する情報量の変化によって生じるエントロピー的な力である」と説明される。物体の位置が変動することによって、情報量としてのエントロピーが変化し、この変化が重力という形を取って現れるという。つまり、重力とは、エントロピー変化にともなう見かけ上の現象ということになる。

 

この主張は、「電磁気力」「強い力」「弱い力」と並ぶ自然の基本的な力として重力をとらえる従来の物理学理論とは大きく異なっている。また、「情報」という概念を使って重力について説明しているところも、エントロピック重力理論の特徴である。三次元空間内の情報はすべて二次元平面に保存されるとする物理学上の仮説「ホログラフィック原理」とも深く関わっている。


 こういう内容です。

 そう言えばアインシュタインは、重力を時空の歪みとして考察していました。

 

言ってみれば、重力とは時空の中に質量が存在することによって派生する二次的な力として捉えていたと言う見方も可能なわけです。

 

重力を見かけ上の力に過ぎないとするエントロピック重力理論のような議論は、これまで出てこなかった方が不思議ともいえます。

 

とは言え、アインシュタインでさえ重力を含む統一理論構築に四苦八苦していたことを思えば仕方がないことかも知れません。

 

ダークマターやダークエネルギーは、プラズマ宇宙論では考察する必要性が無いとされてきたことを思えば興味ひかれる展開になってきました。

 

さて、ダークマターやダークエネルギーの運命はどうなるのでしょう。

 

検出したいと頑張っている人たちの反応が知りたいところです。

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漢字は誰が作ったのか。

漢字は聖書で読み解けるのではないか、そういう議論には何度か出会ってはいました。

何人もの人たちがそう指摘するなら誰かが一冊の本にまとめているのではないか、そう思って探してみたところ、この二冊が見つかりました。

 

旧約聖書は漢字で書かれていた―「創世記」が語る中国古代文明の真実

C.H.カン&エセル.R.ネルソン

 

漢字に秘められた聖書物語

ティモシー.ボイル

 

興味深いことに、著者はいずれも漢字文化圏の人ではありません。

正確に言えば、著者の一部と言うべきですが。

 

「旧約聖書は漢字で書かれていた」の方はオリジナルの研究は中国人牧師だったが、その人と連絡を取り合いながら執筆したのが非漢字文化圏の人でした。聖書と漢字のただならぬ関係に気付いて研究を始めた中国人の仕事に興味ひかれた著者が、協力したと言います。この本はそのようにして集まった数人の人たちが関わったプロジェクトの成果として出されたものです。本書は、この議論が本当に成り立つのかと言う検証に重点を置いているので、その手の話に興味がある人には、こちらをお勧めします。

 

「漢字に秘められた聖書物語」の方は面白いことに、漢字を覚えるのに自分にとって身近な聖書の知識が使えないかとやってみたところ、あまりにも多くの漢字が解釈できてしまうので、どんどん進めてとうとう一冊の本になってしまったと言う事なようです。多くの外国人から漢字学習に使いたいので英語版が欲しいと言う声に応えて、自費出版で英語版まで出してしまったと言うことです。聖書で読み解けると言うなら実例を見せろと仰る方には、解読例の多さでこちらをお勧めします。

 

全く違う動機から漢字を聖書で読み解く仕事をまとめた本が複数執筆されたという事実は、聖書と漢字の関係がただならないものである可能性があると言っているような気がするのです。

 

そこで、白川静の「文字講話」を開いてみました。

 

すると、この記述に目が留まりました。

 

許慎の「説示解字」にこうあると言うのです。

易の八卦を作ったのが文字の起源であると。

 

易は陰陽と深いかかわりがあります。

 

そして、陰陽はタントラなどとならぶ、古代の弁証法思想なのですが、陰陽やタントラとユダヤ教神秘思想であるカッバーラとは、実は深い関連を指摘できるのです。

 

聖書自体の編纂は、漢字の誕生より時代が下ると指摘されます。

 

しかし、やがて聖書に結実することとなる伝承や思想が、その編纂に先立って東方に伝わることは、大いにあり得る事なのです。

ペルシャとインドの民族の起源は極めて近いことは、よく知られていることです。

古代中東の思想がベースとなって、インドではタントラが、中国では陰陽や易が、生まれたことは十分に考えて良い事ではないでしょうか。。

 

日本人の祖先は、東アジアや南アジアの民族が分かれるより前に中東を旅立ち、日本にたどり着きました。

 

実際中国古代の民族の移動を見ると、西方から来た白人的風貌な民がいたことがわかっています。

 

例えば、楼蘭故城の西170㎞で見つかった小河墓です。

集団墓地には眠っていたのは、彫りの深い白人に似た容貌なミイラたちでした。

赤く塗られた棒状の男性を象徴する墓標に女性が、黒く塗られた扇状の女性を象徴する墓標に男性が、葬られているのです。

これは陽の男性原理には陰の女性原理、陰の女性原理には陽の男性原理が配されると言う、陰陽に極めて近い思想が示しています。

大陸内部で彼らの消息を辿ることはできていないが、滅びた痕跡も見つかっていない以上どこかに移住したと見るのは自然であり、その先が日本であることは十分あり得るのです。

 

神道の哲学もまた極めて陰陽に近く、随神(かんながら)の思想は経典こそないがこれまた聖書の教えに奇妙な程似通っているのです。

そして、アイヌの生活文物に古代イスラエルとの類似が、沖縄にいたっては文化と聖書の類似が、指摘されるのです。

 

縄文人のルーツも一筋縄ではいかぬところがあって、複数の集団が合わさっているのではないかと見られています。

そうなれば、そのうちの一つにアジアルートがあると考えるのはごく自然です。

そして、そのルートが古代中東のカッバーラに通じる思想の伝播と深く関わっていたとみても良いのかもしれません。

 

実際、釈迦を生んだ地域と近いチベットも日本人と共通の古代中東の遺伝子が残っているのです。

 

「旧約聖書は漢字で書かれていた」のなかで、キリスト教と驚くほど似通った上帝に注目しています。

もしかすると、この上帝思想も日本の天皇の思想の下敷きになっているかもしれないと考えてみても面白いでしょう。

この上帝思想から、天孫降臨の発想も生まれたのかもしれません。

 

古代中東から東アジア、さらには日本への民族の移動の過程で、やがて聖書に結実することになる伝承が古代中国の地に伝わり、漢字の成立に多くの影響を与えているのかもしれません。

 

彼らは興亡の激しい大陸を逃れ、日本に渡ってきたがやがて自らの出自を忘れ、日本に同化してしまったのかもしれないですね。


漢字を簡単に簡体字に替えてしまった現代中国と、古い字体を伝え続けている日本と台湾。

そう考えてみると、不思議な気がするのです。

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同祖神とタントラと中東?

日本には各地に陰陽石や同祖神があります。

 

道祖神は坂道や村の教会に、悪霊を防ぐために祀られた神です。

最初は巨大な石だったものが、時代が下るにつれ生殖器の形や、男女が寄り添った像になりました。

 

同祖神の祀り方の中には、九州に見られるようなヨーニとリンガの合体をリアルに表現したとしか思えないものもあるのです。

 

ひょっとしたら、タントラのリンガとヨーニの変形かも知れません。

 

タントラでは、女性器であるヨーニと、男性器であるリンガとから、宇宙的エネルギーとしての炎が生じるとされています。

 

日本神話のイザナミとイザナギは、女性器であるヨーニと、男性器であるリンガの、人格神化された存在とは考えてみても面白いかもしれません。

 

現にイザナミは、火の神を生んでいるのです。

 

これは単なる偶然でしょうか。

 

さらに、太陽神であるアマテラスとアマテルも、女性器であるヨーニと、男性器であるリンガの、人格神化された存在を御霊分けしたのかも知れませんね。

 

アマテラスについては、スサノオとの関係で女神とされた可能性もありえるかもしれません。

 

女性器であるヨーニに当てられたアマテラスと、男性器であるリンガに当てられたスサノオと見るのです。

 

アマテラスのヨーニは、機織り女が飛び樋に女陰を突かれたとあるのがそれでしょう。

 

日本書紀には一書にいわくとして、アマテラスの隠れを死と記す記録もあると指摘していると言います。

 

スサノオのリンガは、逆剥けの馬とあるのがそれでしょう。

 

「飛び樋」を「飛び火」と見ると、宇宙的エネルギーとしての炎の事でしょう。

 

日本語では、よく掛詞をするが早い話駄洒落ってことです。

 

ついでに言うと、アマテラス=機織り女=織姫とすれば、スサノオ=牛頭権現=牽牛となるでしょう。

 

二人の出会う7月7日は、女のメノラーと男のメノラーが重なる日なのでしょうね。

 

メノラーとは七枝の燭台のことで、ユダヤ教のシンボルです。

 

それと、聖にして、生にして、性なる炎こそが、聖火の正体ではないのでしょうか。

 

そして、モーゼが見た神の炎も、この聖火かも知れません。


タントラと陰陽道とカッバーラは、見た目は一見違っています。


でも、よくよく吟味すると実はよく似ている思想であることに気が付くのです。


インドには、古代ペルシアから分かれた人々が移動したことが知られています。


古代中東の思想が伝わっていても不思議ではありません。


そして、古代中国と古代中東もまた、今日の私たちが想像する以上に繋がっている可能性があるのです。


そして、日本はその延長線上にあるのではないでしょうか。


日本古代史と中東の繋がりは、もっと注目されて良いのではないでしょうか。

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聖書は誰の目線で書かれているか。

聖書に猫が出てこないと言う人もいます。

外典に位置付けられるエレミヤの手紙に、聖書では珍しく猫がでてきます。

エレミヤの手紙はバルク書の第6章として含まれることもあり、哀歌の後続の小編として位置づけられています。

偶像崇拝の馬鹿らしさを述べる文脈の中で、21節に゛その体や頭の上を、こうもりやつばめ、小鳥が飛び交い、猫までやって来ます。゛とあるようにバビロニアにも猫はいました。

ならば、古代のイスラエルやユダの王国に、猫はいなかったのでしょうか。

イスラエルの民は猫が大好きなエジプトに長い事住んでいた以上、猫の存在も、財産を守る猫の大切な役割も、知らなかったはずはありません。

エジプトを去る際、多くの財産とともに出発したことでしょう。

ならば、彼らの傍らに猫がいなかったと考える方が不自然ではないでしょうか。

にも拘らず、聖書にはエレミヤの手紙以外に猫の出番がありません。

しかし、ねずみはレビ記、サムエル記上、イザヤ書、ゼカリヤ書に登場します。

ねずみは地を荒す穢れた生き物として嫌われている事を思えば、大切な祭具や貯えや諸々の道具類を守るために猫を同伴していたか、ヤマネコの来訪を待ち望んでいた可能性があります。

ならば、なぜに猫の出番が聖書で巡ってこないかと言えば、答えはただ一つです。

聖書は歴史の記録書である以前に、聖典だからなのです。

古代イスラエルやユダヤに人たちがどんなに猫の可愛さにぞっこんになろうが、めろめろになろうが、ちゃんとした生活さえできていれば何の問題もないわけです。

これでもし、猫の可愛さにかまけて仕事がおろそかになった人が続出して由々しき事態にまで発展していたなら、神様も猫の構い方について説教をしたことでしょう
今でも猫はマイペースで、邪魔になると思えば自分から落ち着ける居場所を求めて避難します。

まして聖書の時代、猫の一番の任務はねずみ退治であり、猫の生活は縄張りの巡回か寝ているかのどちらかであったし、人々もまた日々の営みで忙しかったことでしょう。

人々の古代からの友として賞賛する人の多い犬でさえ、人々との係わりはほとんど記述はありません。

まして猫はマイペースで、人々のプライベートな寛ぎの時間の遊び相手になることが多いわけです。

町を歩いていて思いがけない場所で出会えれば運が良いと言える存在である猫に、聖書での出番が沢山ある方がおかしいのです。

聖書に猫の出番が少ない理由に、わざわざエジプトの事を持ち出すまでのことなどないと言えるでしょう。

聖書で犬の出番は確かに多いです。

出エジプト記、士師記、サムエル記上、サムエル記下、列王紀上、列王紀下、ヨブ記、詩編、箴言、伝道の書、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、ミカ書、マラキ書、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ピリピ人への手紙、ペテロの第二の手紙、ヨハネの黙示録と、犬の出番のない書を上げた方が早いくらいです。

だが、犬と犬好きに気の毒なくらい、聖書での扱いは芳しいものがありません。

それは、当時の犬は野犬が多く、家畜や旅人にとって危険な存在だったという事情もあるかもしれません。

けれど思い起こしてください。

今の私たちの諺でも、犬が出てくるもので犬の評価が高いものはどれだけあるでしょう。

それに比べれば、猫に関する諺の愉快で笑えるものは多いです。

それは猫が寛ぎの時間の遊び仲間だからでしょう。

出番が多い割に可哀想な扱いの多い犬に対して、エレミヤの手紙以外の出番はないが゛猫まで″と猫は並みいる動物たちの中で別格扱いです。

聖書は、人々に対して神への絶対的な服従を求める書の印象が強いかもしれません。

だが、神は人々にサタンではなく神である私を選びなさいと求めているのです。

神への服従は、神の命令ではなく、神の勧告なのです。

自由な猫と、服従の犬。

そう思って聖書を見れば、人々の自由な選びによる自らへの服従を粘り強く待ち続けておられる神の目線は、果たして猫と犬、どちらに近いでしょう。

コーランの神であるアッラーは、聖書の神と同じですが、古代エジプトの猫神ラーが正体かも知れません。

猫神ラー=アッラー=聖書の神エロヒムの構図に、神の子イエスを並べて見れば、親のエロヒムが猫神ならイエスは子猫ではないでしょうか。

エレミヤの手紙で゛猫まで″と猫は並みいる動物たちの中で別格扱いなのは、猫は別格な神の化身あるいは使者に準えて皮肉られているのではないでしょうか。

猫は象徴ではあっても、神の化身あるいは使者の当人ではないからです。

聖書を選択の自由を説く書として見るなら、自由な存在としての猫目線で書かれているからこそ不自由な選択の余地のない服従の象徴としての犬は可哀想なくらい評価が低いのかもしれません。

聖書が猫目線で書かれた書とすれば、猫の出番が聖書にほとんどないどころか、猫の聖典が実は聖書なのかもしれません。

ヨハネによる福音書1章1節にこうあります。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

この言葉とは、イエスの事です。

面白いことに、実際に猫はイエスのメタファーなのです。

これ、偶然でしょうか。

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科学者ならもっと事実の前に素直になって欲しい。

科学者が言っているからと、鵜呑みは禁物と思っています。

宇宙で遠くを見ることは過去を見る事だと言っておきながら遠方で赤方偏移が大きいのを見ればやがて宇宙の膨張は膨張は加速すると言うが、遠方を見る事からわかるのは過去であり未来であるって、矛盾しているでしょう。
温故知新、故きを温ねて新しきを知るとは言うけれど、遠方の赤方偏移がより大きいってことは、過去の宇宙の膨張は大きかったが次第に減速して今はほとんど膨張は測定不能なほど小さくなったと解釈する方が一貫性があると考えてないのでしょうか。
宇宙の膨張は時代が下るほど減速していると見る方が一貫性があるのに、アインシュタインの宇宙定数を入れた式の方が観測にあっていると言うのは、明らかに解釈の矛盾です。
アインシュタインはもともと定常宇宙を想定して宇宙定数を入れたわけだし、遠くを見る事は過去を見る事なはずなのにそこで赤方偏移が大きくなっていることが未来の出来事とすり替わってしまうって勝手すぎませんか。
近年の太陽光の研究で、太陽の重力による赤方偏移が理論的に説明可能になりつつあります。
長年、波長による赤方偏移のばらつきのために太陽の重力による赤方偏移は検出不能と見られてきたのです。
重力による赤方偏移検出の目途が立ちつつあることで、太陽以外の恒星の光も調査の対象にする計画も立てられようとしていると言うので、展開に注目です。
ニュートリノが光より60ナノ秒(1億分の6秒)速く進むことを観測したと発表されたことがあります。

スイスのジュネーブ郊外にある欧州合同原子核研究所(CERN)から発射したニュートリノが、約730キロ離れたグランサッソ国立研究所の検出器に到達するまでの時間と距離を測定した結果です。

3年以上にわたり1万5000回も実験しないと再現性のないという事実を無視して、短期間の検証で再現できなかったことで否定しようとしたり、誤差やミスで説明できるのではと疑って見たりしてます。

誤差やミスで何度も同じ数値が出る方が不自然だから、ニュートリノの超光速が観測できた可能性があると発表されました。

あり得ないはずの超光速が何度も同じ数値で出た以上、何で誤差やミス以外の可能性があると考えられないのでしょうね。

最も可能性があり得るのは波長の悪戯じゃないかと何故疑わないの、数値が一定なんですから。

ニワトリの指に恐竜の名残 鳥類・獣脚類説を裏付けと言う話題があったが、報道に気になるところがありました。

2011年2月11日の共同通信の記事にはこうあります。

鳥類は四肢動物に属し、翼が前脚に相当、指の骨が3本ある。

一方、獣脚類は前脚に5本の指があったが、進化の過程で薬指と小指が退化。

3本の指となったことが化石から分かっていた。

チームは、卵の中でニワトリの指が形成される過程を、3本のうち最も外側の指に着目して詳しく調べた。

指のもととなる軟骨が、初期には薬指の位置にあるが、発達とともに次第にずれ、どの指になるかが決定する段階では中指の位置に移動することを発見した。

さらにこの指は、マウスの中指の作られ方と一致することも判明。

3本は中指と、人さし指、親指と判断した。

記事には、この指はマウスの中指の作られ方と一致することも判明とあるわけで、鳥類と恐竜と哺乳類の関係が示唆された研究結果と注目する研究者はいなかったのでしょうか。

右回りのコマの重さの測定値が小さくなったと言う報告では、摩擦も真空度も限りなく零にする必要があると指摘されたのに、追試と称した実験でコマを風で回すって馬鹿ですか。

羽根を、装置の外で回せば摩擦が、装置の中で回せば真空度が、限りなく零にする必要があるのに実現が絶望的に不可能なこと、小学生でもわかるのではないですか。

絶対条件とされた項目を頭ごなしに馬鹿にして気に入らないから無視って、大人げないでしょ。

しかも、コマの重量の測定された数値の変化が報告されたので、それ以上でも以下でもないのに、実験装置全体の重量の測定値の変化を測ったって何考えてるのでしょうね。

重量の測定値の変化=質量の測定値の変化と勝手に読み替えて、測定値に変化がなかったって絶句ですよ。

せっかく、報告通りの装置を作っておきながら、報告にはない実験装置全体の重量の値の変化の測定値をして、報告にあったコマの重量の値の変化は頭から無視って溜息しか出ません。

私が気が付いただけでもこうです。

恐らく、もっとあるでしょう。

学者や専門家が言ってるからと、鵜呑みしない方が良いと思います。

時間が無い、暇じゃ無い、それで良いのでしょうか。

ちょっとでも気になったものがあったら、今はネットでいくらでも情報が手に入ります。

皆さんもやってみてください。

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