« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »

2017年1月

視野を広く持たないと損しますね。

フランスにあるCERN(欧州合同原子核研究機関)の施設から発射したニュートリノビームを、730㎞先にあるイタリアのグランサッソで受けた結果、ニュートリノが光速を超えた可能性があることが観測できたと報告された事がありました。

 

20119月のことです。

 

ニュートリノの超光速移動の可能性を、3年以上にわたり1万5000回実施して見つけたとする実験結果は報告された後大きな反響を呼んだことは言うまでもありません。

 

ニュートリノは、ほんのわずかでも光速を上回るスピードで進んだとすれば到着時点でエネルギーのほとんどを失っているはずだが、ICARUSの測定では、光速で移動する素粒子とエネルギースペクトルが完全に一致したとしていることなどから、測定精度に問題があったのではないかなどの疑問が出され、検証実験で見つけられなかったとしてこの結果は多くの謎を残したまま忘れ去られていくことになります。

 

だが、3年以上にわたり1万5000回実施して見つけたという事は再現性が極めて低いことを意味します。

一方で検証実験と称する行為は、比較にならないほどの短期間でなされ、検出できなかったとしたのです。

 

この報告をがさネタとして葬り去った人たちは、検出結果がことごとくほとんど同じと言いえるだけの範囲に集中していた事実をどう説明できるのでしょうか。

 

ニュートリノが超光速で移動したとしか見えない結果が出た一方で、光速で移動する素粒子とエネルギースペクトルが完全に一致という結果も出ているのは、紛れもない事実です。

この矛盾を解決できる解を求めてこそ、科学者の醍醐味ではないでしょうか。

 

ここに、面白い情報があります。

分子分光学の分野の成果です。

近接場光によって、波動関数の可視化ができたと言うのです。

波動関数とは、もともとは波動現象一般を表す関数のことです

 

量子力学では、粒子の状態を記述する空間座標と時間の関数のことを言います。

 

波動関数は今ではもっぱら、量子力学の用語として有名になってしまいました。

波動関数が客観的実在である近接場光によって可視化できると言うことは、波動関数もまた、客観的実在でなければなりません。

 

言い換えれば、波動関数は実在の波動を描写しているという事ではないでしょうか。

となれば、超光速にみえる現象で人々を驚かせたニュートリノにも実在する波動があった可能性を考えても良いはずではないでしょうか。

 

つまり、このニュートリノの超光速騒ぎは、超光速を観測したと見たから多くの科学者をパニックに陥れたのです。

個別のニュートリノの波動関数が可視化された事象を検出したのだと解釈していたなら、相対性理論も傷がつかず、新たな科学的知見が得られたとしてハッピーエンドだったことでしょうね。

 

釣り損ねた獲物は、大きかったと言うことかもしれません。

視野を広く持たないと損しますね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新しい恐竜のイメージはすでに広まりつつあることをご存知でしょうか。

もふもふな鳥のようなT-REXを描くと、T-REXのイメージ壊すなと言う人も多いと思うけど、鳥と恐竜の境目はどこにあるかわからないと言うことが最新研究です。

 

つまり、もふもふな鳥のようなT-REXも解釈としてはありなのです。

実際、すでに鳥のようなもふもふな恐竜を表現した展示は、外国では始まっているそうです。

 

まだまだ、企画展の段階だとしても、いやむしろ企画展のような最新研究の成果を知らせる場だからこそ、鳥のようなもふもふな恐竜のイメージが表現されるともいえますけどね。

 

ひょっとすると、皆さんの中にはもふもふな鳥のようなT-REXの展示をすでに見たことがある方もおられるかもしれないですね。

 

恐竜の足跡は最初見つかった時、あまりにも鳥のものと似ていたので、巨大な鳥のものと想像されていたと言います。

 

全身骨格が見つかるに及び爬虫類説が登場し、恐竜と言う呼び名が生まれることになりました。

 

だが研究が進むと再び鳥と恐竜の境目があいまいになり、イメージは振り出しに戻った感があります。

 

そもそも、恐竜の足の付き方は爬虫類よりも鳥類や哺乳類に近いので、爬虫類に分類する方がむしろ無理が大きかったと言えます。

 

だが、授乳能力をめぐって鳥類と哺乳類の境目も揺らぐ可能性は否定できないのです。

まだまだ、恐竜自体のイメージは変わるかも知れないわけです。

 

多くの恐竜に、鳥と同じような素嚢(そのう)が見つかっているが、何種類かの鳥はこの器官をミルクのためにも使っている事がわかっているのです。

 

素嚢とは消化管の一部分で、膨らんだ形状をしているうえに管壁が厚くなっており、消化に先立って食べたものを一時的に貯蔵しておくための器官です。

 

素嚢で作られるミルクは、素嚢乳と呼ばれています。

 

素嚢乳は主に鳩類で見つかっていたので英語ではピジョン・ミルク(pigeon milk、鳩乳の意)とも呼ばれます。

 

素嚢乳は、いまではフラミンゴ・インコ・オウムでも確認されています。

 

鳥が素嚢でミルクを作るとなると、恐竜もまた素嚢でミルクを作って与えて子育てしていた可能性は否定できないのです。

 

ペンギンのような別のメカニズムでミルクを与えている場合も含め、ミルク状の栄養を与えている種はまだまだ、鳥類の中に見つかるかもしれません。

 

仮に授乳能力がほとんどの鳥類で確認できる事態になれば、鳥類と哺乳類をひとまとめにする新しい分類が提案される場合だって無いとは言い切れないのです。

 

その素嚢が恐竜にもあるわけだから、まるで鳥のようなモフモフT-REXをイメージが違うなどと思わない方が良いでしょう。

 

もっとも、日本でまるで鳥のようなモフモフT-REXをイメージが定着するころには、恐竜の最先端のイメージはさらに変化しているかも知れませんけどね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

日本どれだけ中東の飛び地なんですか。

日本の食卓を覗くと地中海が見える、なんてネタでお話をしたことがありました。

そしたら、こんなコメントが寄せられました。
これまで私が話してきた内容が、この中にかなり入ってるのには、思わずビックリです。
以下、全文紹介します。

エジプトの米は日本の農林1号なんです。
しかもエジプトは古代から米食で、品種改良もしていません。
味噌汁は中東のレンズ豆スープと瓜二つ。
ギリシャ料理には「アジの開き」そっくりにいろんな魚を開きにして、タレに付け込んで焼く、というのがあります。

米はアジアではなく、人類発祥の地であるアフリカが起源です。
雨が少ないナイル川流域で発展したのが灌漑農業。
それなりに雨が降る東アジアではそのころはまだ雨水農業が盛んでした。
そのアジアに米と灌漑農業を持ち込んだのが日本に移住した古代日本人である中東人、と思います。
今でも中国人にとっては米は日本人ほどの重要炭水化物ではありません。
これだけ米が好きなのは世界中探しても日本人だけでしょう。
日本では幼児に「ごはん」と言う時、「マンマ」と言いますよね。
エジプトでも幼児に「ごはん」と言う時、「マン」と言います。
両国とも大人には使わない言葉です。
これは私の推測の域を出ませんが、米が「マナ」なのでは?などと思ってしまいます。

伊勢神宮の話を中東人にした時、「いせシュライン」と言ったら「イーセー?」と驚いていました。
アラビア語で「イーセー」はイエスキリストのことですから。
彼らにとっては預言者ですが。

埴輪、を見た外人はその全員が「ユダヤ人だ!」と驚きます。

日本には「連歌」という文化がありますね。
中東も「連歌」が盛んでした。
彼らは夜キャラバンを率いて砂漠を旅する時、お互いが「連歌」を作りながら楽しく旅をしていたそうです。

目が大きく鼻が高く掘りの深い中東人にとっての「美人」はずばり「平安美人」です。
現代はそこに「金髪碧眼信仰」も加わりますが。
昔から中東人が好きなのは「色白、ふっくら、目も鼻も口も小さく、ストレートの長い髪」です。
平安時代にそういう顔が美人とされたのは、日本人自体が堀が深い中東顔だったからではないですか?
朝鮮人や中国人が大挙して押し寄せる前の明治維新頃までの日本人には濃い顔が多かったですよね。
実際明治維新頃日本を訪れたヨーロッパ人は本国へのレポートで「日本人は中東顔である」と書いています。
もし千年後に今の日本の漫画が発見されたら、未来人は日本人を「目の大きい人種」と認識するかもしれません。
つまり日本人の民族性は昔も今も、「自分の理想像を描写する」なのかもしれませんね。

古代中東での戦争は、両者が相対しにらみ合いになった時、両者から一人ずつが前に出て、「〇族の〇家の何某!」とお互いが名乗りをあげ、1対1でどちらかが倒れた時に両軍の戦闘が始まる、という、日本の平安時代以前と同じやり方をしていました。

私は中東の歴史ドラマを何度か見たのですが、戦闘のシーンの兵士の持っていた「楯」が日本の「八咫の鏡」と瓜二つだったのには驚きました。
日本ではあれを後生大事にしていますが、映画では兵士全員が持っている消耗品の扱いでした。まー当然ですが。
古代シリア地方を舞台にしたドラマでは戦争中、両者が赤と白のハチマキをして戦っているシーンがありました。サイズも日本のと同じです。

日本語も、古代エジプト語やラテン語、古代ヘブライ語、アラビア語などが混じってますね。こういった事実は、日本を下に組み敷いておきたい中国にとっては抹殺対象なのでしょう。
ひらがな、カタカナのような表音文字が表意文字からつくられるはずがないのです。
漢字から始まったなら簡略化するだけです。
実際、ひらがなとカタカナは古代ヘブライ文字とアラビア文字、しいては古代エジプト文字にそっくりです。
日本という他国の歴史まで「焚書」しようとする中国の傲慢さには反吐がでます。

日本人特有の顔(鼻が高く毛深く甘いマスク)は他の東アジア諸国の特徴的な顔とは全然違います。(当然例外はどこにでもいます。)
顔が違うだけではなく、性格も、他のアジア諸国とは一線を画しています。

長文、失礼しました。

埴輪を見た外人はその全員が「ユダヤ人だ!」と驚きますの下り、やはりそうでしたかと思わずうなりました。

確かに、滅茶苦茶長く伸ばした前髪や、どう見てもユダヤ人のものと言いたくなる帽子の埴輪を見れば、そりゃ、率直にユダヤかって突っ込みたくもなるでしょう。

わざわざ帽子を埴輪にする時点で、どれだけ大事にしてたんですかって誰だって驚きますよね。

昔から中東人が好きなのは「色白、ふっくら、目も鼻も口も小さく、ストレートの長い髪」の平安美人顔と言う、指摘にはあらためて驚きました。

そう言えば、天孫一族には古代イスラエル北朝10支族説も出てます。

天皇家の傍系の方々の顔にも、中東顔の指摘があります。

大挙して渡来した秦氏にも原始ユダヤ人キリスト教徒説があるし、平氏の正体にもペルシャ人であると言う声もあるくらい中東の匂いがプンプンしてると言います。

合戦の前に名乗りを上げるところは、このコメントにもあるようにまさに中東のやり方そのものだそうです。

さらに、縄文人自体もアジアとヨーロッパの民族や人種が分かれる以前の人々の子孫とのDNAの解析結果もあります。

言葉についても、ラテン語や古代ヘブル語と共通のルーツと言う説が出るのも、縄文人のせいなんでしょうね。

で、さらに、古代エジプト語やアラビア語ですか。

連歌の文化まで中東と同じですか。

どんだけ、日本って一皮むけば中東が出て来るんですか。

こうなればもう、笑うしかありませんね。

面白い情報満載のコメントにあらためて感謝申し上げます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

聖書は死者の救いのために何をすべきと言っているのか。

イザヤ書 26 19

あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。ちりに伏す者よ、さめて喜びうたえ。あなたの露は光の露であって、それを亡霊の国の上に降らされるからである。

 

これはいったい何を意味する聖句なのでしょうか。

 

イエスは救いの計画の対象は、全ての人々であると明らかにしています。

 

マタイによる福音書 28 1820

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

 

ならば、死者もその救いの計画の対象なのでしょうか。

 

ヨハネによる福音書 5 1926

さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。

なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである。

すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう。 父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。

それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。

よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。

よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。

それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。(以下略)

 

ここで注目したいのは、この下りです。

 

よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。

それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。

 

つまり、死者であっても救いの計画の対象となると仰っているのです。

 

では、死者の救いは具体的にはどのように行われるのでしょう。

 

コリント人への第一の手紙 15 2529

なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。

最後の敵として滅ぼされるのが、死である。

「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。

そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。

そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。

 

注目したいのはコリント人への第一の手紙1529節にある、死者のためのバブテスマです。

 

キリストが滅ぼされる最後の敵が死であると言っています。

 

しかし、最後の審判のために、全ての死者がよみがえることが聖書には記されているので、ここで言う死は肉体の死ではないことは明らかです。

 

とすれば、ここで言う死とは霊的な死と言うことです。

 

死者のためのバブテスマによって、死者は霊的な死から解放されると言うのです。

 

ならば、世の教会のどこが、死者のためのバブテスマを行っているのでしょう。

 

探すべきは、そういう教会であることは、聖書によって示されていますからね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

三位一体を疑ってみた。

創世記では、神が複数であることが示されています。

 

創世記 1 26

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

 

イエスはこの“われわれ”が“父と子と聖霊”であることを明らかにしました。

 

マタイによる福音書 28 1820

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

 

多くの教会は、この“父と子と聖霊”は三位一体であると主張しています。

この三位一体とは、“TRINITY”の訳語であり、三者のごとくに振る舞う一者と言うことなのです。

三位一体で言う“一体”とは、断じて、夫婦一体とかクラス一体のような言葉に出てくる比喩としての“一体”ではないのです。

“父と子と聖霊”による“UNITY”とは一言も言っていない点に、くれぐれも注意してください。

 

三位一体を主張する人たちは主の御使いが神的人格として描かれていると、いくつかの個所を証拠としてあげます。

例えば、創世記の16713節、18121節、19122節。

 

だがこれらの記述は、御使いが人と同じ肉体を持っておられることを示しているだけと見る事も出来ます。

また、聖霊が人格を持っていることも、論証としてあげます。

例えば、イザヤ書の4816節、6310節。

これも、聖霊が人格を持っているお方であると証する以上の意味があるとすれば、どういう働きをなさるかを示していることであっても、三位一体を明かしていることにはならないでしょう。

 

にも拘らず、三位一体を主張する人たちは、新約聖書において三位一体の教理はより明確に啓示されていると主張しているのです。

 

三位一体どころか、父と子と聖霊が明らかに独立した存在であることを示す決定的な記述があります。

 

イエスのバブテスマの光景の記述です。

イエスがバプテスマを受けてすぐ水から上がられると、天が開け、神の御霊がはとのように下って、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と声がしたのです。

マタイによる福音書31617節、マルコによる福音書11011節、ルカによる福音書32122節、またヨハネによる福音書12933節も天からの声について記さない事を除けばあとは大筋で一致しています。

 

また、天からの「私の愛する子」の声は、イエスが高い山にペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちを伴い、旧約の預言者であるモーセとエリヤと語り合いながら白く光り輝く姿を弟子たちに示した時にもありました。

マタイによる福音書1719節、マルコによる福音書928節、ルカによる福音書92836節。

 

天からの「私の愛する子」の声の主が、神としての天の父であることは言うまでもないでしょう。

 

イエスはこう言われました。

 

ヨハネによる福音書71617

そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。 神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。

 

この「わたしをつかわされたかた」と言う言葉は、マタイによる福音書には繰り返し出てきます。

434節、524節と30節、63839節、716節と28節、816節と26節と29節、940節、1244~45節、1320節、1521節、165節。

 

イエスはゲッセマネの園で、祈られました。

 

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

マタイによる福音書2639節、言い回しは多少違ってもマルコによる福音書1436節、ルカによる福音書2242節もこの言葉に触れています。

ヨハネによる福音書だけは、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」(1811)とゲッセマネの祈りの場面を割愛しているけれど、イエスが御父の御心に随う決意をされていることを記しています。

 

これ以外にもイエスは天の父の御心を伝えに来たことや実践をしに来たことを述べていたことが、新約聖書の至る所で記されています。

 

そう言うと、三位一体を主張する人達はヨハネによる福音書1030節の「わたしと父とは一つである」を引用するかもしれません。

 

けれど、イエスはゲッセマネの祈りでこう仰っておられるのです。

 

ヨハネによる福音書172223

わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。

 

ここでイエスの仰る「わたしたちが一つである」とは「わたしと父とは一つである」と同じことです。

そして「一つ」も同じことを指しています。

 

ここで言う「一つ」が思いを完全に一致させることを指していることは、誰が見ても明らかでしょう。

 

さらに言えば、「わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました」とイエスが述べておられることを見落として良いはずがありません。

 

「わたしと父とは一つである」、「わたしたちが一つである」と言う言葉がもしも三位一体を指しているとしたら、イエスはイエスご自身に対して「あなたからいただいた栄光」と言っていることになり完全におかしな事となるでしょう。

 

三位一体の言葉は聖書のどこにも書いてないばかりか、論拠とできる記述自体見つけることは絶望的なまでに不可能なことなのです。

 

聖書には“父と子と聖霊”の明確に独立した存在として役割分担をしつつも思いを一つにして救いの御業を遂行しておられる姿は繰り返し描かれているが、三位一体を証する明確な言葉は一つとして見いだすことはできないのです。

 

TRINITY”(三位一体)の論証として彼らの挙げる箇所はことごとく、“父と子と聖霊”の“UNITY”の証であってそれ以上でもそれ以下でもないのです。

 

“父と子と聖霊”は一つの神会を構成して心ひとつにして、救いの計画を実行しておられると見た方がすっきりします。

 

絶対三神唯一神会とか、三位三体三体一位と言った方が、ちょっと長ったらしくなるけど、何回聞いても難解な三位一体より、よほどわかりやすくと思いますが、いかがでしょうか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

欧米のキリスト教のイスラム感を考えて見た。

もっともっと、日本人も宗教に関心を持って欲しいのですけど。

世界の中で宗教にまったく無関心な人は、実は少数派ではないでしょうか。

中国だって一皮むけば、昔からの宗教に関心持って暮らしている人の方が多数派と聞いています。

熱心に信仰しているかどうかは、別ですけどね。

日本がイスラム過激派の怒りのターゲットに晒されないためには、欧米のキリスト教圏とイスラムとの歴史的な諍いから距離を置くことが大事ではないでしょうか。

 イスラームが正しい発音だそうですが。

ここでは一般的なイスラムで通します。

せっかくイスラムの人たちから信頼されているのだから、この立ち位置を活用しようとしないならはっきり言って、大馬鹿ものですね。

イスラムや末日聖徒イエス・キリスト教会の人たちとの、ネットを通じての交流で、堕落した欧米のキリスト教に見切りをつけた若者を中心とした人たちが案外簡単に改宗するのはなぜなのか真剣に考えない限り、欧米のキリスト教世界はイスラム過激派の怒りのターゲットに晒され続けるでしょうね。

フリードリッヒ・ニーチェの『アンチクリスト』に示されるところまで堕落したからこそ、ムハンマドやジョセフスミスジュニアが原点回帰を呼び掛けるように聖書の神から召され、欧米のキリスト教圏の人たちから、イスラムや末日聖徒イエス・キリスト教会への改宗が出るわけですね。

 既存のキリスト教会は、そこがわかってないってことね。

欧米のキリスト教圏の人たちのイスラムに対する反発の裏には、ユダヤ教やキリスト教が堕落したので原点回帰を呼び掛けるべく聖書の神からムハンマドが召されたというイスラム側の言い分にもあるかもしれないですよ。

ムハンマドが啓示を受けた西暦610年代には、西欧がすでにキリスト教化しているわけですから。

313年にミラノ勅令は、当時は西方正帝であったローマ皇帝コンスタンティヌス1世と同じく東方正帝であったリキニウスの連名で発布されたと言われているのです。

一般に、全帝国市民の信教の自由を保障した内容とされるこの勅令は、実在そのものや、真の起草者について疑問視する研究者もいる代物ではありますけど。

勅令発布以前、ディオクレティアヌス帝はキリスト教徒を迫害したが、311年、東方正帝ガレリウスは弾圧をやめ寛容令を発したのです。

これを受け当時西方正帝でのちに単独皇帝となるコンスタンティヌス1世は、キリスト教を帝国統治に利用しようという意図もあって「ミラノ勅令」を発布したものです。

特にキリスト教を挙げつつ、他のすべての宗教と共にこれを公認したわけです。

392年には、テオドシウス1世によってキリスト教はローマ帝国の国教とされたのです。

 で、これ以降、欧州世界のキリスト教化が進むことになるわけね。

そして、キリスト教は主に欧州世界を中心に広まっていくのですよね。

つまり西暦610年代ムハンマドが原点回帰を呼び掛けた堕落したキリスト教とは、まさしく欧州キリスト教にほかならないってことです。

そもそも、ミラノ勅令はキリスト教を帝国統治に利用しようという意図もあって発布されたわけです。

欧州世界での拡大と定着は権力と言わば二人三脚で進んでいったと言え、キリスト教の堕落はローマ帝国のころから実質的に始まっていたとみて良いのかもしれないですね。

しかし、ほとんどの欧州キリスト教の人たちには自分たちが教えを堕落させた自覚はほとんどないってことで、彼らにとってムハンマドははっきり言って邪魔者だったかもしれないです。

欧米のキリスト教圏の人たちから見れば、ムハンマドはアブラハムの系譜かも知れないけど、イサクとヤコブの系譜ではないわけです。

傍系イシュマエルの子孫であるムハンマドの預言者としての正当性を、彼らは認めたくないのかもしれないですね。

 認めれば、改宗せざるを得ないでしょうからね。

ちなみに、末日聖徒イエス・キリスト教会のジョセフスミスジュニアも、御父と御子からじきじきに、今のキリスト教宗派は全て間違っているからイエスの時代の教会を復活させるように召されたと主張しているのです。

そのために、既成のキリスト教からは、末日聖徒イエス・キリスト教会も煙たがられているのです。

末日聖徒イエス・キリスト教会の教説には、既存のキリスト教に真っ向から異を唱える内容が並んでいるのです。

御父と御子と聖霊は三位一体ではなく個別の存在であり一心同体となり一致団結して人々の救いと導きに日夜心を砕いておられるとか、アダムとイブが禁断の木の実を食べたのも原罪ではなく人類が選択の自由を用いて神の道を選んで再び成長して帰ってもらいたいという御父の願いによるものであったとか、御父の救いの計画は生者だけではなく死者にも及ぶとかです。

 これらの言い分を認めたら、既存のキリスト教は末日聖徒イエス・キリスト教会に合流するしかなくなるわけだから煙たいわけね。

アダムとイブについていえば、裸で嘆きながらエデンの園を追われる絵があまりにも有名だけれど、聖書には神は彼らに皮の衣を着せたことがちゃんと書かれているのですよ。

 絵で一目でエデンの園からの追放とわかるために、裸で追われる構図にしたのかもしれないけど、嘘は嘘よねえ。

余談ですが、末日聖徒イエス・キリスト教会には、職業としての聖職者はいないです。

イスラムにも職業としての聖職者は、恐らくいないです。

イスラムで聖職者に当たるのはウラマーと呼ばれる人々ですが、イスラムの建前としては神と人との間に仲介役を入れる、あるいは信徒間に階級差を設けることを嫌う傾向があり、ウラマーは聖職者ではない、とか、イスラムには聖職者はいない、と主張されてるのです。

一方、既成のキリスト教では、大抵の教会で職業としての聖職者がいるのです。

 イスラムや末日聖徒イエス・キリスト教会を選んだら、既成のキリスト教の聖職者の職探しは大変ね。

末日聖徒イエス・キリスト教会には職探しやその間の生活を支える仕組みがあるし、イスラムにも助け合いによって支えてくれる体制があることでしょうから、全てを神の御心に委ねて祈るなら道は開けることでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »