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三位一体を疑ってみた。

創世記では、神が複数であることが示されています。

 

創世記 1 26

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

 

イエスはこの“われわれ”が“父と子と聖霊”であることを明らかにしました。

 

マタイによる福音書 28 1820

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

 

多くの教会は、この“父と子と聖霊”は三位一体であると主張しています。

この三位一体とは、“TRINITY”の訳語であり、三者のごとくに振る舞う一者と言うことなのです。

三位一体で言う“一体”とは、断じて、夫婦一体とかクラス一体のような言葉に出てくる比喩としての“一体”ではないのです。

“父と子と聖霊”による“UNITY”とは一言も言っていない点に、くれぐれも注意してください。

 

三位一体を主張する人たちは主の御使いが神的人格として描かれていると、いくつかの個所を証拠としてあげます。

例えば、創世記の16713節、18121節、19122節。

 

だがこれらの記述は、御使いが人と同じ肉体を持っておられることを示しているだけと見る事も出来ます。

また、聖霊が人格を持っていることも、論証としてあげます。

例えば、イザヤ書の4816節、6310節。

これも、聖霊が人格を持っているお方であると証する以上の意味があるとすれば、どういう働きをなさるかを示していることであっても、三位一体を明かしていることにはならないでしょう。

 

にも拘らず、三位一体を主張する人たちは、新約聖書において三位一体の教理はより明確に啓示されていると主張しているのです。

 

三位一体どころか、父と子と聖霊が明らかに独立した存在であることを示す決定的な記述があります。

 

イエスのバブテスマの光景の記述です。

イエスがバプテスマを受けてすぐ水から上がられると、天が開け、神の御霊がはとのように下って、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と声がしたのです。

マタイによる福音書31617節、マルコによる福音書11011節、ルカによる福音書32122節、またヨハネによる福音書12933節も天からの声について記さない事を除けばあとは大筋で一致しています。

 

また、天からの「私の愛する子」の声は、イエスが高い山にペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちを伴い、旧約の預言者であるモーセとエリヤと語り合いながら白く光り輝く姿を弟子たちに示した時にもありました。

マタイによる福音書1719節、マルコによる福音書928節、ルカによる福音書92836節。

 

天からの「私の愛する子」の声の主が、神としての天の父であることは言うまでもないでしょう。

 

イエスはこう言われました。

 

ヨハネによる福音書71617

そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。 神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。

 

この「わたしをつかわされたかた」と言う言葉は、マタイによる福音書には繰り返し出てきます。

434節、524節と30節、63839節、716節と28節、816節と26節と29節、940節、1244~45節、1320節、1521節、165節。

 

イエスはゲッセマネの園で、祈られました。

 

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

マタイによる福音書2639節、言い回しは多少違ってもマルコによる福音書1436節、ルカによる福音書2242節もこの言葉に触れています。

ヨハネによる福音書だけは、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」(1811)とゲッセマネの祈りの場面を割愛しているけれど、イエスが御父の御心に随う決意をされていることを記しています。

 

これ以外にもイエスは天の父の御心を伝えに来たことや実践をしに来たことを述べていたことが、新約聖書の至る所で記されています。

 

そう言うと、三位一体を主張する人達はヨハネによる福音書1030節の「わたしと父とは一つである」を引用するかもしれません。

 

けれど、イエスはゲッセマネの祈りでこう仰っておられるのです。

 

ヨハネによる福音書172223

わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。

 

ここでイエスの仰る「わたしたちが一つである」とは「わたしと父とは一つである」と同じことです。

そして「一つ」も同じことを指しています。

 

ここで言う「一つ」が思いを完全に一致させることを指していることは、誰が見ても明らかでしょう。

 

さらに言えば、「わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました」とイエスが述べておられることを見落として良いはずがありません。

 

「わたしと父とは一つである」、「わたしたちが一つである」と言う言葉がもしも三位一体を指しているとしたら、イエスはイエスご自身に対して「あなたからいただいた栄光」と言っていることになり完全におかしな事となるでしょう。

 

三位一体の言葉は聖書のどこにも書いてないばかりか、論拠とできる記述自体見つけることは絶望的なまでに不可能なことなのです。

 

聖書には“父と子と聖霊”の明確に独立した存在として役割分担をしつつも思いを一つにして救いの御業を遂行しておられる姿は繰り返し描かれているが、三位一体を証する明確な言葉は一つとして見いだすことはできないのです。

 

TRINITY”(三位一体)の論証として彼らの挙げる箇所はことごとく、“父と子と聖霊”の“UNITY”の証であってそれ以上でもそれ以下でもないのです。

 

“父と子と聖霊”は一つの神会を構成して心ひとつにして、救いの計画を実行しておられると見た方がすっきりします。

 

絶対三神唯一神会とか、三位三体三体一位と言った方が、ちょっと長ったらしくなるけど、何回聞いても難解な三位一体より、よほどわかりやすくと思いますが、いかがでしょうか。

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コメント

すいません。
ロシア語なうえに、文字化けしてなにがなんだかわからないんですけど(^^;)

投稿: cova | 2017年1月25日 (水) 13時42分

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