淡路島と天孫一族。
淡路島は、瀬戸内海東部に位置し、瀬戸内海では最大の島です。
全島が瀬戸内海式気候の区分に属し、年間平均気温約16℃、年間降水量約1300mmと言う気候であるが、諭鶴羽山地以南では南海型太平洋側気候の特徴も少し混ざります。
このため多くの農業用ため池があり、兵庫県内にある43,000のため池の半数を超える23,000が島内にあります。
近代以降もダム建設が行われてきたが、1999年(平成11年)12月に明石海峡大橋に架設された口径450mmの2条の水道管による本土導水が開始されました。
シンガポール島とほぼ同じ面積を有し、日本国内では主要4島、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬についで第11位の面積を持ち、人口では主要4島以外では沖縄本島に次いで第2位です。
北東から南西へかけて細長く伸びる淡路島は南北約53km、東西約22km、周囲約203kmで、北部では幅5kmから8kmと細く南部で幅が拡がっています。
大阪湾、播磨灘、紀伊水道に四周を囲まれ、北端の松帆崎で明石海峡に、南東端の生石鼻で紀淡海峡に、南西端の門崎(とさき)で鳴門海峡にのぞみ、本州四国連絡道路の神戸・鳴門ルートで本州・四国と繋がっています。
北部と南部の淡路山地と中南部の淡路平野に分けられ、北東部と南部の山地急斜面は海岸まで迫ります。
また周囲の主な属島には紀淡海峡の成ヶ島、紀伊水道の沼島があります。
令制国名は淡路国。近畿地方の兵庫県に属し、現在は北から淡路市・洲本市・南あわじ市の3市で区分されます。
兵庫県は地方自治法に基づく支庁として、淡路島全域を管轄する淡路県民局を洲本市に設置しています。
1965年(昭和40年)以降、洲本市・津名郡・三原郡の1市10町体制が続いていたが、市町村合併によって、2005年(平成17年)1月11日には三原郡4町(緑町・三原町・西淡町・南淡町)が南あわじ市に、同4月1日には津名郡五色町を除く津名郡5町(淡路町・北淡町・東浦町・一宮町・津名町)が淡路市となりました。
残る五色町は2006年(平成18年)2月11日に洲本市と合併し、新たに洲本市となりました。
これらの合併により現在の淡路島は、北から淡路市・洲本市・南あわじ市の3市体制となっています。
淡路島全体で一つの市となる構想や動きもあったが、実現しなかったそうです。
淡路島を三つの地域に分けると言うのは、どうやら古代からそれが自然なことだったらしいです。
かつて淡路島は上撫(かみなで)・中撫(なかなで)・下撫(しもなで)に分けられていました。
どうやらその頃、平家の落人の一部が住み込んだらしいです。
“撫”と言うのは、どういう意味で突いた名前かよくわからないようです。
ならば、当て字の可能性があります。
奈良県の“なら”は、韓国語の国を指す“なら”から来ているのではないかとの解釈もあります。
淡路島の、かみなで・なかなで・しもなでの語源もあるいは、この国を指す“なら”から来ていると見てはいけないでしょうか。
国を指す“なら”も、“はら”が転化した見ても面白そうです。
さらには“はら”も、中東の言葉の“ある”から巻き舌音で簡単に転化してしまうのです。
“ある”を“AL”と記せば中東の言葉の定冠詞にもなります。
“ある”ははじめのころは国そのものをしたが、広がりを持つに従って“ある”は土地の名の前につく定冠詞となっていったのでしょうか。
国を指す言葉としての“ある”や“はら”から、“なら”となり、淡路島では“なで”となったと言う仮説も面白いかもしれないです。
前半の平唇音に引きずられて、“なら”から“なで”に変化するのは十分にあり得る。
だから“なら”の名が近畿にまでたどり着いたのでしょう。
記紀の日本列島の国産みの神話では、淡路島は伊弉諾尊・伊弉冉尊が日本列島中、最初に創造した島であるといいます。
『古事記』では淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)と書かれ、『日本書紀』では、淡路洲と書かれます。
初期の天皇家との繋がりは深いらしく、淡路宮や淡路からの皇后の記載も見られます。
また反正天皇は淡路島で生まれたとされます。
古代から平安時代まで御食国(みけつくに)として皇室・朝廷に贄(にえ)を貢いだとされます。『延喜式』によると、淡路国は旬料・節料として「雑魚」を贄として納めることが記載されています。
神代より淡路国として存在したが、大阪の陣で活躍した蜂須賀に与えられ江戸時代は徳島藩の知行地となったが、庚午事変(稲田騒動)が遠因となり1876年に兵庫県に編入されました。以来、近畿地方の一角として発展しています。
記紀の日本列島の国産みの神話で、淡路島は伊弉諾尊・伊弉冉尊が日本列島中、最初に創造した島とされるならば、天孫一族が第一歩を記した島が淡路島なのでしょうか。
初期の天皇家との繋がりは深いらしく、淡路宮や淡路からの皇后の記載も見られ、また反正天皇は淡路島で生まれたとされるというのも、日本における最初の拠点を置いたと見ればごく自然でしょう。
これは、天孫一族日本上陸が瀬戸内ルートであることを前提した議論なので、一つの解釈に過ぎません。
とは言え瀬戸内ルートは長らく日本経済で重要な働きをしてきたことを思えば、ごく自然な流れではないでしょうか。
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