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2017年12月

休息と聖書?

毎朝、町を行く人々の顔を見てふと思うのです。

朝だと言うのに、生き生きした表情の人があまりにも少ない国だなあ、日本、と言う事です。

朝から疲れた顔の勤め人が多いのは、慢性化していている残業などの長時間労働に加えて、職場の人間関係を円滑にすると称してのいわゆる飲みにケーションと呼ばれる上司や同僚との付き合いも、疲労蓄積に拍車をかけているのではないでしょうか。

日本もアフター5は個々人の自由な時間であってしかるべきではないでしょうか。

日本も経営者や上司が、残業など長時間労働や社内の付き合い酒などを抜本的に見直した方が良いのではないですか。

個々の社員に早く帰れと啓蒙するより、経営者や上司の意識改革に国や地方自治体が腰を据えて取り組みを進めるべしでしょうね。

過労死問題に取り組んでこそ、医療費抑制や生産性向上につなげることになるのではないでしょうか。

有給消化率最低の日本の労働生産性が17位、ゆるく働いているイメージの強いイタリアの労働生産性が20位だが、実際には差はほとんどないと言えるくらい僅差です。
それってつまり、慢性的に疲れている日本の労働者の生産性が人生エンジョイしてるイタリアの労働者の生産性と大差ないってことです。
 
馬鹿らしいですよね。

人生エンジョイ型のイタリアの労働生産性と日本の労働生産性が大差ないって、どう思いますか。

根が真面目な日本人がイタリア人と同じくらい元気に働いたならもっともっと生産性があがるんじゃないですか。

誰もそんなこと考えられないくらい疲労が蓄積してるんですか、日本人。

だとしたら、悲し過ぎますよ。

本気で過労死問題に取り組んで欲しい、そう思いませんか。

過労死レベルの長時間労働にきちんとメス入れないと、更に労働生産性が落ちてイタリアに抜かれるかもしれないですよ。

イタリアの労働生産性が上がるからじゃないです。

日本の労働生産性はさらに労働者が疲労をため込んだ結果、さらに落ち込んで抜かれる可能性があるってことですよ。

多くの大企業で不正が発覚しました。

まともに考えられるなら、不正は結果として割に合わない、と言う正常な判断ができるはずですよね。

自覚症状がないくらい疲労は慢性化してるんですか、経営者までもが。

忙しいとは、心亡くす、心亡ぶ、って意味がある事さえ経営者も気が付けない位なら、もはや重症じゃないですか。

働くのは、誰のためなの、何のためなの、会社は、誰のためにあるの、何のためにあるのでしょうね。

日本は、そんなこと考えないままに突っ走ってきたのかもしれないですね。

西洋キリスト教文化圏では、人生とは、働くとは、どういう事か真剣に問うた時代があります。

今の人たちは、そんなこと忘れてるかもしれないですけどね。

少なくとも西洋キリスト教圏では、労働は神に課せられた罰であって信仰のために人生の時間の多くを割くべきと言う発想が根底にあるのです。

だからかもしれないが、労働時間の短縮は案外すんなりと合意が成立したようですね。

もちろん労働運動や政治運動の力も、大きかったようですけどね。

東洋、少なくとも日本では、勤勉が美徳とされ休息が取りにくい文化があるとは指摘されています。

休息は勤勉へのご褒美と言った感覚があるとも、指摘されてきました。

しかし、休息は人間らしく働くために必要であり権利である、と言う考えが世界の当たり前になりつつある今、ついていけないとだめになるでしょうね。

つまり、日本で働き方改革をすると言う事は、休息は基本的人権の一つであると言う発想の転換を社会の隅々にまで根付かせると言う事なのではないでしょうか。

意識改革の取り組みを国と地方自治体が本腰を入れて取り組みことに他ならないのではないでしょうか。

休息と怠けは別だと言う、意識改革こそ必要なのではないでしょうか。

ここがきちんとすわらないと、だめなのですよね。

怠けることがいけないのは、世界共通です。

むしろ怠け心が起きるような疲れがたまって抜けない働き方をしてる方が、問題なのです。

ちゃんと休息をとって十分に疲れを取るなら、気力が充実して怠け心など起きないはずです。

逆に言えば日本の働き方は、適当に怠けないと体が悲鳴を上げる働き方と言う事なのです。

キリスト教的倫理では怠け心は悪魔のたぶらかしに負ける事だから、それに勝てる気力と体力をつけて備える必要があるとなるのです。

だから、十分に休息を取らないといけないのですね。

休息を基本的権利として受け入れる文化的素地が、こう言うところにもあるのかもしれないですよ。

日本の労働時間がとかく長くなりやすいのは、休息は勤勉のご褒美だから、より長くよりきつく働いて多くの仕事をこなしたものが多く休めると言う不文律があるからかも知れません。

結果として、適当に怠けないと体が壊れるから長時間で低生産性の労働に必然的になっていくのかもしれないですね。

ここの発想を変えないとだめなのです。

欧米の発想の根底には、聖書とキリスト教がある、ここを踏まえておく必要があるでしょうね。

それは長い歴史の中で、彼らの精神に深く根ざしたものとなりもはや無意識のレベルにまで達していると言って良いです。

彼らに受け入れやすいように、変えられてしまったところもあるようですけどね。

世界の大半は彼らによって植民地化され、程度の差こそあれ、根付かさせられていると見た方が良いでしょうね。

日本人も少しは聖書やキリスト教について知っておかないと、彼らの発想の基本が理解できないってことなのです。

信じろとは言わないけど、知識として知っておいて損はないでしょうね。

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日本語とロシア語?!

面白い本を手に入れました。

 

笹谷政子著「日本語の起源」と言うのだが、日本語はロシア語、トルコ語、朝鮮語の接触と混交から生まれたと主張しているのです。

 

朝鮮語と日本語はよく比較されるが、ロシア語とトルコ語とは、意外な顔ぶれと思うかも知れないですね。

 

だが、トルコ語も日本語と似た単語を持つ言語として注目する声があるのです。

 

ここではロシア語に注目したいです。

 

著者は日本語のベースはロシア語にあると、見ているからです。

 

ロシアも、日本先住民の子孫と見られているアイヌが多く住む地域であり、バイカル湖畔が近年日本人の起源で注文されてきているし、シベリアのバイカル湖の方まで行くと日本人そっくりなブリヤート人に出会うそうです。

もちろん秋田美人のそっくりさんも多いです。

 

ロシア語と日本語も比べてみると面白い事がわかりそうだから、スラブ古語と日本語の古語は比べてみる価値があると以前から思っていました。

 

私も日本語とロシア語の関係が因縁浅からぬものである可能性は、否定しないです。

 

だが、スラブ民族の起源については、どうも引っかかることがあります。

 

ミーシャのスラブ叙事詩のなかに、スラブ民族の起源に触れたものもあるのだが、旧約聖書のアダムとイブの伝承を何度見ても連想してしょうがないのです。

 

スラブ民族の起源を知ると、旧約聖書のアダムとイブの伝承を連想したその印象は、無理からぬものである気がしてきます。

 

スラヴ人の多くは、コーカソイド人種の特徴を持っていることは事実です。

今でこそモンゴロイドに分類されるアイヌだが、その外見からコーカソイドと見られていた時期もあります。

言い換えれば、アイヌとコーカソイドはそれくらい見た目が似ていると言う事です。

スラブ民族の原住地は、カルパチア山脈周辺と推定されるというのです。

スキタイ人やサルマタイ人を吸収同化して、同一の言語集団として成立して行ったと見られています。

スキタイと言えば、ユダヤ人の歴史、取り分け日ユ同祖論を語る人たちにはユダヤ人と深く関わった人たちとして論じられる人達なのです。

サルマタイ人もまた、紀元前4世紀から紀元後4世紀にかけて、ウラル南部から黒海北岸にかけて活動したイラン系遊牧民集団です。

イランもまた、ユダヤ人の歴史を語る上で注目される国なのです。

サルマタイはギリシア語であり、ラテン語ではサルマタエとなる。また、彼らのいた黒海北岸地域をその名にちなんでサルマティアと呼ぶため、サルマティア人とも呼ばれます。

サルマタイ人は、紀元前7世紀末からウラル南部にいたサウロマタイに紀元前4世紀頃東方から移動してきた遊牧民が加わって形成されたとされます。

そしてユダヤ人もまた遊牧の民であった以上、係わりを否定する方が難しいでしょう。

スラブ民族は、その後ヨーロッパ各地へと移住する過程で、67世紀頃まで言語としてある程度の一体性を持っていたものが、次第に東スラヴ人、西スラヴ人そして南スラヴ人といった緩やかなまとまりから、さらに各地のスラヴ民族を多数派とする集団へと分化していった歴史を持ちます。

スラヴ民族は、ユーラシア大陸のイラン系遊牧騎馬民族のサルマタイ、トルコ・モンゴル系のフン族、ゲルマン系の一部族ゴート族などの多民族から成り立っています。

東欧やシベリアは後にモンゴル・イラン・トルコ系アヴァール(ハーン)やモンゴロイドのブルガール人が定住、ハーンの侵攻からゲルマン民族が撤退後の土地に定住したのです。

 

スラブ民族成立過程にユダヤ人は直接には登場しないが、ユダヤ人の血が途中で入って来ている可能性はないとは言い切れません。。

 

少なくとも中東文化の影響は受けているはずで、その過程でアダムとイブの伝承が伝わったのかもしれないです。

 

それはさておき、バイカル湖畔起源説を考えるとスラブ古語が日本語のベースの少なくとも一部になっているのは十分にあり得る話です。

 

なぜ一部と見るかと言えば、アメリカ大陸からも縄文の子孫と見られているアイヌの親戚とおぼしき人骨が出ているのです。

その中にフランスとスペインの様式の矢じりとともに見つかったケネウイック人も、います。

 

日本に家族性地中海熱の発症例があることを、著者の議論で説明するのはいささか無理があるように思われます。

 

だが、日本人起源としてロシアとトルコに注目した点は、大いに評価したいのです。

 

もっと言及されても良い地域だからです。

追記

日本とロシアについては、以前にも記事を書いています。

特に音楽のテンポの類似は今回言及してないので、見ていただけると幸いです。

 

ロシアと日本?

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