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2017年1月15日 - 2017年1月21日

聖書は死者の救いのために何をすべきと言っているのか。

イザヤ書 26 19

あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。ちりに伏す者よ、さめて喜びうたえ。あなたの露は光の露であって、それを亡霊の国の上に降らされるからである。

 

これはいったい何を意味する聖句なのでしょうか。

 

イエスは救いの計画の対象は、全ての人々であると明らかにしています。

 

マタイによる福音書 28 1820

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

 

ならば、死者もその救いの計画の対象なのでしょうか。

 

ヨハネによる福音書 5 1926

さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。

なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである。

すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう。 父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。

それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。

よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。

よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。

それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。(以下略)

 

ここで注目したいのは、この下りです。

 

よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。

それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。

 

つまり、死者であっても救いの計画の対象となると仰っているのです。

 

では、死者の救いは具体的にはどのように行われるのでしょう。

 

コリント人への第一の手紙 15 2529

なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。

最後の敵として滅ぼされるのが、死である。

「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。

そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。

そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。

 

注目したいのはコリント人への第一の手紙1529節にある、死者のためのバブテスマです。

 

キリストが滅ぼされる最後の敵が死であると言っています。

 

しかし、最後の審判のために、全ての死者がよみがえることが聖書には記されているので、ここで言う死は肉体の死ではないことは明らかです。

 

とすれば、ここで言う死とは霊的な死と言うことです。

 

死者のためのバブテスマによって、死者は霊的な死から解放されると言うのです。

 

ならば、世の教会のどこが、死者のためのバブテスマを行っているのでしょう。

 

探すべきは、そういう教会であることは、聖書によって示されていますからね。

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三位一体を疑ってみた。

創世記では、神が複数であることが示されています。

 

創世記 1 26

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

 

イエスはこの“われわれ”が“父と子と聖霊”であることを明らかにしました。

 

マタイによる福音書 28 1820

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

 

多くの教会は、この“父と子と聖霊”は三位一体であると主張しています。

この三位一体とは、“TRINITY”の訳語であり、三者のごとくに振る舞う一者と言うことなのです。

三位一体で言う“一体”とは、断じて、夫婦一体とかクラス一体のような言葉に出てくる比喩としての“一体”ではないのです。

“父と子と聖霊”による“UNITY”とは一言も言っていない点に、くれぐれも注意してください。

 

三位一体を主張する人たちは主の御使いが神的人格として描かれていると、いくつかの個所を証拠としてあげます。

例えば、創世記の16713節、18121節、19122節。

 

だがこれらの記述は、御使いが人と同じ肉体を持っておられることを示しているだけと見る事も出来ます。

また、聖霊が人格を持っていることも、論証としてあげます。

例えば、イザヤ書の4816節、6310節。

これも、聖霊が人格を持っているお方であると証する以上の意味があるとすれば、どういう働きをなさるかを示していることであっても、三位一体を明かしていることにはならないでしょう。

 

にも拘らず、三位一体を主張する人たちは、新約聖書において三位一体の教理はより明確に啓示されていると主張しているのです。

 

三位一体どころか、父と子と聖霊が明らかに独立した存在であることを示す決定的な記述があります。

 

イエスのバブテスマの光景の記述です。

イエスがバプテスマを受けてすぐ水から上がられると、天が開け、神の御霊がはとのように下って、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と声がしたのです。

マタイによる福音書31617節、マルコによる福音書11011節、ルカによる福音書32122節、またヨハネによる福音書12933節も天からの声について記さない事を除けばあとは大筋で一致しています。

 

また、天からの「私の愛する子」の声は、イエスが高い山にペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちを伴い、旧約の預言者であるモーセとエリヤと語り合いながら白く光り輝く姿を弟子たちに示した時にもありました。

マタイによる福音書1719節、マルコによる福音書928節、ルカによる福音書92836節。

 

天からの「私の愛する子」の声の主が、神としての天の父であることは言うまでもないでしょう。

 

イエスはこう言われました。

 

ヨハネによる福音書71617

そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。 神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。

 

この「わたしをつかわされたかた」と言う言葉は、マタイによる福音書には繰り返し出てきます。

434節、524節と30節、63839節、716節と28節、816節と26節と29節、940節、1244~45節、1320節、1521節、165節。

 

イエスはゲッセマネの園で、祈られました。

 

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

マタイによる福音書2639節、言い回しは多少違ってもマルコによる福音書1436節、ルカによる福音書2242節もこの言葉に触れています。

ヨハネによる福音書だけは、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」(1811)とゲッセマネの祈りの場面を割愛しているけれど、イエスが御父の御心に随う決意をされていることを記しています。

 

これ以外にもイエスは天の父の御心を伝えに来たことや実践をしに来たことを述べていたことが、新約聖書の至る所で記されています。

 

そう言うと、三位一体を主張する人達はヨハネによる福音書1030節の「わたしと父とは一つである」を引用するかもしれません。

 

けれど、イエスはゲッセマネの祈りでこう仰っておられるのです。

 

ヨハネによる福音書172223

わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。

 

ここでイエスの仰る「わたしたちが一つである」とは「わたしと父とは一つである」と同じことです。

そして「一つ」も同じことを指しています。

 

ここで言う「一つ」が思いを完全に一致させることを指していることは、誰が見ても明らかでしょう。

 

さらに言えば、「わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました」とイエスが述べておられることを見落として良いはずがありません。

 

「わたしと父とは一つである」、「わたしたちが一つである」と言う言葉がもしも三位一体を指しているとしたら、イエスはイエスご自身に対して「あなたからいただいた栄光」と言っていることになり完全におかしな事となるでしょう。

 

三位一体の言葉は聖書のどこにも書いてないばかりか、論拠とできる記述自体見つけることは絶望的なまでに不可能なことなのです。

 

聖書には“父と子と聖霊”の明確に独立した存在として役割分担をしつつも思いを一つにして救いの御業を遂行しておられる姿は繰り返し描かれているが、三位一体を証する明確な言葉は一つとして見いだすことはできないのです。

 

TRINITY”(三位一体)の論証として彼らの挙げる箇所はことごとく、“父と子と聖霊”の“UNITY”の証であってそれ以上でもそれ以下でもないのです。

 

“父と子と聖霊”は一つの神会を構成して心ひとつにして、救いの計画を実行しておられると見た方がすっきりします。

 

絶対三神唯一神会とか、三位三体三体一位と言った方が、ちょっと長ったらしくなるけど、何回聞いても難解な三位一体より、よほどわかりやすくと思いますが、いかがでしょうか。

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