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2018年5月

目覚めた市民が命を与えない民主主義は無力な偶像に堕落する。

本気でこの国の主人公として目覚めた市民がいったいどれだけいるのか、今、冗談抜きで問われているのではないでしょうか。

 

違いますか。

 

民主主義では市民が主人公、政党はそのための道具に過ぎない、そう思いませんか。

 

主人公は国民であり政党はそのための道具に過ぎないことを忘れてしまった政党は、使い物にならないからさっさと捨てようではありませんか。

 

市民が主人公、この自覚が私たちの側にあるのでしょうか。

今、私たち市民もまた問われているのでないでしょうか。

思い出して欲しいのです。

私たち市民こそこの国の主人公なのだ、私たちにその自覚と覚悟が、今、あるでしょうか。

 

市民が主人公、そう思っている人は、野党にドンドン思いをぶつけようではありませんか。

 

与党は国民こそが主人公であることを忘れ、高慢になっていないでしょうか。

 

突き付けようではありませんか。

「誰がこの国の主人公なのか」と言う、民主主義にとって最も基本的な、この問いかけを、です。

 

民主主義である以上、私たち市民が主人公なのです。

 

野党は国に市民の声を突き付けるための道具、市民はこの基本を忘れないことが何よりも大事です。

 

使い物にならない道具は市民から捨てられてしまうと、詰め寄ろうではありませんか。

「国民が主人公だ」この大原則を忘れた瞬間、民主主義は無力な偶像に堕落します。

民主主義に命を与えられるのは私たち市民であることを、忘れてはならないのです。

 

「野党は本気で政権取りたいのかという国民の批判や疑問に答える意思を具体的な行動で示して欲しい」そう思える時、実は腰砕けになっているのは、市民の方の覚悟なのです。

 

「共闘による政権交代でどういう政策や選挙共闘を実行するか協議している姿を、はっきりと示して欲しい」、野党に一番問われているのはこれだと市民の側が本気で思うなら、市民の側こそ、本気で思いを突き付けようではありませんか。

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「意を体する」と「忖度」の違いと関係を考えてみた。

 

「忖度」とかけて「包丁」と解きます。

 

その心は。

 

どちらも、用いる人は人に対する思いやりの心が求められます。

 

使いようによっては、人が死ぬことがわかってない人は、使わないで欲しいものです。

 

「忖度」それ自体は悪ではないのです。

 

むしろ、いちいち指示を受けて行動しなければいけない事態を避けるために組織にとって必要がある事柄でさえあるのです。

 

「忖度」を国政私物化や証拠隠滅に悪用した疑惑がもたれたことが、森加計問題の根幹ではないでしょうか。

 

私物化の結果、便宜が図られたばかりか、事実関係の隠蔽や改竄までもが、忖度の結果行われた疑惑が持たれているのです。

 

さらには、隠蔽や改竄をなかったことにするためなら、口封じのために自殺に追いやられた人さえもいるのではないかとの疑いさえも持たれてしまう始末なのではないでしょうか。

 

もちろん、こんな事はあってはならないし、あって欲しくないです。

 

ここで問題にされるべきは、安倍首相の国政私物化の意図がどれだけ「忖度」されているか、と言う事なのです。

 

だからこそ、徹底的に調べ上げ国政私物化の実態の真相究明する必要があるのです。

 

森友学園や加計学園に対する国政私物化による便宜供与疑惑の問題で安倍首相を庇う人が「忖度のどこが悪い」と言うのはある意味では正論でしょう。

 

忖度の悪用を、忖度自体が悪と勘違いして批判や攻撃をしてはいけないのです。

 

問題は忖度された中身であって、忖度自体ではないからです。

 

混同に注意したいものだと、自戒の気持ちを込めてこの問題を考え直してみたいと思い今回の議論となりました。

 

「意を体する」人の考えや気持ちを理解し、それに従うこと。

 

「忖度」他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること。

 

つまり、「意を体する」とは相手の意図の範囲内に収まるように努めるが、「忖度」とは相手の意図の外に出る可能性がある言動を「意を体した」と解釈してすることとなるでしょう。

 

言い換えれば、指示の「意を体する」行為をしたつもりがおしはかって相手に配慮するあまりに指示の範囲を逸脱した場合、その行為を合法化する方便に使われる危険性があるのが「忖度」となるのかもしれないです。

 

つまり、「忖度」は結果オーライなので、それだけ信頼関係が重要となる行為と言えるでしょう。 

 

ここで誤解してはいけない事は、「忖度」自体は決して悪くないのです。

 

むしろ、組織が円滑に動くために必要でさえあるのです。

 

「忖度」とは、「意を体する」行為をより柔軟に臨機応変に行うことと思えば良いでしょう。

 

民主主義をちゃんとわかった人が上に立てば、「忖度」はとても気の利いた行為になるでしょう。

 

独裁者が「忖度」を悪用すると、責任転嫁とトカゲのしっぽ切りに晒されるリスクと隣り合わせの状態の中行動させられる悪夢となるでしょう。

 

それだけに、上に立つ者は忖度されるに値する言動になっているかどうか常日頃気をつける必要があるのです。

 

忖度を悪用してはならないのです。

 

それが上に立つものが心得ておくべきことではないでしょうか。

 

違うでしょうか。

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古代アメリカで日本人のご先祖様は何をしていたのでしょうね。

「紀元前のアメリカ」バリーフェル著喜多迅鷹・元子訳草思社刊

 

私はこの本にしょっぱなから強い衝撃を覚えたのです。

 

アメリカ大陸から、旧大陸のそれもヨーロッパや地中海世界の人達が石に残した碑文がいくつも見つかっているというのです。

 

 「碑文は、ヨーロッパおよび地中海沿岸のさまざまな言語で、今から二五〇〇年も前のアルファベットで記されており、そこから、古代の船の来航ばかりでなく、ケルト人、バスク人、リビア人、さらには、エジプト人までもが、永住の植民地を作っていたことがうかがえる。」

 

さらに本書の中にはこのような記述まであるのです。

「それは、ハロルド・スターリング・グラッドウィンで、その数多い著作の中で、くり返し、文化的様相や客観的資料、とくに陶器に注意を喚起し、アメリカ原住民は旧世界、とりわけ地中海やオリエントと比較的近年に接触を持っていたに違いないと主張した。彼が注目したさまざまな技術様式の特徴は、旧世界と南北アメリカ間に、約紀元前二千年前の古典時代まで、直接の航海がなされていたことを示すものであった。」

 

ハロルド・スターリング・グラッドウィンのこれらの主張は今アメリカで市民権を得つつあるようです。

 

ではなぜ私が衝撃を受けたのか。

 

ケネウイックで見つかった人骨に原因があります。

 

当初、イギリス人の骨発見で事件との関連が疑われたが、この骨はケルト人が多い地域のイギリス人の物と思われたのです。

ところがフランスとスペインの様式の矢じりが一緒に見つかり石器時代の人と判明、さらにアイヌの親戚の骨と判明したのです。

 

ケルト人の多いのはアイルランドだが、日本には家族性アイルランド熱の発症例があります。

フランスとスペインは地中海沿岸だが、これらの国は名前こそ発症例にはないものの、家族性地中海熱の発症例も日本にはあるのです。

 

フランスやスペインによく似た顔の日本人も、少なからずいます。

ある芸能人など、縄文人とフランス人それぞれにそっくりさんがいることが判明しました。

縄文人の顔を復元して書いた人も、まさかこんな展開になるとは予想していなかったことでしょうね。

 

縄文土器とよく似た土器が、南米のエクアドルにあるバルディビアで発見されたのです。

ところがこの土器にエジプトの方が似ているという、異論が出ているといいます。

バルディビアでは、日本の土偶とよく似たものまで見つかっているというのにです。

バルディビア出土の土器にエジプトと似ているという人は、日本の縄文土器を黙って見せたら同じ事言うのか、聞いてみたいものです。

 

エジプト研究者の吉村作治教授は、日本の神社の様式のルーツは古代エジプトのピラミッドコンプレックスにあると、指摘しているのです。

吉村作治教授は、熊本のトンカラリンとエジプトのピラミッドとの共通点もいくつか指摘しています。

 

バスク人についても面白いことがあります。

キップリングが送った長崎からの手紙に、不思議な内容があるのです。 

バスク人に似た青年のひく人力車に、乗ったというのです。

バスクと言えば石担ぎ競技が有名だが、日本でもかつて石を担いで力比べしたことを記念する石はあちこちの神社に見つかります。

 

本書からあげた中で、今のところ日本で見つかっていないのは、リビアくらいのものです。

 

日本人の骨は、アメリカ大陸で言えば、メキシコからも見つかっているそうです。

 

最近の展開としては、アメリカ大陸最古級の住民は日本人だったのかもしれないとなっているそうです。

 

ケルト人、バスク人、リビア人、エジプト人、これらの人々はアメリカ大陸の奥地まで進出していることがわかってきました。

 

古代アメリカで、日本人のご親戚たちは、ケルト人、バスク人、リビア人、エジプト人、と言った人たちと、どんなお付き合いしていたのか、滅茶苦茶気になるところです。

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自己責任の言葉に怯む前に。

自己責任と思っていたものが実は、そうじゃなかったなんてこともあり得るのです。

障害の内容によっては、あなたのせいよりも環境に原因があることもあり得るのです。

どうしてそうなのか、一度冷静に振り返ってみることをお勧めしたいです。

少しでも、環境に原因がありそうなら、声を上げた方が良いでしょうね。

案外そのことで、心苦しく思っている人も周囲にいるかもしれないからです。

率直に悩みを打ち明けた方が良い場合もあるということです。

自己責任と言われても、怯まないことです。

「何でもかんでもひとのせいにするな、自分で解決できるものだってあるだろ」そう言われたと謙虚に反省するチャンスを与えてもらえたと思うことです。

何でもかんでも敵対するのではなく、相談にのってもらって味方してもらえるところはしてもらう方が良いかもしれません。

「自己責任」の言葉で怯んでいる人に、聞いて欲しいのです。

本当に全部が自己責任なのでしょうか。

少しでも環境に原因があるとわかった場合は、周囲に声をかけてみた方が良いかもしれません。

あるいは、見つけ方がわからないなんて場合も、周囲に相談してみると道が開ける場合もありではないでしょうか。

自分でなんとか解決できるものならと、悩んでないで、一人で抱え込んでいないでいる方が良いかもしれません。

国でも地方でも、あるいは様々な団体でも、「自己責任」とか言う前に自分たちに何かできることはないか考えて欲しいのです。

行政など環境に大きな影響を与える事ができるところは、その持っている力で何とか出来る障害を一つでも多く現場の声をきめ細かく聞いて取り除く対策何とかして欲しいものです。

問題解決したくても諸事情によりできないと思っている人たち一人一人も、一人で悩んでいないで自分の抱えている障害のうちで、これは自分だけでは解決は無理と思えることは積極的に声を上げた方が良いですよ。

変わらないとあきらめないで、声を上げ続ければいつかは変わるはずです。

これは、しょっちゅう、くじけそうになったり、怠けそうになったりする私自身も反省しなければならない事でもあるのです。

マタイによる福音書 24章 13節
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

ルカによる福音書 22章 28節
あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。

コリント人への第一の手紙 1章 8節
主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。

ヘブル人への手紙 6章 11~12節
わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、
怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。
追記
この記事は自己責任を別の側面から見た以前のものです。
改めてこの問題の奥深さを感じます。
弱さを強さに変えるには自己責任論はかえって邪魔になる。 http://bit.ly/21pCj2y
自助努力ってなに? http://bit.ly/2iKrMON

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説明能力を高める必要があると説明してみた。

スローフードの取り組みでは、この水が如何においしいか人に伝える方法さえも学びあっているといいます。

 

一つには水がワインやビールより高いってこともあるかもしれません。

でも、それ以上の、水の味の違いが判るくらい感性が研ぎ澄まされ、表現力も豊かになるってわけかもしれないですね。

 

日本でもやってみたら面白いかもしれないないです。

 

政府のトップが説明を求められても、逃げ回り隠蔽や改竄でその場しのぎの小手先でごまかそうとし、国民もこれをそれ程不思議に思わないようじゃ、日本で世界に通用する人材を大量に生み出せるようになるのは、まず無理ですよね。

 

さっさと説明してけりをつけて、手際よく次の課題について向き合うのでないとだめでしょう。

 

日本人ももっと説明の能力を上げた方が良いです。

 

仕分けで「二位じゃダメなのですか」と聞かれたら、欧米なら一位でなきゃならない理由がマシンガンの弾のように浴びせ掛けられるはずでしょう。

 

ところが日本じゃ第一線の研究者でさえしどろもどろだったのですよね。

 

答弁がしどろもどろでは無能扱いなのが欧米では当たり前なのにですよ。

 

日本語が論理的な思考に向いていないのではないですよ。

 

日本人が論理的思考から「有り前」「言うだけ野暮」「屁理屈言うな」などの一言で、議論を一瞬で封殺してきたってことでしょうね。

 

そもそも、会合自体が緊急時だけでしかも上意下達が目的なものだけだったから仕方ないとはいえ、日本はあまりにも議論をしなさ過ぎたのではないですか。

 

要は日本はほとんどが例年通りやればいいルーチンワークが大半だったので、習熟と上達だけが求められたのでしょうね。

 

例年通り、前例通り、それで間に合うっていうか前例にない事をするのは大きなリスクのある大冒険になる、そう言う環境で長年日本人は生きてきたってことですよ。

 

余計な事をすると寝た子を起こす、かえって厄介なことになるってことですよ。

 

大勢の人が協力して自然と折り合いをつけて暮らすのが、日本人の当たり前だったのです。

 

かつての日本は、いちいち合意を取り付けないと前に進まない社会ではなかったわけでしょ。

 

しかし今は違うわけでしょ。

 

いちいち合意を取り付けないと前に進まない社会に、日本もなったのではないですか。

 

日本人の意識がついていけていないだけでしょ。

 

いちいち合意を取り付けないと前に進まない社会、去年と今年が必ずしも同じではない、もっと言えば、去年と今年は違って当たり前、それが普通な社会ってことでしょ。

 

常に変化に的確に対応するために、どうすべきかみんなの同意を取り付ける必要が毎年のようにある社会ってことでしょ。

 

今の日本も既にそうなっているでしょ。

 

世界に通用するする人材を育てたいなら、まず説明能力を磨きそれを的確に表現できる能力を高めるべきでしょう。

 

それが母国語でまともにできない人に外国語をいくら学ばせても、せいぜい日常生活の会話ができるようになるだけではないでしょうか。

 

母国語でちゃんと説明できて、外国人とも話したいと積極的になれる人材に育てろと、違いますか。

 

結局のところ、説明を求められてもしどろもどろが当たり前で、その姿を人の前でさらけださせた方が責められて当然、こんな日本で良いのですか。

 

これじゃ、何年待っても説明能力の高い政府を日本国民が手にするのは無理でしょうね。

 

まず一人一人の国民が、説明能力を磨こうと思う方が先かもしれないですね。

これじゃ、日本は世界から遅れるだけではないでしょうか。

 

今は、変化が当たり前ではないでしょうか。

 

その変化とみんなで一緒に向き合うのが当たり前ではないでしょうか。

 

みんなと一緒にと言うことはちゃんとした合意ができてこそ、可能になる、違うでしょうか。

 

だからこそ、説明能力を高める必要があるのではないでしょうか。

 

わかって協力してもらえないと、一人じゃ無力だから、違いますか。

 

それが世界じゃ、当たり前って事なのではないでしょうか。

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