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「意を体する」と「忖度」の違いと関係を考えてみた。

 

「忖度」とかけて「包丁」と解きます。

 

その心は。

 

どちらも、用いる人は人に対する思いやりの心が求められます。

 

使いようによっては、人が死ぬことがわかってない人は、使わないで欲しいものです。

 

「忖度」それ自体は悪ではないのです。

 

むしろ、いちいち指示を受けて行動しなければいけない事態を避けるために組織にとって必要がある事柄でさえあるのです。

 

「忖度」を国政私物化や証拠隠滅に悪用した疑惑がもたれたことが、森加計問題の根幹ではないでしょうか。

 

私物化の結果、便宜が図られたばかりか、事実関係の隠蔽や改竄までもが、忖度の結果行われた疑惑が持たれているのです。

 

さらには、隠蔽や改竄をなかったことにするためなら、口封じのために自殺に追いやられた人さえもいるのではないかとの疑いさえも持たれてしまう始末なのではないでしょうか。

 

もちろん、こんな事はあってはならないし、あって欲しくないです。

 

ここで問題にされるべきは、安倍首相の国政私物化の意図がどれだけ「忖度」されているか、と言う事なのです。

 

だからこそ、徹底的に調べ上げ国政私物化の実態の真相究明する必要があるのです。

 

森友学園や加計学園に対する国政私物化による便宜供与疑惑の問題で安倍首相を庇う人が「忖度のどこが悪い」と言うのはある意味では正論でしょう。

 

忖度の悪用を、忖度自体が悪と勘違いして批判や攻撃をしてはいけないのです。

 

問題は忖度された中身であって、忖度自体ではないからです。

 

混同に注意したいものだと、自戒の気持ちを込めてこの問題を考え直してみたいと思い今回の議論となりました。

 

「意を体する」人の考えや気持ちを理解し、それに従うこと。

 

「忖度」他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること。

 

つまり、「意を体する」とは相手の意図の範囲内に収まるように努めるが、「忖度」とは相手の意図の外に出る可能性がある言動を「意を体した」と解釈してすることとなるでしょう。

 

言い換えれば、指示の「意を体する」行為をしたつもりがおしはかって相手に配慮するあまりに指示の範囲を逸脱した場合、その行為を合法化する方便に使われる危険性があるのが「忖度」となるのかもしれないです。

 

つまり、「忖度」は結果オーライなので、それだけ信頼関係が重要となる行為と言えるでしょう。 

 

ここで誤解してはいけない事は、「忖度」自体は決して悪くないのです。

 

むしろ、組織が円滑に動くために必要でさえあるのです。

 

「忖度」とは、「意を体する」行為をより柔軟に臨機応変に行うことと思えば良いでしょう。

 

民主主義をちゃんとわかった人が上に立てば、「忖度」はとても気の利いた行為になるでしょう。

 

独裁者が「忖度」を悪用すると、責任転嫁とトカゲのしっぽ切りに晒されるリスクと隣り合わせの状態の中行動させられる悪夢となるでしょう。

 

それだけに、上に立つ者は忖度されるに値する言動になっているかどうか常日頃気をつける必要があるのです。

 

忖度を悪用してはならないのです。

 

それが上に立つものが心得ておくべきことではないでしょうか。

 

違うでしょうか。

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