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民主主義とは国民が主権者としての責任や義務を負う制度。

考えてみると、公地公民は正式に廃止の宣言は出されていないのではないでしょうか。


公地公民制は大化改新と大宝律令で定められた後、瓦解崩壊有名無実になってはいるが、廃止の決定は今まで一度もなかったはずです。

出す時期を失ってしまい、何を今さらと思われるのが落ちになってしまって、今に至っていると言う事でしょう。

 

つまり、日本の国土も国民も未だに皇室の所有と言うことかも知れません。

 

戦後の民主主義と言うのは歴史的に見れば、天皇による為政者たちの首のすげ替えの順番が、国民に回ってきただけなのかも知れないのです。

それはさておき、今日本は民主制です。

つまり、独裁者と勘違いしている人物がのさばっているなら、その責任は国民にあって、のさばっている独裁者を退ける責任も国民にあるとなるはずです。

 

憲法以前は天皇直々に乗り出すこともあったが、現行憲法では勘違いしている独裁者を退ける責任は国民に託されていることになるわけです。

世が世なら天皇は独裁者を退ける勅命を出せたが、今それは出来ないのですから。

国民の責任は重大です。

 

お上・御上とは、貴人や主君に対する尊称です。

転じて、公儀権力を示します。

日本では古より最上位の権力者をカミと称してきました。

主権在民とは、上位の権力者は国民と言う事です。

最上位の権力者は国民というなら、今やお上の責任を引き受けないとならないのは国民と言う事でしょう。

つまり、民主制にあってお上批判は自己批判と同義語となっていると、国民は自覚を持つ必要があるでしょう。

 

国民が未だに被支配者意識が抜けないで為政者をお上と呼ぶならば、それは国民が主権者としての責任を放棄し、一握りの人たちに丸投げしたことになるのではないでしょうか。

 

もし為政者が自らをお上と勘違いしているなら、歴代為政者をお上扱いして多くの国民が主権者としての責任を放棄しまくってきた付けなのではありませんか。

 

選挙で政治を託したい人や党を意思表示するのは、主権者としての義務、違うでしょうか。

 

白票や棄権は主権者としての責任からの逃亡であり、主権者としての地位からの逃亡ではないでしょうか。

棄権が過半数とは主権者としての責任や地位を投げ出し、臣民の立場を選んだ人が過半数と言う事と、どう違うのでしょう。

 

事実上過半数の国民は民主主義を投げ捨てて王政を選択した、白票や棄権が過半数と言う事はそういう意味なのです。

 

誰に政治の舵取りを任せるかの意思表示をするのは、主権者としての責任であり義務であると理解出来ていないなら、民主主義を一から学び直していただけますでしょうか。

 

我々は主権者としての責任からも地位からも逃げていないというなら、証拠を見せて欲しいのです。

あなたが立候補するか党や候補を選ぶ以外に、選択肢はないのですよ。

 

主権者と臣民、あなたはどちらを選ぶのですか。

 

あなた方が逃げれば、日本は王国に逆戻りするのです。

 

それでもいいなら、主権者としての責任や義務から逃げたら良いのです。

 

国民の半数を裏切ったと、後ろ指さされても構わないならば、ですが。

 

主権者としての責任から逃げていないというなら、あなたが立候補するか党や候補を選ぶ以外に選択肢はないのですよ。

 

私の言葉を、言い方はきついが正論と取れば主権者としての自覚がある人でしょう。

 

だが、言い方が厳しい私の弁明を聞いてくださいと泣いてすがるなら主権者としての自覚を捨てた人でしょう。

 

さあ、あなたはどちらですか。

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