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2019年3月

戦火から国土と国民を守ってこそ真の国防。

第二次世界大戦後、アメリカ合衆国は自国が戦場にならなかった代わりに、世界各地を戦場にしてきました。
その結果、どうなったでしょう。
国を相手にした戦争よりも厄介なテロリズムに悩まされる事態を招いて、手を焼いているではありませんか。
そして、テロリズムの悲しみは更に怒りの連鎖となって、新たな戦争やテロリズムの火種となっていくのです。
つまり、どこの国の領土領海領空も、戦場にしたらダメなんですよ。
戦争は新たな戦争の火種しか生まないことは、人類の歴史が証明しています。
国際的な問題の解決する手段として武力を用いないと宣言した9条と、平和を愛する諸国民を信頼して安心と生存を保持しようと決意した前文を持つ日本国憲法を最大限に生かす外交と内政こそが、最高の国防なのです。
これを実践すれば、感謝されこそすれ恨まれる筋合いはないでしょう。
戦争したくてたまらない人たちは別でしょうが、誰もそのレッテル貼られることは望まないでしょ。
少なくとも建前ではね。
兵法で有名な孫子は「百回戦って百回勝つより、戦わないで勝つ方が良い」と言います。
負けたくないからと軍拡を続けて軍事費が膨大になり、例え勝ったとしても割が合わないのでは馬鹿馬鹿しいではないでしょうか。
まして日本は、寺の鐘まで供出した挙句に、首都東京をはじめ全国各地が空襲で甚大な損失となりました。
多くの血と涙が虚しく流された教訓の中から生まれたのが、日本国憲法です。
誰が草案を書いたにせよ、日本人自身が審議して自分たちが納得して制定したのが今の日本国憲法なのです。
祖国の国土と国民を守ることが国を守ることだというなら、戦争によって祖国の国土と国民が損なわれることがないように努めてこそ、本当の国防なのではないでしょうか。
違いますか。
国際的な問題解決に武力を用いないと世界に公約した9条と、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安心と生存を保持しようと決意した前文を持つ日本国憲法の可能性をとことん汲みつくす外交と内政のために最大限の努力を惜しまない姿を示し続けるなら、掛け値なしに「日本すごい」と称賛されるでしょう。
違いますか。

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音楽は政治と無縁でいられるのか。

音楽に政治を持ち込むなという人がいるが、音楽はそもそも、演奏者と聞き手がいて成り立つ営みです。
聞き手は良いねと思わなければ、最後まで聞いてくれないでしょうね。
音楽は聞き手という名の同志がいてくれて、初めて成立する行為なのです。
演奏者も複数いてはじめて成立する曲は共演者という同志が必要、場合によっては作詞作曲の同志も必要になります。
つまり、音楽は何人もの同志に支えられて成立する社会的な営みと言えます。
その意味では、音楽は一種の党派性を持つとも言いえるでしょうね。
フアンという支持者獲得も、時として必要となるのです。
協力者や共演者や聴衆という同志や支持者を獲得する行為は、政治活動と本質的にどう違うのでしょうか。
政治的メッセージを盛り込むか否かの差なのですよ。

音楽に政治を持ち込むなという人は、アリストテレスの人間は「zoon politikon(ポリス的動物)である」という言葉を知っているのでしょうか

アリストテレスは著書『政治学』において、人間は「zoon politikon(ポリス的動物)である」と述べました。
「ポリス」とは、都市、都市国家、市民権または市民による政体を指すギリシャ語です。
つまり、「人間は政治的な営みをする動物である」のです。
社会的な営みは、複数の協力者=同志の存在無しにはあり得ないのです。
そして、限られている時間や場所、時として資源をめぐって協力し合うことも競い合うこともあるのです。
ここで言う資源とは、目的を実現するのに必要な人・モノ・金と思ってもらえば良いでしょう。

これらはまさに「政治的営み」に他ならないでしょう。
いわゆる政治的課題が絡む行為は、人の行う政治的営みのごく一部でしかないのです。
つまり、音楽もまた人間の営む政治的営みの一つに過ぎないと言えるでしょう。
音楽に政治を持ち込むなという人がいるが、本質的に無理なのです。
人の営みは、政治的営みだらけなのだからです。
逆に言えば政治的課題は、人の政治的営みの中の緊急的対応が求められているものと言えるでしょう。
いわゆる政治的課題が厄介なのは、立場や利害が絡むからなのです。
何らかの立場や利害の無い人は、ほとんどないでしょ。
違いますか。

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なぜ、卑弥呼と邪馬台国が日本の史書にないのか?

なぜ、卑弥呼と邪馬台国が日本の史書にないのでしょうか。

中国は意味よりも音を優先させて、自らの史書に記したことは多いにあり得ることなのに、日本の史家は日中の発音の差を無視しまくっているのではないでしょうか。

「日本」は中国語の発音では「リーペン」、当然ながら「巫女」も中国人が言えば発音が変わるはずです。 「日巫女」を中国人が言いやすいように音訳したのが、「卑弥呼」なのでしょう。
「邪馬台」国は音の近さから「ヤマト」国であろうとされてきたが、類推の範囲をでなかったのです。 言語学研究の到達点からやむを得なかったと言えるが、昔と今では到達点が違います。 古代の日本語は、二重母音であったことが、明らかになっています。 「邪馬台国」も「卑弥呼」も、中国人は当時の日本人の発音に近い中国語の文字を探して音訳したと考えるのが、自然なはずです。 「大和(ヤマト)」も当時の日本は二重母音なので強いて言えば「ヤマタィ」に聞こえてもおかしくないから、「邪馬台」国と中国人聞こえてその通りに記したとみる方が自然なのです。
「日巫女」は役職名なので、それを担当したと思われる女性を探せば良いのではないでしょうか。
太陽神の言葉を地上に取り次ぐ巫女である「日巫女」に就任できるのは、一人だけだったことでしょう。 中国人が「日巫女」を個人の名と取り違えても、無理はなかったでしょう。
当時の日本は「日巫女」空位の混乱を、トヨの「日巫女」就任によって収拾したと見ても良いでしょう。 「邪馬台国」も「卑弥呼」も、「大和国」や「日巫女」を中国人が呼びやすいように音訳した名前なので、真に受けて探すだけ時間の無駄なのです。 日本はもっと、歴史的な研究や考察を学際的に行うことが、当たり前になって欲しいものです。

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