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大義を民の声として掲げてこそ希望の光は見える。

出エジプト記は、神の声を伝えたモーセとアロンに対して頑なであったファラオのためにエジプトが被った禍の数々を記しています。

民の声は天の声神の声と置き換え、頑な為政者を頑なファラオと置き換えるなら、この教訓は今も通じるはずです。

民の声に対して頑な為政者は、民に禍をもたらします。

出エジプト記の紅海の奇跡は大義による結束によって救われた民の奇跡と、愚かで頑な為政者に従った民の悲劇の記録でもあります。

奴隷の苦しみより自由のために戦って死ぬ方がましという決意は、私達を結果として救いに導くのです。

高く掲げられた大義は、私達の希望の光であり道なのです。

大義の旗を高く掲げ、大義の旗を見失わず勇敢に前進するものだけが、勝利の光を見るのです。

真理や真実や大義そのものは見えないが、それを証言した現象や記録は見ることができます。

そして、それらを目に見えるものにすることができるのは、それらを実行したものだけなのです。

そして、それらを受け入れたものにとってそれらは現実となるのです。

大義を掲げる時、その大義は誰のためなのか何のためなのか、常に問われます。

私達は大義を掲げるなら、その答えもまた掲げなければならないのです。

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