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2020年5月

ヒッグス粒子達の仕事は素粒子達の体重測定か。

科学者達は、ヒッグス粒子は素粒子達に質量を与えていると言います。

私は創世記2章19節を、思い出すのですけどね。
そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。

素粒子達はヒッグス粒子のところに来ると、生き物達がアダムに名前を与えられたように、質量を与えられると言うのですよ。

でも考えてみて欲しいのです。

水素には陽子と電子一つづつのものもあれば中性子の数によって二重水素や三重水素があるし、陽子と中性子も僅かだけど質量の差があるのです。

ヒッグス粒子はいちいちルールブック片手に規則正しく質量を決めるなんて、面倒くさい真似しているのでしょうか。

素粒子達を体重計に乗せて、目盛りを読んでいるだけとしたらどうなのでしょうか。

実はヒッグス粒子は、ヒッグス場として仕事をしているのです。

ヒッグス粒子とは、量子化されたヒッグス場の事なのです。

ヒッグス場に敷き詰められたヒッグス粒子に飛び込んできた素粒子達の止めやすさを、ヒッグス粒子は測っているのです。

加速度と重力は、区別がつかないのです。

加速度とは、運動を減速したり加速したり、運動の方向を変えたり、する時に働く力と思えば良いのです。

だから動かしやすさや止めやすさを調べれば、質量を測れるのです。

ヒッグス粒子達が使っている体重計は、ヒッグス粒子自身なのです。

ヒッグス粒子達は体を張って素粒子達を受け止めて、止めやすさで質量を調べているのです。

でもこれって、重力場や重力粒子のやっている仕事とどう違うのでしょうか。

もし、重力場や重力粒子が別にあるとしたらどうなるのでしょうか。

これだから、疑う事はやめられないのです。

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進化論者と創造論者の違いとは何か。

進化論者とは、答えに詰まると時間にすがる人達の事ではないでしょうか。

進化論者は創造論者に向かって、何かというと神を持ち出すと揶揄したがるが、そういう自分は何かというと時間を持ち出すのではないでしょうか。

つまり進化論者とは、時間神の信者の事を言うのではないでしょうか。

違うでしょうか。

聖書には「疲れた人は私のところに来なさい、あなた方を休ませてあげよう。私のくびきを負うて私にならいなさい」とあるが、進化論者にそのありがたいお言葉をくださる神様が時間神なのではないでしょうか。

私には、そうとしか見えないのですけどね。

進化論者とは詰まるところ、時間神がすべてを創造したもうた絶対神なのだと主張する創造論者の別派に過ぎないのではないでしょうか。

要所要所に時間を持ち出すと進化論者、要所要所に神を持ち出すと創造論者、と言う事は時間が進化論者にとっての唯一絶対神なのではないでしょうか。

進化論者は面倒くさいと全然時間のせいにして安堵するが、創造論者は面倒くさいと神に救いを求めて安堵する、私にはそう見えます。

進化論者にとって時間とは停止した思考のゴミ箱みたいなもの、創造論者にとって神とは人生の先導者みたいなもの、私はそう感じます。

時間は、進化論者にとって面倒くさい問題を引き受けて肩の荷を軽くしてくれる救い主、創造論者にとって主の再臨に備えるために無駄にできない存在。

「凄いな」と思うと、「誰がこんなもん作ったのか」と首を傾げる人は多いのではないでしょうか。

その疑問を、全ての存在に感じて答えを探そうとすると創造論者になるが、明らかに自然物と思える存在は除外して答えを探そうとすると進化論者になる。

「凄いな」と思うと「誰がこんなもん作ったのか」と首をかしげる、その疑問の首尾一貫しているのが創造論者、その反対が進化論者。

そう見たら、違うでしょうか。

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