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2020年11月

興福寺の阿修羅像とキリスト教?

私は時折、キリスト教の教えと仏教の類似を面白く思います。
日本に伝わった大乗仏教の成立にキリスト教の影響があるだけではなく、仏教そのもの教えにキリスト教との類似を感じるのです。
それはさておき、興福寺で阿修羅像が収められていた西金堂に込められたメッセージが気になるのです。
興福寺の仏像の配置を知る手掛かりとして、曼荼羅図が残されていると言います。
その曼陀羅図をよく見ると、御仏の真正面で婆羅門の鳴らす金鼓(こんく)は御仏の教えを説く声の象徴だが、それを聞く十大弟子や八部衆は懺悔の表情を浮かべ、向かって左奥の阿修羅に至るのです。
その阿修羅の三つの顔は、十大弟子や八部衆の表情の正に集大成と言えるでしょう。
この阿修羅の三つの表情は、十大弟子や八部衆の懺悔の表情のアルファにしてオメガなのです。
この諸仏の像を作らせた光明皇后は、施薬院や悲田院さらには薬草の湯気で人々を癒す一種のサウナを作ったお方でもあります。
阿修羅は戦いの神とされるが、その阿修羅に人々の内面的な葛藤の表現を演じさせた光明皇后。
イスラムのジハードには、現世の戦いである小ジハードと内面の戦いである大ジハードがあります。
そしてイスラムもまた、聖書による宗派なのです。
ユダヤ教徒やキリスト教徒は、あまりジハードの教えが聖書に込められていると気が付いていないのではないでしょうか。
興福寺の阿修羅の表情の謎は、ジハードを知らない人には戸惑うでしょうが、光明皇后は明らかにジハードの思想を知っていたのかもしれないのです。
光明皇后は聖武天皇の后で、二人には東方キリスト教の影響が指摘されます。
光明皇后がこれら諸仏を西金堂に納めた動機には諸説あるが、まさか聖書の教えへの信仰告白なんてことはないでしょうね。
日本史とキリスト教には意外と繋がりがあるのかもしれない、そんな気になります。

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私達一人一人が国民主権獲得のために先人のどれだけの努力があったか知った方が良い。

首相だのそれぞれの省庁の長は、主権者の雇われ代行人に過ぎないのです。

そして民主主義では主権者は私達国民なので、首相以下各省庁の長に対しての指揮と監督の最終的な権限は私達国民にあるのです。

棄権や無関心は主権者たる者としての、責任逃れであると自覚した方が良いのです。

民主主義では主権者は私達国民なのだと、私達一人一人が自覚しているべきなのです。

もし、一握りの政党や政治家が憲法や法を踏みにじってしまう暴挙に出たなら彼らに断固として毅然とした態度で臨むのは主権者の責任なのです。

主権者たる国民は政治の現状に対する声を上げたらどうなるかを恐れるより、今声を上げないとどうなるかを恐れるべきなのです。

国民が主権者たる地位を得るまでに長い時間がかかったが、それを失うのは一瞬だと知るべきなのです。

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一筋縄ではいかぬアメリカの共和党と民主党。

日本人はアメリカの共和党や民主党を日本やヨーロッパの政党と似たようなもんだと思っているが、それではこれらの党の本質を見失うのです。

アメリカの二大政党である共和党にも民主党にも、党首はいないのです。

党首がいないという事は、党の路線について激論を交わす党大会も党首選挙も無いという事でもあるのです。

極端な話、アメリカの共和党も民主党も、大統領選挙などの選挙を戦うための互助会的な寄り合い所帯と見たらまず間違えないです。

共和党は主に保守派で民主党は主にリベラル派になっているが、それぞれの党が辿ってきたいきさつの結果に過ぎないのです。

共和党は北部で民主党は南部で強いが、背景にアメリカを二分した南北戦争があるです。

アメリカの統一を守るために大統領の周りに結集した共和党、南部の独自性を守るために結集した民主党。

共和党と民主党に党首がいないのは、この成立の過程とその後の歴史に原因があるのです。

アメリカの南北戦争は奴隷制が争点のように見えるが、実際はアメリカを資本主義一色で染めるか否かの戦いです。

南部は奴隷制があったために、奴隷解放の旗印で切り崩されて敗北したとも言えるのです。

戦況では南部が優先だったが、北部は奴隷解放の旗印を掲げて劣勢を挽回し勝利したのです。

共和党と民主党の戦いは、資本主義とそれに対する批判勢力の戦いと言う側面が強いように見えます。

しかし一方で、それぞれ進歩的工場ブルジョアジーと保守的農村地主層の戦いの中で生まれた党と言う歴史的ルーツもあるのです。

一筋縄ではいかないのが、アメリカの二大政党なのです。

追記

この記事は、アメリカの共和党と民主党になぜ党首選挙が無いのだろう。 の続編でもあります。

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アメリカの共和党と民主党になぜ党首選挙が無いのだろう。

ところで皆さんは、アメリカの共和党と民主党には党首がいないのをご存知でしょうか。

大統領候補を選ぶ長い予備選挙はやるが、党首を選ぶ党首選挙はどちらの党にもないのです。

もし党首選挙をやれば、共和党も民主党も路線を巡って紛糾し、分裂必至かも知れません。

党首選挙が無い共和党や民主党に、当面の路線を決める党大会があるわけでもないのです。

それは両党の成立が、国を二分した南北戦争と深くかかわるからなのです。

北部と南部の戦いは、統一を維持しようとする共和党と南部の独自性を守ろうとする民主党の戦いでもあったのです。

南北戦争が終息後、地主層の没落と南部への工場進出と北部への南部からの労働者の流入がありました。

ブルジョア政党へと変貌する共和党と、労働組合に軸足を移す民主党、そして今の姿へと近づいたのです。

どちらも当初一点共闘的暫定的政党の性格が強かったので、党首選挙の無い不思議な党になったのです。

実はアメリカにも、共和党や民主党以外の政党が無いわけではないです。

国を二分する戦いを背景として成立した二大政党の壁は分厚く、第三極となる党の支持基盤を広げるのが容易ではないのです。

二大政党は成立過程を反映して、寄り合い所帯的性格が強いのです。

独立した第三極を目指す政党の入る余地は狭いのです。

二大政党は成立過程を反映して寄り合い所帯的性格が強いから、共和党のティーパーティや民主党のバーニーサンダースのグループは単なる派閥ではないのです。

両党を構成する、党内党的な存在なのです。

だから両党とも、路線選択を伴う党首選挙は不可能に近いと言うわけです。

追記

共和党と民主党の性格の違いについては、この記事で考えました。

一筋縄ではいかぬアメリカの共和党と民主党。

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政治に一番必要があるのは嘘が無い事だ。

説明可能な大義があり、理解と納得が得られるなら、柔軟な対応は出来るのです。

筋の通らない方向転換や離合集散を平気でやる政党と政治家に、未来はないのです。

政治家や政党は、正直が一番なのです。

諦めないのも大切だが、大義さえあれば方向転換も許されるのです。

人は完ぺきに何でもこなせるわけじゃないから、全ての約束を直ぐに果たせないのです。

困難があれば、正直に伝えて理解を求めればいいのです。

取り繕うための嘘は、信頼を裏切るのです。

自由と民主主義を守るためには、たとえ善意からであっても政治には一切の秘密と嘘があってはならないのです。

確かに常に正直であるのは、厳しく辛いのです。

だが、嘘と秘密を抱えてばれないように生き続けるのは、さらに、厳しく辛いはずなのです。

なぜ、政治から嘘は消えないのでしょうか。

理由は利権なのです。

政治は、誰かのためにするものです。

そして、その財源は私達国民の納める税金なのです。

本当に必要があるなら、どんなに費用がかかっても理解されるです。

その為の増税なら、喜んで納めるのです。

確実に、国民のために使って欲しいのです。

そこに嘘があっては、ならないのです。

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犬も権力も権勢症候群にならないように注意しましょう。

「権力の犬」とは、よく聞く言葉です。

権力に忠実に従う人達をからかう場合に、よく使われます。

ところで、犬は群れで生きる生き物だと皆さんはご存知でしょう。

いう事を聞く手下が犬なら、当然そのトップが犬でもおかしくないのではないでしょうか。

権勢症候群と言う言葉、聞いた事があるでしょうか。

甘やかされた犬が自分がリーダーと勘違いして、主導権を取ろうとする一連の行動を言います。

対処法の一番の基本は、誰がリーダーか犬に自覚させる事です。

もしも指示に従おうとしないなら、リードをしっかり握って勝手を許さない毅然とした態度で望むのです。

諦めないで何度でも繰り返して、誰がリーダーか知らせなければなりません。

その代わり、従ってくれたらたっぷりと褒めて上げるのです。

次第に犬の行動は改まり、飼い主をリーダーとして受け入れるようになります。

権力も、同じではないでしょうか。

権力は主権者である国民から託されている限りにおいて、行使できる権限が認められるのです。

それが、国民主権であり、民主主義なのです。

けれども権力は、国民から託されていることを忘れると、思い上がるのです。

国民が自らがこの国の主人であるとの自覚が薄れると、権力は自分がリードを握らなければと思うようになります。

この事態を放置していると、権力は国民の上に君臨しなければならないと勘違いするようになるのです。

犬の権勢症候群と、どう違うのでしょうか。

国民は常に、権力に向かって主人として振舞うべきなのです。

権力は公僕として、国民に代わって公務を遂行する権限しか持っていないのです。

私達国民は、「権力の犬」と思うだけでなく「権力も犬」と思って接するべきなのです。

犬も権力も、主人が主導権を握らなければならない存在だからです。

違いがあるとしたら、権力の主人は私達国民だと言う事くらいです。

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