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聖書の神が求める思慮とは?


聖書の中には、一体何を言いたいのって思いっきり突っ込んでみたくなる聖句も少なくありません。
これも、そんな聖句の一つではないでしょうか。
箴言 1章 22 「思慮のない者たちよ、あなたがたは、いつまで/思慮のないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけり楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。
思慮がないって私だってちゃんと考えて生きてるんだよ神様何因縁つけてるんだ、そう反発したくなる人も多いのではないでしょうか。
でも神は言うでしょう。
あなたが考えてないとは言っていない、私の求めたいような内容や段階には程遠いのだ。
じゃあ神は、なんでそう私達に思慮がないと文句を言うのでしょうね。
こんな聖句があります。

マタイによる福音書 7章
3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。

自分の目に梁があると認めない者と思慮のない者を等しいと見れば、次の聖句の意味がより深く見えるかもしれません。
ここで言う、思慮とは神の御心にかなう思いでありましょうから。
神様に言いたいんだよ目に梁が入るわけないでしょうが、そう言うあなたの声が聞こえてきそうです。
目の中の梁がわからないのが、思慮が無いって事なのかと。
私達は自分が考えているつもりでも、人の言葉を受け売りしているだけかもしれません。
人の噂を真に受けているだけかも、しれません。
思い込みや思い違いや勘違いや早とちりに、気が付けていないのかもしれません。
知識や情報の不足に、気が付けていないのかもしれません。
神が言いたい目の中の梁とは、私達が気が付けていないうちに陥っているさまざまな誤りの全体なのでしょう。
神はさまざまな自らの不十分さに気が付けていないのに人に対してあれこれ突っ込んでいる人達を、偽善者と言いたいのかもしれません。

マタイによる福音書 7章
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

そして、偽善者とは神の御心にかなう思いとしての思慮がないのにあると偽る者でありましょう。

さらには、自分が気が付かないうちに陥った偽善もあるかもしれません。

気が付かないうちに陥った偽善の裏には、神の御心に気が付けていない思慮不足と言うなら、私達は一体どうしたら良いのでしょう。

ヤコブの手紙 1章
5 あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

途方に暮れてしまったなら、神である私に解決策をとことん聞きなさい。
神様、そういう事ですか。
はいはい、わかりました。
私達はどうせ、あなたの求める水準の思慮はできません。
神様、あなたを質問攻めにさせていただきます。
その代わり、ちゃんとご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

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