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なんで新約聖書に「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるのか。

聖書には、神は前もって告げ知らせないでは何事もなされないとあります。
アモス書 3章
7 まことに主なる神は/そのしもべである預言者にその隠れた事を/示さないでは、何事をもなされない。
考えて見れば、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言ってそこで止めているわけです。
例えばこの聖句のようにです。
マタイによる福音書 22章
32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。
出エジプト記でも、複数の聖句にアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神とあります。
名乗りをヤコブの神で止めているとは、つまり、ヤコブの12支族の全ての子孫の神と名乗っている事になりませんか。
そして12支族は、世界に散っているのです。
もちろん12支族と行動を共にしていた居留民も、世界に散っています。
居留民が自分達の祖先が祀っていた神の儀式をして主の怒りを買ったとは聖書のどこにもないなら、居留民もまた自分達の身を寄せていた支族と共に祈りに参加しているのではないでしょうか。
となればヤコブの神は、12支族と行動を共にした居留民の神でもあったとなりませんか。
実は、12支族と居留民の子孫は今や世界中の民族や部族になっているのではないでしょうか。
という事は、ヤコブの神は世界中の人々の神となっていると言い換えても良いとなるでしょう。
御父はそれを見届けた段階で、御子を贖罪の子羊として地上に送られたという事でしょうか。
御父はなぜもっと早くに御子を遣わされなかったのか、その理由はこれ以外にあるでしょうか。
イスラエルになぜ居留民はいたのか、私は全ての民の神であるとヤコブの神は人々に告げていたのでしょうか。
イエスは旧約聖書を、私について予言しているとしています。
確かに個々の聖句にも、イエスの預言となっているものは多いです。
では、イエスが全ての民の救い主となるとどのように旧約聖書では預言されていたのかとなります。
旧約聖書にも、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神はイスラエルやユダヤだけの神ではないと示唆する記述は見つかります。
しかし一番の預言とは、イスラエルやユダヤの民が世界に散る事であり、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と名乗っている正にその記述そのものにあるのかもしれません。

だからこそ新約聖書にも、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言う名乗りがあるのでしょう。
地上の全ての民はイエス生誕の時点で、ヤコブの子孫もしくはイスラエルの居留民の子孫のいずれかだったのでしょうから。

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